アメイジング・レイニー・ソング④
○○○
狙い通りまっすぐ飛んだ水は、ピアノよりも少し手前で四方に跳ね返った。
しぶきを受けたストーブから蒸気が上がる。こたつも濡れ、電気カーペットが水浸しになる。室内にできた水たまりは、水滴が落ちると小さな波紋を作っていた。
「……アメ兄」
その波紋の上で、アメ兄はきょとんと、わたしを見つめていた。
彼は気づかれないと思っていたのだろう。息も気配も殺して、わたしが探し回ってあきらめるのを待っていた。それをいとも簡単に見破られたことに、悔しさよりも、驚きのほうが勝っているようだった。
余った力で、わたしはバケツを床にたたきつける。プラスチックの取っ手が反動で外れる。水浸しの室内に悪びれもせず、わたしは彼を睨みあげた。
アメ兄のばか。開口一番、そう言うつもりだった。
けれど、いざ彼の顔を見ると責めることができなかった。
透明人間のアメ兄は、服を着てもネックレスをしても、身につけたものはすべて一緒に消えてしまう。けれど水に濡れれば、その姿を現すことができる。
これは一か八かの賭けだった。
「ピアノ、濡らしてごめんなさい」
ピアノを弾けば、彼が来てくれると思った。アメイジング・グレイスを歌えば、かつて父親と過ごした日を思い出してくれると思った。
そしてきっと、彼もピアノに触りたくなると思った。
幸い、バケツの水はほとんどピアノにかからなかった。もしかしたら、アメ兄が身を挺してかばったのかもしれない。
「美綾……?」
呆然と立ち尽くす彼を、わたしはそっと、抱きしめた。
胸に顔をうずめると、ひやりと冷たい。パジャマが水を吸い、火照った身体に心地よい。
今、この手を離したら、アメ兄は本当に消えてしまうかもしれない。
「教えて、アメ兄」
押し付けた耳で胸の鼓動を聞き、わたしは目を伏せたまま、言う。
突き放すことを決断しても、彼はまだ未練が残っていた。日曜日に彼の家を訪ねたときも、きっと玄関でわたしと大浦先生の話を聞いていたに違いない。
もう来るなと宣告しても、わたしがくしゃみをしていることを知ると、わざわざ家まで風邪薬を届けに来た。ピアノを弾くと、つい気になってそばに来てしまう。言うこととやることが一致していないのだ。
彼はまだ、心を決めきられずにいる。
「アメ兄はどうして透明人間になっちゃったの?」
抱きしめる腕の力をこめて、彼に伝える。わたしは決してアメ兄のそばを離れないことを。口で言うよりも、きっと、このほうが彼に伝わるはずだ。
胸の鼓動を聴きながら、わたしは彼の言葉を待った。
「……おれ、みんなのこと、騙してたんだ」
そう告げる彼の身体は、小さくふるえていた。
「おれ、本当は、美綾のいとこじゃないんだよ」
アメ兄の手が、ゆるゆるとわたしの肩を掴む。引き離そうとするけれど、その手にはまったく力がこもっていなかった。
「お父さんとは血がつながってなかったんだ。おれはお父さんの子供じゃない。だから本当は、ここにいていい存在じゃないんだよ」
アメ兄は身体だけでなく、声までふるえている。わたしが抱きしめる腕に力を込めると、彼はすがりつくようにそれに応えた。
「なにも知らなかったんだ。子どもの頃から、おれはお父さんの子どもだと思ってた。でも、お葬式の時に、お母さんが本当のことを話したんだ」
葬儀の日、彼の母親は葬儀場に来ていた。
父親を突然亡くし、アメ兄の今後をどうすべきか親族も交えて話し合っていた。わたしの父や母、そして祖父母たちも、はじめは母親のもとに戻ることを薦めていたらしい。
母親も息子を引き取るつもりだった。けれど、それを拒んだのはアメ兄のほうだった。
