とうきび畑でつかまえて~5、bieiでkoiする5秒前①
5 bieiでkoiする5秒前
最繁忙期が終わり八月を迎えると、ミル・フルール富良野で慰労会が開かれた。
営業時間が終わると、園内の広場にバーベキューのグリルが設置された。お肉や飲み物などはすべて会社が負担し、参加費が無料のため大半のスタッフが出席していた。
短期で契約のスタッフは七月末で終了した。寮の廊下には荷造りの段ボールが並び、早くも別れの季節が始まっている。息吹の契約期間もようやく折り返し地点を迎えた。
スタッフはショップごとに集まり、乾杯の挨拶があると手分けして肉やお酒をかき集めた。お肉は争奪戦のため、焼いてもすぐになくなってしまう。群がる人々に跳ねのけられ、息吹は泣く泣く自分の椅子に戻った。
戦利品は焼き野菜のみだった。ピーマンや人参、玉ねぎにとうきび。焼肉のたれも確保できず、息吹は素のまま野菜をかじる。
今日も一日よく働いた。くたくたの身体に、野菜の甘みが染み渡るようだ。輪切りのとうきびは実がぎっしりと詰まり、ひとつでも食べごたえがあった。
「息吹さん、全然食べてないじゃないですか」
売店ラベンダーのスタッフもはじめこそ一緒にいたが、やがてみな散り散りに好きな席に移動していった。気心の知れた寮のメンバーと話すほうが楽しく、とうきびをかじる息吹に声をかけたのはつかさだった。
「ガーデナーの男子がお肉を焼いてるんです。一緒に行きましょう」
バーベキュー台で食材を焼くのは男性の仕事らしく、ガーデナーの社員が炭火と格闘している。
「飲み物は足りてますか? ワインもらったんですけど、あたし悪酔いしちゃうから、よかったらどうぞ」
へそ祭りで失敗したつかさは、アルコール度数の低い缶チューハイを飲んでいる。場の雰囲気に気が緩み、息吹はミニワインのボトルを開けた。
最盛期のミル・フルールは顔を知らない人もいるが、みな大繁忙期を乗り越えた戦友だった。余興では有志のスタッフがダンスを披露したが、それもあの激務の合間を縫って練習したのだと思うと頭が下がる。
「安達さん、お肉焼けてますよ」
そう声をかけたのは黛だった。彼も男子社員のひとりとしてジンギスカンを焼いていた。
「黛さん。さっきはワインありがとうございました」
息吹が飲むワインの出所は黛だったらしい。彼はつかさの紙皿にジンギスカンを盛り、足を止めさせることに必死だった。
似たような光景が会場のあちこちで見受けられる。ガーデナーの男子は売店スタッフとの交流が少ないため、慰労会が出会いの場なのだろう。若い女子はたくさんお肉を食べているが、息吹は炭化した肉しかもらえない。その差が露骨すぎて笑うしかなかった。
息吹はワインが頭に直撃してしまい、会場の隅の席に座る。焦げたジンギスカンをつつくと、目の前に和奏が座った。
「息吹、なんでこんな隅っこで飲んでるの?」
彼女はすでに出来上がっているらしく、空のプラスチックカップを持て余している。ビールは自分でサーバーから注ぐのだが、もう残っていないらしい。息吹は飲みきれないワインを彼女に譲った。
「つかさ、モテモテだね」
彼女のまわりには黛だけでなく、たくさんの男性スタッフが集まっていた。本人は気づいていないが、みな、つかさと仲良くなろうと必死らしい。
「慰労会って、年に一度の出会いの場って感じですね」
「そうだね。男子社員の気合の入りっぷりがすごいわ」
こうしてラベンダー・ラブが始まるのだろう。実際、ミル・フルールでは社員やスタッフ同士のカップルが多いと聞く。炭火が落ち着き焼くものがなくなると、男子社員も目当ての女子と二人になろうと熱心に口説いていた。
黛とつかさの行方を見守るべきか。悩むが、あまり過保護になるのもよくない。やがて会場では撤収作業が始まり、息吹もお皿や紙コップが放置されたテーブルを片付けた。
