見出し画像

アメイジング・レイニー・ソング①

【あらすじ】
 美綾の住む町には、雨の日に音楽を奏でるからくり装置がある。
 それを作るのはいとこの天彦。アメ兄と慕う彼は高校生だが、学校に通わず家に引きこもっている。しかし、それは彼が透明人間になってしまったから。その秘密を知るのは美綾だけだった。
 美綾の通う中学では、合唱部がクリスマスコンサートに向けて練習を重ねている。日がな天彦の家に入り浸っていた美綾は部活で訪れる頻度が減り、やがて天彦に「もう来るな」と言われ、拒まれるようになってしまう。
 天彦にはピアノの才能があったが、透明人間になると同時に演奏をやめてしまった。なぜ彼は透明人間になってしまったのか、美綾は完全に姿を消してしまった彼を懸命に探すーー



 七月はにわか雨の子犬のワルツ。
 八月は天気雨の愛の挨拶。
 九月は台風の幻想即興曲。
 毎月変わるその音楽を聴けるのは雨の日だけだった。
 さて、今月の曲は何だろう。わたしは傘をくるくるとまわし、放課後から降り始めた雨音に耳をそばだてる。
 中学校から歩いて十五分。町営団地の並びを抜け、住宅街を歩くとやがて現れる日本家屋。町でも五本の指に入る大きな家には、手入れの行き届いた広い庭があった。
 かつて鯉を飼っていた池は、雨粒が落ちて幾重にも波紋を広げている。毎年おいしい野菜をつくる家庭菜園にとっては恵みの雨だが、トタン屋根の物置は雨漏りが心配になるほど古びていた。
 庭に等しく降り注ぐ雨粒から、音楽が、聞こえる。
 ピアノやオルゴールではない。ぴちゃん、ぽちゃんと落ちる雨だれが、メロディとして聞こえてくる。
 よく耳にするクラシック音楽。けれど、リズムが乱れている。音が重なったり変な間が空いたり、曲を最後まで演奏できずに止まってしまったり。
 十月の音楽はまだ完成していないようだった。
「――ねえ、アメ兄(にい)」
 わたしはその音楽を奏でるからくり装置に声をかけた。
 屋根の雨どいに取り付けられたからくりは、鉄パイプやペットボトルの中を流れ、雨だれを鍋やバケツに落として音を鳴らす。それぞれ決まった時間に決まった音が鳴るように計算されたそれは、ぴちょん、ぽちゃんとそれぞれの音が重なって、ひとつの旋律となり音楽を奏でていた。
 雨水の通り道には、遊び心でじょうろや水車が取り付けられている。からくりをつなげるボルトを、スパナががちゃがちゃと音を立てながら行き来していた。
 ボルトは錆びついて固まっているらしく、しばらく悪戦苦闘したあと、ようやく外れた。それを新しいものと取り替えるために、工具箱から新しいボルトが取り出され――空を飛ぶ。
 スパナやボルト以外、なにも見えない。それだけが宙を浮いて、せわしなくからくりをいじっていた。
 わたしはその光景に驚きもせず、淡々と声をかける。
「今月の曲はなに?」
「リストの「ラ・カンパネラ」だよ」
 質問すれば、答える声がある。少しかすれた低い声は、傘を叩く雨音に負けずはっきりと耳に届いた。
「うまく音が鳴らないんだ。計算はあってるはずなんだけど」
 なにがおかしいんだろう、と、からくりを小突くスパナ。それを握る手が雨に濡れ、声の主の身体が少しずつ浮かび上がる。
「どこかの部品が足りないとか?」
「いや、単純に調節が甘いんだと思う」
 庭に植えられた樹木や花々が、雨粒に打たれ小さく揺れている。遮るもののない雨粒はそのまま地面に落ちるはずだ。けれどわたしの目の前だけは、雨水が宙にとどまり彼の存在を伝えた。
 降りしきる雨が、徐々にその輪郭を縁取っていく。はじめに現れたのは、ぐっしょりと濡れた髪と頭。次は少し骨張った肩、そして広い背中。地面に跳ね返った雨粒がサンダルを履いた足を形作っていく。
 雨に濡れたところだけが、まるで絵を描くように彼の姿を現していく。前髪が額にはりつき、目に入った雨水を手で拭うと顔が浮かび上がった。
「……なあ、美綾(みあや)」
「なに?」
「その傘を、おれにさしてはくれないわけ?」