「新しいお父さんとは仲良くなれないから、この町に残りたいって言ったんだ。そうしたら、みんな許してくれて……最後はお母さんも納得したんだ。でも、みんなの話し合いが終わった後に、帰り際に言ったんだよ。自分のこと、あの人の本当の子どもだと思ってたの、って」
戸籍の上では父親だが、実際の血のつながりを知るのは産みの母だけだ。衝撃の言葉を残して、母親は彼の前から去っていった。
「お父さんが本当のことを知っていたのか、それですらわからない。おれはお父さんまで騙していたのかもしれない。でも、他に行くところもないから、ずっと隠してたんだ。おれはこの家の子どもで、引き取ってくれた親戚とも血がつながっていて、この家にいていい存在なんだって、ずっと、ずっと……」
だから彼は、祖父母の家に引き取られた後も、この家に入り浸っていた。
「学校でも、ずっと気を張ってた。常に良い成績をとって、生徒会に入って、先生たちに気に入られるように頑張った。ピアノは独学だし伴奏なんてやったことがなかったけど、頑張って練習した。みんなに嫌われないように、認めてもらえるようにって、そればっかりで……」
心から頼れる大人がおらず、アメ兄はどれほど心細かったことだろう。わたしが中学校で聞いた彼の話は、どれも絵に描いたような優等生。本当の彼の姿がどこにもなかった。
「高校で町から出ようと思って、お母さんに連絡したんだ。そうしたら、新しいお父さんとの間に子供がいるから一緒には住めないって。それを聞いて、もう、なにも考えられなくなって……」
そして彼は、町の高校を受験した。きっと、先生の中には都会のレベルの高い学校を薦めた人もいるだろう。けれどアメ兄は、長年真実を隠し続けたせいで、先生とも本心で話し合うことができなくなっていた。
「卒業式の日に、ピアノの伴奏をして思ったんだ。次の三年もまた、おれはみんなを騙さなきゃいけないんだって。そうしたら、なんか、疲れたなって思って……」
そしてピアノの演奏中に、指が鍵盤をすり抜けてしまった。
「それからどんどん、身体が消えていくようになったんだ。高校に行って、みんなと授業を受けているはずなのに、誰もおれのことが見えなくなっていた。先生も、友達も、おれが学校を休んでると思ってて……それで、学校にも行意味もわからなくなって」
そしてアメ兄は、透明人間になったのだった。
わたしは彼を抱きしめることしかできなかった。懸命に言葉を探しても、それが声に至らない。なんと言えば彼が救われるのか、考えても考えても、答えが見つからなかった。
わたしたちはただただ無言で、抱き合うことしかできなかった。
「……美綾も、おれのことを軽蔑するだろう?」
絞り出すようなその声に、わたしは首を横に振った。
「しない。絶対、しない」
アメ兄の気持ちを想像すればするほど、胸が苦しくなる。
彼はいままで、ずっと、誰にも言えない孤独を胸に抱え続けていたのだ。
「アメ兄は悪くない」
わたしが言えることは、ただ、それだけだった。
「悪くない。絶対悪くない。一番傷ついたのは、アメ兄だよ」
父親だと思っていた人と、本当は血がつながっていなかった。どうしてそのことに、アメ兄が罪の意識を抱えなければいけないのだろう。
「アメ兄はお父さんだと思っていたんでしょう? お父さんも、アメ兄を自分の子どもだと思っていたんでしょう? なら、ふたりは親子だよ」
「もしかしたら、お父さんも気付いていたかもしれない」
「でも、アメ兄に会うために遠くまで通っていたんでしょう? ピアノを買ってくれたんでしょう? 一緒に暮らしていたんでしょう? ふたりで、この部屋で、ピアノを弾いて歌っていたんでしょう?」
父の死を悼んで弾いた、雨のピアノのアメイジング・グレイスにも、嘘偽りはなかったはずだ。