立ち上がると足元がふらつくが、まだ許容範囲だ。和奏はほかのスタッフと飲み続けるらしく、息吹はひとりで会場を離れた。
ラベンダー畑は会場の照明を受け、夜闇を浮かび上がるようにライトアップされている。スマートフォンのカメラにおさめ、息吹はそれを穂高に送った。
『今日は慰労会でバーベキューだったよ。ラベンダーのライトアップ、綺麗でしょ』
メッセージを添えるとすぐに既読がついた。
『知ってる。慰労会で出してる野菜、全部うちのだから』
慰労会はあくまでもスタッフのために開かれており、取引先の稲瀬農園は呼ばれなかったらしい。寂しそうな表情をしたスタンプが届いた。
息吹は発信ボタンを押していた。
「――もしもし? なした?」
「ちょっと、声が聞きたくなって」
「いいけど慰労会だろ? みんなと楽しくやればいいじゃん」
「お肉食べたからもういいの。お酒飲んだし、歩いて帰ろうと思って」
自転車は寮に置いてきた。歩いて帰れば酔い覚ましにちょうどいいだろう。
足元が多少あやしいが、歩き慣れた道なら問題ない。夜風が冷たく、息吹はパーカーを首まで閉める。うだるような暑さの七月が終わり、季節は徐々に移ろっていくのだろう。
道端の草むらから虫の声が聞こえ、それに耳を澄ますと道の先に人影が見えた。
「見つけた」
受話器越しの声に合わせ、人影が手を振る。そこで穂高は通話を終了した。
「わざわざ来てくれたの?」
「声、酔ってたから心配で」
彼は水の入ったペットボトルを持っていた。問答無用でそれを突き出され、息吹は蓋を開ける。お酒で火照った身体に、澄んだ水が隅々まで染み渡る。
へそ祭りの日から、穂高とは連絡を取り合う仲に戻っていた。
祭りの二日目はふたりでへそ踊りを見た。彼は参加チームについて詳しく解説をしたあと、出店に行ってグルメに舌鼓を打った。
夜はそのまま解散し、メッセージのやりとりは毎日続いている。
「息吹はお盆も毎日仕事だっけ?」
「そうなの。七月の連休にお休みもらったから、お盆は違う人に譲らないと」
慰労会が終われば第二の繁忙期、お盆休みが待っている。しかし、観賞用のラベンダーも色あせ、七月ほどの忙しさはないだろう。
「八月は富良野市で花火大会があるんだけど、行く?」
「花火は七月に見たからもういいかな。むしろ静かなところに行きたい」
そっか、と穂高は相槌をうつ。しばし無言で歩き、ややあってから口を開いた。
「じゃあさ、早起きして美瑛(びえい)の青い池に行かない?」
美瑛町は旭川市と上富良野町の間にあり、青い池は人気の観光スポットだった。マッキントッシュの壁紙に採用されたことで世界的に有名になり、富良野のラベンダーとセットで訪れる人が多い。息吹も存在こそ知っているが、公共交通機関で行くには不便な場所にあるため未踏のままだった。
「昼間に行くと激混みだけど、早朝は空いてるんだ。雲海の時ほど早起きじゃないし、出勤の時間までに帰って来れるから」
「いいけど、穂高の仕事は大丈夫なの?」
「お盆は妹が帰ってくるから、おれもすこしはサボれるんだ。ミル・フルールまで送るから、制服も持っていくといいよ」
「わかった。頑張って早起きする」
寮までの帰り道はうんざりするほど長いが、穂高が一緒だと退屈しないから不思議だ。トワの無人販売所にさしかかり、シャッターの閉じた小屋を見て息吹は振り向く。
「バーベキューのとうきび、稲瀬農園のだってすぐにわかったよ」
今日のバーベキューで一番おいしかったのが、焼き野菜だった。
「わたし、野菜ってあんまり好きじゃなかったんだけど、稲瀬農園のは本当においしいね。食べてすぐ、穂高の顔が浮かんだんだ」
「毎日愛情込めて世話してるからな」