 恨めしげな視線を受け、それでもわたしは傘を自分のためにだけに使う。雨に打たれる彼は、頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れになっていた。
 晴れの日の彼は、誰の目にも映らない。
「いいの。アメ兄が見えるなんて雨の日ぐらいだから」
「美綾はいつもそうやって、おれを雨の中放り出すよな」
 身体に張り付くシャツを気持ち悪そうに引っ張るアメ兄は、わたしの親戚のお兄ちゃんだ。
 そして、透明人間でもあった。

     〇〇〇

 アメ兄こと駒木(こまき)天彦(あまひこ)がわたしの住む田舎町にやってきたのは、彼が中学一年生、わたしが小学校四年生の時だった。
 彼とわたしは父親同士が兄弟――つまりいとこの関係にあたる。幼いころに両親が離婚したアメ兄は、小学校卒業まで遠く離れた街で母親と暮らしていた。けれど中学入学を機に父親に預けられ、この町に戻ってきたらしい。大人たちはひそひそと噂話に花を咲かせていたけれど、わたしは突然できた年の近いいとこが嬉しくてたまらなかった。
 彼はわたしの家の近くに住み、一軒家で一人暮らしをしている。アメ兄が透明人間になったことを知るのは、毎日のように彼の家に通うわたしだけだった。
「暑い暑いと思ってたら、彼岸あけたとたん雨が冷たくなってきたな。風邪ひきそうだ」
 悲鳴混じりの声をあげながら、アメ兄が濡れた髪をタオルで拭いている。からくりを無事完成させたのはいいが、全身ずぶ濡れで下着まで染みているに違いない。彼は服を脱ぎながら脱衣所へと消えた。
 勝手知ったるアメ兄の家で、わたしは座布団の上でホットココアを飲む。茶の間から庭に続く縁側が見え、先ほどのからくりが軽快に音楽を奏でている。雨脚が強まり、先ほどよりも音楽のテンポが速くなっていた。
 十月の音楽はリストのラ・カンパネラ。一音一音が短く、弾むような音が織りなす旋律はピアノでも難易度が高い。けれどアメ兄のからくり装置は一音一音が独立して鳴っているため、リズムさえ揃えば難しい曲も難なく演奏できるようだった。
「美綾、寒かったらストーブつけていいぞ」
 わたしは言われる前からストーブをつけていた。アメ兄は寒い、寒いと呟きながら、ソファーに放っていたパーカーを羽織る。シャワーを浴びず着替えただけの彼は、部屋を暖めておかないと風邪を引いてしまうに違いない。
 アメ兄の姿はすこしずつ薄くなっていた。羽織ったパーカーが身体と一緒に透けていく。彼が身につけたものは身体と同化するのか、一緒に透明になるため裸で生活する必要はなかった。
 彼はからくりの出来に満足したようで、鼻歌まじりに台所でコーヒーを淹れている。アメ兄の家は純和風な平屋で、ローテーブルと座布団でくつろぐ生活がわたしの家とは正反対だった。
「美綾もコーヒー飲むか?」
「ううん、ココア飲んでるからいい」 
 アメ兄は十六歳。この春に高校に進学したが、途中から通わなくなりいまに至る。近所では引きこもりと言われているけれど、透明人間になってしまっては学校に行っても誰も気づかないだろう。彼は大人が家に入ることを拒み、唯一わたしだけが自由な出入りを許されていた。
 台所から戻ってきたアメ兄が、ココアのマグカップにマシュマロを入れる。ストーブの前で乾かす制服のブレザーに気づくと、ハンガーに掛けていたネルシャツを貸してくれた。
「テレビつけないのか?」
「音楽を聴いていたいの」
 そうかと呟きながら、彼はわたしの隣に座る。テーブルに広げた宿題を覗き込み、自分も一冊のノートを広げて鉛筆を握った。
 頭に乗せたタオルを外すと、髪はだいぶ乾いていた。切りそろえた剛毛がこけしに見えかねないわたしと違い、猫っ毛のやわらかな髪は色素が薄い。ノートに書き込むまなざしは真剣で、その瞳は濁りのない飴色をしていた。
 血のつながったいとこであるはずなのに、わたしとアメ兄はちっとも似ていない。
「それ、からくりのあたらしい設計図?」
「そう、来月のぶんのな」