「わたしだって同じだよ。アメ兄はアメ兄だよ。騙されたなんて思わない。わたしのお父さんだって、お母さんだって、誰もアメ兄のこと責めたりしないよ」
ひとりで暮らす甥を心配する大人たち。みんな、彼を心から心配していた。お葬式の時に、アメ兄が町に残りたいと言えば、それを受け入れてくれた大人たちだ。
「もし何か言う人がいたら、わたしがバケツの水をぶっかけてあげるから」
「……それは、風邪をひくからやめたほうがいいよ」
彼はそう言って、かすかに笑った。
「美綾」
「なに?」
「パジャマが濡れる」
呟き、彼は離れようとする。それにわたしは吹き出してしまった。
「もうとっくに濡れてるよ」
バケツの水を浴びせたのはわたしだというのに。アメ兄は全身ずぶ濡れで、被害も大きいというのに。それでも彼は、わたしの身体を案じるのだった。
「風邪ひいてるのに、身体が冷える」
「大丈夫、すぐ治るよ」
わたしの言葉に眉をひそめた彼は、額に手をあて、むすりと唇をとがらせる。ずっとうつむいていた顔は、目元がかすかに赤くなっていた。
「全然大丈夫じゃないだろ」
その声が効いたのか、わたしはようやく、身体のだるさを思い出した。
薬が切れたとたん、また寒気がしてきた。
けれどアメ兄の適切な処置のおかげで、体調が悪化せずに済んだ。着替えを借り、客間に敷いた布団に押し込まれ、電気毛布や湯たんぽでこれでもかというくらい汗をかいた。
お母さんにはアメ兄が連絡を入れた。お母さんはすぐに迎えに行くと言ったけれど、彼もまた仕事が忙しいことを知っているため、夜まで預かると申し出てくれた。
通話を終えると、アメ兄は緊張の糸が切れたのか大きく息を吐いた。
「今度うちに遊びに来なさいって言われたよ」
「じゃあ遊びにおいでよ」
「……透明人間が治ればな」
アメ兄が、苦虫を噛んだような顔で言う。透明人間になった原因はわかっても、どうやったら元に戻れるのか彼自身もわかっていないのだ。
風邪をうつされては困ると、アメ兄は早々と服を着替えていた。換気のために窓は開けたまま、そよぐ髪は生乾きになっている。
「あのね、アメ兄」
寝返りをうつと、布団からアメ兄と同じ柔軟剤の香りがする。この香りを感じるのも久しぶりだ。わたしはタオルケットに顔をうずめながら、目から上だけを出して話しかけた。
「ピアノ、ごめんね。壊れてない?」
「そんなに濡れてないから大丈夫。美綾が、ピアノを避けてたのはちゃんとわかってるから」
彼は寝汗で張り付いた前髪を払い、額に手を乗せる。自分でも、だいぶ熱が下がったと思う。氷枕が溶けていないか確かめて、アメ兄は枕元に座った。
「いつの間にピアノの練習してたんだ?」
「部活が終わったあと、音楽室で。アメイジング・グレイスの楽譜もそこで見つけたの。本当は、もっと上手になってからって思ったんだけど」
合唱部の練習が終わったあと、わたしは音楽室に残ってピアノの練習をしていた。目標はクリスマスコンサートの日。メロディだけでも弾ききって、アメ兄を驚かせたいと思っていた。
「もっと練習しないとだめだね。大浦先生も教えてくれたんだけど、やっぱり基礎から始めないと指がついていかないや」
「上手に弾けてたよ」
アメ兄のそれはただのお世辞だ。けれどあんまりにも彼が真剣な顔をして言うから、わたしはつい、にやけてしまう。
「わたしがピアノを弾けるようになったら、居間のピアノも埃をかぶらずに済むでしょう?」
わたしの言葉に、彼は小さく目を見張る。長い前髪が飴色の瞳にかかり、彼はすこし間を開けてから小さく微笑んだ。
「……そうだな。ピアノが乾いたら調律しないと」
「調律って自分でできるものなの?」
「いや、それはちゃんとした業者に頼むよ。絶対音感と相対音感は違うものだから」