得意げに彼は笑う。やがて道の先に寮の明かりが見えた。以前と同じように、彼は寮から離れた場所で足を止める。
「ちゃんと部屋まで行けるか?」
「大丈夫、酔いも醒めたし」
息吹は軽く飛び跳ねてみせたが、それこそまだ酔っている証拠だ。バランスを崩す身体を、穂高が抱き留める。
「……ごめん」
「酔っ払いめ」
Tシャツ越しに、彼のぬくもりを感じた。
厚い胸板の向こうに聞こえる心臓の音。それよりも、自分の胸が早鐘を打つ。
頬に彼の吐息がかかった。花火大会のとうきびの味を思い出し、息吹はまぶたを閉じる。
けれど。
「――おやすみ」
なかば引きはがすように、穂高は身体を離した。
「青い池に行くの、十一日にしよう。五時ごろ迎えに行くから寝坊するなよ」
そう言い捨て、彼は来た道を戻っていく。決して振り向こうとしないその背に、息吹は声をかけた。
「送ってくれてありがとう」
すたすたと足早に歩く穂高が、片手をあげてそれに返した。
約束の八月十一日は、国民の祝日である山の日だった。
前日に早く就寝したため、身支度を整えていても眠気を感じなかった。混雑する観光地には早朝に行くのが鉄則。駐車場には賢い観光客の車が数台停まっていたが、青い池へと続く遊歩道に人の姿はほとんどなかった。
美瑛町の青い池は河川工事の際に偶然発見された。アルミニウムを含んだ水が美瑛川の水に混ざると特殊な粒子を生成し、それが太陽の光をまんべんなく散乱させるらしい。波長の短い青い光が散乱されやすいため、その光が目に届き青く見える――と看板にあった。
白樺並木の道を少し歩くと、視界が開けた先に大きな池が見えた。
「……本当に、池が青く見えるんだね」
はじめて見た青い池に、息吹はため息まじりの感嘆をもらした。
「見る時間帯によっても、青く見える時と緑に見える時があるんだよ。夏もいいけど、雪が積もった池も綺麗なんだよな」
穂高は何度も訪れたことがあるらしい。白樺は池の中からも生え、青く見える水面がそれを鏡のように映している。昼間に訪れるとまた池の色が違って見えるらしいが、普段は観光客でごった返すため景色どころではないだろう。転落防止の手すりには切れ間があり、息吹たちはそこに腰を下ろした。
「腹、減ってない?」
「平気。朝はそんなに食べないから」
そう返し、息吹は彼が空腹なのではと気づく。車内でも甘い缶コーヒーを飲んでいた。
気をきかせてなにか持ってくるべきだったか? しかし、手作り弁当を持っていくのはそれこそ彼女のようではないか。
息吹の葛藤も知らぬまま、穂高は法面に足を投げ出し景色を堪能している。差し込む朝日に目を細める姿は、まるでひなたぼっこをする猫のよう。彼があくびをすると、息吹もそれにつられてしまった。
「眠い?」
「ううん、あたたかくて気持ちいいだけ」
朝は陽射しもやわらかく、あたりは静寂に包まれている。何気なく振り向くと、ふたりの影が寄り添うように伸びているのが見えた。
穂高も息吹の視線をたどり、影に気づく。
「……あのさ」
意を決したように、彼は口を開いた。
「息吹と、ちゃんと話したかったんだ」
彼とはたびたび顔を合わせているが、花火大会やへそ祭りは常に混雑していた。喧騒の中だと会話も途切れ途切れになってしまい、じっくり話したことはあまりない。
「慰労会の日もふたりだったじゃない?」
「あの時は息吹も酔ってたから。ちゃんと素面の時に話したくて」
息吹は別にのん兵衛ではないのだが。それを主張すると、彼は「知ってるよ」と返す。
「酔ってる息吹に告白しても、きっと、その場の勢いで返事をするだろうからさ」
地べたに置いた手に、彼の手が重なった。
「息吹、おれと付き合ってくれない?」
彼の瞳が、まっすぐに息吹を見つめた。
「……なんで?」
とっさに、その言葉が口を出た。