 覗き込むわたしに、アメ兄は見やすいようにノートをずらす。ノートの隙間にはカレンダーの裏紙を使った殴り書きもあった。透明人間になった彼は毎日を家の中で過ごし、気が向くとからくりの設計図を描いていた。
「次は何の曲にするの?」
「それはできてからのお楽しみ」
 緻密に書き込まれた設計図を見ても、わたしには仕組みがさっぱりわからない。五線譜の楽譜もなく、音符のかわりに数字を並べていた。
「なんでそんなに複雑にするの?」
「手がかかるほうが作ってて楽しいんだよ。音を鳴らすのは簡単だけど、それじゃ遊び心がないからさ」
 手先の器用な彼は、子どもの頃から段ボールや輪ゴムを使った工作が好きだったらしい。雨のからくり装置を作りはじめたのは、大きな屋根と長い雨樋のあるこの家に住み始めてから。広い庭はDIYにうってつけで、アメ兄は物置にあったがらくたを再利用してからくりの部品にしていた。
 宿題のやる気が出ない。わたしはスカートがしわになるのもかまわず寝転がる。古い家は底冷えするため、床には電気カーペットが敷かれそのあたたかさを直に感じた。
 アメ兄が鉛筆を動かす音は不規則で、外からは雨の音楽が絶えず流れている。わたしはうとうととまどろみながら、からくりが奏でる音色に耳を傾けた。
 毎月変わる音楽は童謡やクラシックなど親しみのあるものばかりで、最近の流行曲は選ばれない。演奏できる時間にも限りがあり、オルゴールのように同じフレーズを繰り返し流すようになっている。雨量によってもリズムが変わるため、わたしはちょうど良いテンポを刻む、今ぐらいのざあざあという雨足が好きだと思う。
 電気カーペットとストーブで身体があたたまり、猫のようにうんと身体を伸ばすと、手がアメ兄にぶつかってしまった。
「あ、ごめん」
 邪魔をしてしまっただろうか。身体を起こすと、彼の姿は完全に消えていた。
 それでも、触ることはできる。ぶつかった手で遠慮なく触れてみるが、わかるのはジーンズのしわだけだ。
「ここ、どこ?」
「太もも」
「ここは?」
「腹」
「太った?」
「つまむな」
 面白くてべたべたと触る。肩、腕、頭。わき腹をくすぐると怒られた。
「今日はどうする? 晩御飯食べてくか?」
「泊まる」
「それはだめ」
「別にお母さんはいいって言ってるよ?」
「おれがだめなんだよ。家も近いんだから、自分の布団で寝なさい」
 透明人間のアメ兄が姿を現すのは、水に濡れて乾くまでのわずかな間。だからわたしは、雨が降ると必ず彼の家に行く。晴れの日でもこまめに顔を出しているけれど、顔を見て話せる時間はとても貴重だった。
 アメ兄が透明人間になってどれぐらい経つだろう。十六歳の育ちざかり、身体はすくすく成長しているようで、姿が見えたときにその変化に驚くことがある。ここ数ヶ月で背が伸びたのか、ズボンの裾が足りず足首が見えていた。
「食べ物は困ってない?」
「今朝届いたばっかりだよ」
 透明人間である以上、買い物など苦労も多いはず。けれど彼は宅配サービスを利用して食料を確保している。欲しいものはすべて通信販売。人間、インターネットがあれば案外どうにでもなるようだ。たまに特売のおつかいを頼まれるあたり、決して裕福な生活をしているわけではないのだけれど。
「ねえ、もう一回外に出てお話ししよう?」
「却下。もう雨も冷たいから、風邪引くと大変なんだよ。おれ、病院とか行けないんだからさ」
 そう言って、彼がくしゃみをする。心なしか鼻声になっているようだ。
「風邪引いたの?」
「さっきの雨で身体が冷えたんだよ」
「じゃあお風呂はいってきたら?」
「美綾にのぞかれそうだからやめとく」
 わたしはアメ兄の頭を小突く。空振り覚悟だったけれど、やわらかな髪の手触りが手に残った。
「冗談だよ、冗談」
 少しむっとした声をして、彼がわたしの手首をつかむ。手の形に合わせて肌がすこしへこんだ。突然のことに驚いたけれど、わたしは動揺を悟られないように無表情を装う。
 姿が見えないと、不意の動きに驚かされることが多い。
 つかまれた手首から、アメ兄の体温を感じる。雨のにおいに混じって、かすかに彼の身体のにおいがした。
 目が合う。見えなくてもわかる。今、アメ兄はわたしの目を見ている。飴色の瞳で、わたしを見ている。
「……風邪薬とか、ちゃんと持ってるの?」
 顔が赤くなるのを感じ、わたしは目をそらした。
「探せばあると思うけど、古くなっているかも」
 自分でもわからないのだろう、その声が自信なさげだ。彼は手を離して立ち上がり、台所へと歩いていった。
「今週は雨予報ばかりだから、晩御飯も多めに作っておかないとな」
「あ、それなんだけどね」
 切り出すわたしに、アメ兄が振り向く。服の音でわかる。ここらへんだろうな、と目星をつけて、わたしは顔を見た。
「明日から部活が忙しくなるから、放課後すぐに帰れないんだ」
 わたしは中学で合唱部に入っていた。十二月のクリスマスコンサートが近づき、これから練習時間が増えていくと部長に言われたばかりだ。
「クリスマスにゴスペル歌うの。招待状作るから、アメ兄も聴きに来てね」
「そっか、もうそんな時期か……」
 呟きながら、彼は冷蔵庫を閉める。にんじん、たまねぎ、じゃがいも、豚肉。今日の夕飯は肉じゃがのようだ。
「もう日も短くなるし、寄り道しないでまっすぐ帰ったほうがいいな」
 スイッチを押して、台所の電気がつく。けれど、そこにアメ兄の姿はない。ひとりでに戸棚が開き、ザルやボウル、お鍋が宙を飛ぶ。包丁がふよふよと浮く姿は見ていて少し怖いものがある。
「部活終わったら、アメ兄の家でも練習しちゃだめ? ここで晩ご飯食べて、そのあとに」
「だからだめだって。あんまりおれの家に入り浸るなよ」
「だって、アメ兄に伴奏してほしいんだもん」
 彼の家の純和風の居間に、ひとつだけそぐわないものがある。
「……あのピアノは調律が狂ってるから駄目だよ」
 それが一台のピアノだった。
 学校の音楽室にあるグランドピアノとは違う、コンパクトなアップライトピアノにはレースのカバーがかけられている。長い間使われていないそれは埃をかぶり、手紙やチラシが乱雑に積まれていた。
「夜にピアノなんて弾いたら近所迷惑だろ。学校の練習で十分だ」
「アメ兄のピアノなら近所の人もうれしいよ」
 その腕前は近所でも評判で、中学時代は合唱の伴奏を頼まれたこともあるらしい。男子でピアノが弾ける人は珍しく、女子にも絶大な人気を誇っていたという。
 アメ兄の家はいつも音楽にあふれていた。からくりは雪が降ると動かなくなってしまうけれど、ピアノは季節問わず奏でることができる。
 けれどその音色が、ある日を境にぴたりとやんでしまった。
「おれはもうピアノは弾かないから」
 透明人間になってから、アメ兄はピアノを弾いていない。
「美綾も中学生になったんだから、うちにばっかり来ないで学校の友達と遊べよな」
「でも、アメ兄だってわたしが来なかったら寂しいでしょ?」
 返事がない。包丁がとんとんと野菜を刻んでいる。長い間母親と二人で暮らしていた彼は、家事や料理などひとしきりのことを身につけていた。
 じゃがいもを切って、ボウルに入れて水にさらす音。タマネギを刻んで涙が出て、それを拭って鼻をすする音。彼の姿を想像することはできるけど、その表情までは読み取ることができない。
「じゃあさ、勉強教えて? 宿題でわからないところがあるの」
「そういうのは自力でどうにかするもんなんだよ」
 けんもほろろ。今日のアメ兄は、どんなに説得してもうなずいてくれそうにない。
「そんな顔してもだめだ。明日から来るな」
 わかったか、と、にんじんがこっちを向く。
 わたしは返事をせず、ただ、ふんと鼻息で返事をした。


「ただいま」
 昼間は陽射しがあたたかいけれど、日が落ちると途端に冷え込むようになった。家に帰るまでの道のりで、わたしはアメ兄の家でたくわえたぬくもりを失ってしまっていた。
「おかえり。美綾、鼻の頭真っ赤だよ」
 まるで赤鼻のトナカイのようだとお母さんが笑う。わたしは学校の鞄もそのままに、上着を脱ぎ捨ててストーブにへばりついた。アメ兄の大きなお屋敷に反して、わたしの家は小さな二階建て。日が落ちると窓のカーテンもぴっちりと閉められていた。