「わたし、穂高に自分のだめなところしか見せてない」
恋愛で苦い経験をし、自分本位の婚活ばかりを繰り返していたことを彼は知っている。穂高には年上らしいところをひとつも見せていない。
花火大会の日。酔いに任せ、花火に向かって叫んだ自分は我ながらひどかった。
「実はおれもそう思う」
彼も自覚していたのか、ため息まじりにそう言った。
「根っからの都会人で田舎なんて好きじゃなさそうなのに、なんで富良野で婚活してるんだろうって思った。札幌の婚活で失敗した話とか、いい年してイタいなって思ったし。なにより五つも上で、最初は全然そういうつもりじゃなかったし」
彼はいま、自分に告白しているのではないか? それにしてはあんまりな言いようだ。しかもそれが図星すぎて言い返せず、息吹は口を開閉するしかできない。
「花火の日も酔っぱらってぎゃーぎゃー騒ぎ出すし。まわりに知り合いがいたらどうしようって焦ったし」
「……悪かったわね」
「でも、そこではじめて、本心が聞けたと思ったから」
花火大会の夜。自分は、愛されたいと叫んでいた。
「息吹が弱ってるところにつけこんだみたいで、自己嫌悪でいっぱいになった。だからしばらく連絡できなかった。おれがしたことは、息吹を傷付けたやつと同じだったから」
「それは違うよ」
「違わない」
穂高はかぶりを振る。
「こないだの慰労会の時も、息吹が酔ってるのをいいことに自分の気持ちを押し付けようとした。きっと許してくれるだろうって思った。でもそれはおれの都合で、息吹には息吹の気持ちがあるんだから……」
白樺の木々の向こうから、車のエンジン音が聞こえる。太陽が高くなるにつれ観光客が増えてきたようだ。彼もそれに気づいたのか、握っていた手を離した。
「対等に話せる時に、自分の気持ちを言いたかったんだ。返事はすぐじゃなくていいから」
訪れたのは団体客か、賑やかな声が聞こえてくる。穂高はすっくと立ちあがり、お尻についた葉っぱを払った。
「帰ろう」
手を差し出され、息吹は素直にそれをとる。
「できれば、これからもこうしてたまに会ってくれると嬉しいけど」
「……それは、わたしもそう思う」
早朝から思いがけない話を聞かされ、水面を照り返す太陽の光に頭がくらくらした。
こんなにもまっすぐに、気持ちを伝えられたのははじめてだ。
いままでの自分なら、すぐに返事をしていただろう。彼の気持ちに、嬉しいと、素直にうなずくことができただろう。
けれど、いま、何も言えない自分がいる。
彼に抱くこの気持ちに、名前を付けることができない。
はたしてこれは恋心なのか。
それとも、執着心が引き起こす勘違いなのか。
青い池を早めに撤収したため、中富良野町に戻っても時間に余裕があった。
寮まで送ると、穂高はいつもの通勤路を走った。農家の朝は早く、畑に出て働く人の姿が見える。車内では互いに口数も少なく、息吹は通いなれた道をぼんやりと眺めた。
無人販売所は開店前だが、今朝はそこにトワの姿があった。
「――これ、穂高!」
軽トラにトワが叫ぶ。穂高が慌ててブレーキを踏んだ。
「妹に仕事を押し付けて、朝っぱらからどこに行ってたんだい!」
「ごめん、ばあちゃん」
窓ガラスのハンドルを回し、穂高がトワと話す。おかんむりだったトワは、助手席に座る息吹に気づくと口調を少しだけ弱めた。
「……ふん、そういうことかい」
ひとり納得し、彼女は息吹を見る。
「朝ご飯食べていきなさい。どうせ何にも食べてないんだろう」
タイミングよく穂高のお腹が鳴る。息吹は断る理由が見つからぬまま、稲瀬家にお邪魔することになってしまった。
いつも夜の時間に訪れていたため、明るい空の下だと雰囲気が違って見えた。息吹の実家は新興住宅街にある現代風のデザインだったが、古くから住む人の多いこの地域は昭和に建てられた家が多い。豪雪地帯である富良野は家屋の雪下ろしも一苦労であり、屋根をわざと急斜面になるよう設計していた。