「ご飯は?」
「食べてきた」
「天彦くんのところ?」
「そう」
 アメ兄の晩御飯は予想を裏切ってシチューだった。偶然にも我が家もシチューだったらしく、牛乳の甘い香りが残っている。お母さんは介護の仕事で夜勤もあるため、いつも鍋いっぱいの料理を作っていた。
「天彦、元気にしてるか?」
「うん、ちょっと風邪気味だけど」
 リビングでビールを飲んでいたお父さんが、そうか、とうなずく。高校生で一人暮らしをするアメ兄のことを、誰より心配しているのがお父さんだった。
「今度うちに遊びにこいって言っといて」
 アメ兄が透明人間になってしまったことは、わたしと彼のふたりだけの秘密だ。
「お母さん、仕事の昼休みに様子を見に行ってみたんだけど、玄関も開けてくれなかったわ」
 たとえ玄関を開けたとしても、アメ兄の姿は見えないだろう。お母さんの言葉に、わたしは曖昧な返事をするしかない。お父さんはビールを飲み、赤い顔をしならがぽつりと呟いた。
「天彦も、父親が死んでから色々思うことがあるんだろうな……」
 アメ兄のお父さんが亡くなったのは、彼が中学一年生の時だった。中学を卒業するまではわたしたちの祖父母の家に引き取られていたけれど、高校に進学すると同時に実家に戻り、それ以来ずっと一人暮らしをしている。
 未成年の一人暮らしにあれこれ言う周囲を諭し、サポートを買って出たのがお父さんだ。だからわたしは、アメ兄と会った日は彼の様子を両親に伝えるようにしていた。
「明日も天彦くんのところにいくの? いつも晩ご飯ごちそうになってるんだから、たまにはお土産もって行きなさい」
 お小遣いを渡されたけど、わたしは首を振ってそれを断った。
「今週は部活があるから行けないんだ」
「そう……」
 お金を引っ込めて、お母さんは呟く。
「天彦くん、寂しがるだろうね」
「そんなことないよ。今日もそっけなかったし」
 笑って、わたしは着替えるために自分の部屋に行く。シャツを借りたままで、生乾きのブレザーはスクールバッグの中だった。
 シャツを脱ぐと、アメ兄と同じ柔軟剤の香りがした。彼の家に行くと感じる、彼の家のにおいだ。それを胸いっぱいに吸い込んで、わたしは自分の寂しさをごまかした。
 アメ兄が透明人間になる前から、わたしはいつも彼の家で遊んでいた。
 彼は祖父母に引き取られた後も、放課後や休日になると自分の家で過ごすことが多かった。そこにわたしが遊びに行くと、いつも笑顔で迎え入れてくれたのだ。
 鍵っ子のわたしは、ひとりで留守番するのがたまらなく寂しかった。アメ兄の家に行くと、彼は宿題を見てくれたり、ピアノを弾いてくれたりした。縁側で一緒にお昼寝をして、夏には庭で花火をした。お母さんが夜勤の日は一緒に晩ご飯を作って食べたこともある。
 明日から来るな。そう言ったアメ兄の声は、寂しいというよりも、どこか説教じみたおじさんのようだった。
 会えなくて寂しいと思うのは、自分だけなのだろうか。明日からの日々を思い、わたしはその夜、彼のシャツを抱きしめて眠った。

     ○○○

「アメ兄、勝手にあがるよ!」
 思っていた以上に部活が忙しく、わたしがアメ兄の家を訪れた頃には十月も末になってしまっていた。
 顧問の先生の都合で急遽休みになった部活。天気予報は夕方から雨だった。わたしがアメ兄の家に着いたころには、雨粒がぽつぽつとコンクリートを濡らし始めていた。
 チャイムは鳴らさない。アメ兄はいつも家の鍵を開けて待っている。廊下をまっすぐすすんでつきあたりがお手洗い、右手が居間、左は仏間。わたしは先に仏間に入った。
 すりガラスの引き戸を開けるとお線香の香りがした。絶えず果物やお菓子を供えている仏壇の前に座り、わたしはろうそくの火を灯す。お線香をたて、りんを鳴らしてから静かに手を合わせた。
 写真の中でやさしく微笑むのがアメ兄のお父さんだ。息子よりも、兄弟であるわたしのお父さんによく似ている。けれど身にまとう穏やかな雰囲気は、アメ兄がしっかりと受け継いでいた。