玄関で靴を脱ぐと、気配を察して顔を出したのは穂乃花だった。彼女は息吹のことを覚えてくれたらしく、「いぶ!」と呼んで足にまとわりつく。
「なんで穂高と一緒なの?」
「おっきいばあちゃんが、穂高に連れてきてくれって頼んだんだよ。息吹は友達だからね」
絶妙なフォローを入れるあたり、さすがである。穂高の母親にも同じ説明をし、息吹がミル・フルールで働いていることを告げた。
「都会の子だから田舎が珍しいんだってさ。せっかくだし朝ご飯でも食べさせてやろうと思ってね。いいだろ? 菜緒子(なおこ)さん」
両親や穂乃花は先に朝食を済ませていたらしい。母親――菜緒子は息吹に怪訝そうな視線を向けたが、姑の言うことには逆らえないようだ。「私は買い物に行くから、自分たちで勝手にやってよ!」の口調はすこし厳しかった。
「一穂(かずほ)も、朝っぱらからいつまでお風呂入ってんの。さっさとご飯食べちゃいなさい!」
そう叫ぶ先にお風呂場がある。朝食を運ぶ手伝いをしていると、頭にバスタオルを巻いた若い女性が現れた。
「ばーちゃん、牛乳飲みたい」
湯上り姿の彼女は、ショートパンツからまっすぐな脚を出していた。以前、穂高に妹がいると聞いたことがある。両手にお味噌汁を持つ息吹を見て、一穂と呼ばれた彼女は兄とよく似た目で瞬いた。
「あなたが穂高の彼女?」
「違います」
即答する息吹に、彼女が噴き出す。
「つまり、失敗したのね。せっかくあたしが仕事代わってあげたのに」
彼女は冷蔵庫の扉を開け、牛乳パックに直に口をつけた。
「これ、行儀悪いよ一穂」
「いーじゃん、洗い物減るし。あたしはいつも家でこうだよ」
「ひとり暮らしでもちゃんとしなさいって言ってるしょ。あんたも来年は社会人なんだよ」
彼女はトワの注意も聞かず、牛乳パック片手に居間へと向かう。さりげなく、かぼちゃの煮つけの器を持って行った。
「おかえり穂高。なに、結局フラれたの?」
「フラれたら一緒にいないから」
「でも、彼女じゃないって言ってるよ」
「なんでもずけずけ聞いてくるなよ。こっちにはこっちの都合ってもんがあるんだから」
息吹の前ではすこし大人びた態度をする穂高だが、妹の前だと素が出るらしい。彼は唇を尖らせながらかぼちゃの煮つけをつまんだ。
ひととおり朝食を運び終えると、居間で食卓を囲む。穂乃花は食事を終えているはずだが、息吹の隣に座った。白米と味噌汁に漬物とかぼちゃの煮物、じゃがいもとウインナーの炒め物と炭水化物が多いが、朝からしっかり食べるのは久しぶりだ。
「さあさ、たんとおあがり」
「いただきます」
早起きだったためお腹が空いていた。稲瀬家の味噌汁は野菜がたっぷり入っている。かぼちゃの煮つけは甘く、炒め物のじゃがいもは口に入れるとしゃきしゃきとした食感が楽しかった。
「お野菜が何を食べてもおいしいです」
食べるごとに感動する息吹に、穂乃花が熱心に話しかける。
「昨日とれたはつものなんだよ。はつものを食べるとじゅみょうが三年のびるんだよ」
「穂乃花ってば、年寄りみたいなこと言って」
そう苦言を呈しつつ、一穂の箸も止まらない。食卓を囲むと会話も弾み、彼女が札幌の大学に通う四年生であるを知った。息吹も札幌に住んでいると知ると、就職活動中の彼女が瞳の色を変えて食いつく。
「息吹さん、どこか企業にコネはありませんか?」
「わたしもいまはフリーターだから……」
息吹が働いていた製菓会社は女子に人気があるが、四年制の大学に通う彼女にはもったいない気もする。ましてや自分は不義理をはたらいて辞めた人間であり、就活生を紹介できるような立場ではない。
「一穂ちゃんは地元に戻ってこないの?」