「アメ兄、いる?」
 わたしは居間の静けさに気づき、大きな音をたてないようそっと戸を開けた。
 いつものことながら、アメ兄の姿は見えない。昼寝でもしているのかと座布団に手をのばしても、そこには何もない。もし彼が寝そべっていたら、頭のかたちにあわせて座布団が沈んでいるはずだ。
 借りていたシャツとお土産のケーキを片手に、わたしは空いた手で宙をかく。絨毯に寝転んでいるかもと慎重に歩いても、踏んづけることはなかった。
「アメ兄?」
 居間に荷物を置き、わたしは本格的にアメ兄を探すことにした。
 トイレにはいない。お風呂場にもいない。彼の寝室に行っても、気配も何もありはしない。家の中はしんと静まり返っている。
 家の中は広く、部屋のすべてを知り尽くしてはいない。アメ兄も必要な部屋以外は入ったことがないと言っていたため、勝手に踏み入ることもはばかられた。
「アメ兄、どこ?」
 庭に出てからくりの周囲を探しても、アメ兄はいない。
 どこか散歩にでも行ったのだろうか。けれど戸締りをしないのは物騒だ。わたしはテレビをつけ、宿題をしながら彼の帰りを待つことにした。
 屋根に落ちた雨粒が雨樋を伝い、からくりがラ・カンパネラを奏で始める。わたしはその音色に耳を澄ませながら、ふたりで食べようと思っていたケーキを先に食べていた。部屋はまだ暖房のぬくもりが残っていたけれど、雨脚が強くなるにつれ空気も冷たくなり、たまらずストーブのスイッチを押した。
 いくら待ってもアメ兄は帰ってこない。何度家の中を探しても出てこない。やがて晩御飯の時間になり、わたしは置手紙を残して帰ることにした。
 遊びに来たけど、いなかったので帰ること。お土産のケーキは冷蔵庫にあること。借りていたシャツはきちんと洗濯したこと。最近物騒だから、ちゃんと戸締りをすること。
 クリスマスコンサートの招待状と、買ってきた風邪薬を手紙に添える。明日も来るからね。そう結んで、わたしは居間の電気を消した。
 アメ兄に会えないのはそう珍しいことではない。彼は日がな家にこもっているわけではなく、天気のいい日はぶらりと散歩に出ることもあった。近所の人は引きこもりだと噂しているけど、それはただ彼の姿が人の目に映らないだけ。案外、外に居る時間の方が多いのかもしれない。
 最後にもう一度、アメ兄を探そう。そう思って、わたしは庭をのぞく。
 そして、思わず声をあげた。
「――なにしてるの、アメ兄!」
 そこにはずぶ濡れのアメ兄がいた。
「……瞑想、かな?」
 わたしの声に気づいた彼は、自分の姿を見て苦笑まじりにそう答えた。
 からくりで使い終えた雨水は、縁側のそばにある大きな水がめに溜められている。彼はその水がめに背中をあずけ、地べたに座って空を見上げていた。
 からくりをいじっていたのだろうか、足元にスパナが転がっている。パーカーは水をぐっしょりと吸い込み身体に張り付いていた。
「降ってくる雨を見上げるのって、面白いんだよ。見てるとやめられなくて、気づいたらこんな感じ」
 ほら、と空を指さす指先に、雨粒が落ちる。わたしは裸足で庭に下り、空を仰いだ。
 今日の雨は粒が大きく、目に入ると視界がぼやけてしまう。何度か拭ううちに雨にも慣れ、わたしは降りそそぐ雨に手をかざした。
 鈍色の雨雲が、今日はやけに明るい色をしている。季節が進んで、外灯が点く時間が早くなったのだ。
「……美綾」
「なに?」
 彼が立ちあがると、服のしわにたまっていた雨水が音を立てて零れ落ちた。
「おれ、家に来るなって言わなかったか?」
「だって部活が休みになったんだもん」
 わたしがそう答えると、彼は首を横に振った。
「もう来るなって言ったんだ」
「え?」
 どういう意味? そう続けるわたしの顔を、彼は決して見ようとしなかった。
「もう、おれの家に、来るな」
 アメ兄は静かにそう告げるだけだった。

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?