「絶対、嫌です」
彼女は親の仇でも打つようにウインナーをかじる。
「大きい会社に入ってそこの社員と結婚します。絶対、農家の嫁にはならない」
彼女の言葉には並々ならぬ決意が込められている。呆気にとられる息吹に、穂高は鼻で笑いながらご飯を頬張った。
「せっかく大学行かせてもらってるんだから、やりたい仕事に就けよ。そんな腰かけみたいな考えでいるとどこも雇ってくれないぞ」
「穂高に言われたくないね。農家だって夏は忙しくても、冬は遊んでばっかりじゃん」
「農家には農家のやりかたがあるんだよ。仕事に対する考えはどの職種でも同じだ」
朝っぱらから兄妹喧嘩が始まったが、稲瀬家ではいつものことらしい。お茶を飲んでいたトワは痛む足をこらえながら立ち上がった。
「息吹、仕事はまだ間に合うかい?」
「八時半に着けばいいから、まだ大丈夫です」
「じゃあ、デザートも出してあげようかね。穂乃花もみんなの見て食べたそうにしてるし」
一歩一歩ゆっくり歩くトワを穂乃花が追う。息吹も手伝おうとしたが、正座の足がしびれて動けなかった。そのかわりに、穂高が食器を片付けながら立ち上がる。
「ほのかサイダーがいい」
「朝からそんなに食べ切れるのかい?」
「残したらおれがもらうよ。おれのぶんはいいから、一穂と息吹に出してやって」
台所からそんなやりとりが聞こえる。ややあって戻ってきた穂高が持つ皿を見て、息吹は思わず声を上げた。
「メロン……!」
「嫌いだった?」
そんなわけがない。ぶんぶんと首を振る息吹の前に出されたのは、四分の一サイズにカットされた赤肉メロンだった。
北海道の特産品として有名な夕張メロンと同じく、富良野も赤肉メロンを栽培している。ミル・フルールでも販売しているが、それなりの価格で手が出せなかった。
穂乃花のぶんは大胆な二つ切りだ。真ん中の種をくりぬいてあるが、息吹の家ではそんな姿で出てきたことなど一度もない。呆気にとられる横で、穂高がペットボトルのサイダーを開けた。小気味よい音を立て開封したそれを、彼は穂乃花に手渡す。
穂乃花はなんのためらいもなく、サイダーをメロンの穴に注いだ。
「――もったいない!」
狼狽する息吹をよそに、穂乃花はスプーンでメロンをぐちゃぐちゃにかきまぜる。貴重なメロンになんてことをしているのか。息吹は慌てふためくが、ほかの大人たちは何とも思っていないようだ。
「あたしも昔はそうやって食べてたよ。毎日メロンだと飽きちゃうから」
「毎日メロン?」
「この辺メロン農家が多いからさ、傷がついて出荷できないやつをおすそ分けしてくれるの。サイダーを入れるとフルーツポンチみたいになっておいしいんだよ」
「フルーツポンチ?」
これが農家で育った子供の感覚か。息吹は愕然としながら、目の前に出されたメロンにスプーンをさした。
メロンなどお中元で来るか来ないかの世界であり、スーパーでお金を出して買うものだ。これほど大きな赤肉メロンを購入しようとすれば、それなりのお金がとんでいく。
熟れた果肉は手ごたえ軽くスプーンにおさまった。果汁が柄を伝い、指先が濡れる。はやる気持ちをおさえ、息吹はおそるおそる口にふくんだ。
「――――!」
おいしくないわけがない。言葉にならない声をあげる息吹を見て、にんまりと笑う稲瀬家は四人とも、どこかしらがそっくりだった。
「農家に嫁いだら、毎日おいしいものたっくさん食べられるよ」
一穂がテーブルに頬杖をつきながら言う。
「これから収穫の時期だから、初物の野菜楽しみにしててね」
毎日おいしいものが食べられるなら、農家の嫁もいいかもしれない。
そう思わせてしまうほど、メロンには甘美な誘惑があった。
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