違いがわからないが、わたしは「そうだよね」とうそぶいてしまう。アメ兄はわたしの頭を撫でたあと、自分の手を握ったり開いたりしながら、その指先を見つめていた。
「おれもまた、ピアノ、弾けるようになるかな」
「なるよ、絶対。わたしにピアノ教えてね?」
彼の表情が不安げに曇る。卒業式の日以来、アメ兄はピアノに触れていない。また鍵盤を叩こうとして、指がすり抜けてしまったら――その恐怖が伝わってくるようだった。
「わたしね、お母さんに相談して、ピアノを習いに行こうと思うんだ。今からじゃ遅いかもしれないけど、卒業までに、合唱部の伴奏ができるようになりたいの」
「遅いなんてことはないよ。練習すればできるようになるさ」
「それでいつか、アメ兄と連弾するのが夢なんだ」
布団から手を伸ばし、わたしは彼の手を握った。
色素の薄い肌に、お人形のように整った顔立ちに、透き通った飴色の瞳。もう髪も乾いて、いつもなら姿が消えてしまうころだった。
けれどアメ兄はまだ、わたしの目にはっきりと見えていた。
本人は気づいているのだろうか。わたしはあえてそれを口に出さない。言ってしまうと、彼が消えてしまいそうな気がした。
「美綾とピアノを弾けたら楽しいだろうな。いつもひとりで弾いてたから」
「寂しかった?」
「寂しかったよ。でも、おれにはピアノしかなかったから」
気恥ずかしそうに、アメ兄がわたしの顔に布団をかける。彼の顔が見えなくなり、わたしは握る手に力をこめた。
でも、と、声が聞こえる。
「美綾が歌ってくれたら寂しくないよ」
わたしが布団をよけると、アメ兄の姿が消えていた。
いや、彼はここにいる。わたしの手は間違いなく、彼の手を握っていた。
「……どうした?」
不思議そうな声に、わたしはなんでもないと返事をする。アメ兄はまた透明人間に戻っていた。
「クリスマスコンサート、絶対来てね。わたし、練習頑張るから」
「わかった。ちゃんと聴きに行くから」
彼の手に力がこもる。まるで指切りをするように、わたしたちはずっと、手を繋いでいた。
○○○
コンサートの日は、真綿のような雪の降り積もるホワイトクリスマスになった。
はじまりは吹奏楽部の演奏から。その年の大会で演奏した曲をはじめ、コンサートのために練習したクリスマスメドレーなどを披露する。会場の体育館は音響もよくて、金管楽器の音色が力強く響いていた。
進行はプログラム通りに進み、合唱部の発表も滞りなく進んだ。客席にはわたしの両親の姿もあり、お父さんはビデオまで用意していたのだから驚きだ。
クリスマスの季節に賛美歌を選んだのは正解で、体育館はまるで教会のミサのような雰囲気に包まれていた。
コンサートが終わると、打ち上げと称した小さなクリスマスパーティーが開かれた。参加できるのは部員と招待状を受け取ったお客さんまで。テーブルにはささやかなオードブルとジュースが並び、立食パーティーは賑やかな話し声に包まれていた。
会場にはクリスマスのBGMが流れている。お父さんとお母さんはコンサートが終わるとすぐに帰ってしまい、わたしはひとり、ピアノの前に座っていた。
体育館にあるのはアメ兄の家と同じアップライトピアノだ。グランドピアノは卒業式など大きな式典の時だけ運び込まれるらしい。吹奏楽部の演奏は金管楽器で揃えているため、ピアノは合唱の伴奏でしか使われていなかった。
鍵盤の蓋を開け、わたしはぽーん、ぽーんと音を鳴らす。その音に気づいて視線を向ける人もいたけれど、会話に夢中ですぐに目をそらしてしまった。
最初の音はド。その次はファ。ドファファ、ラソファラ。つたないメロディを奏でていると、ふいに、ハミングが重なった。
「アメ兄」
「コンサート、美綾がなにか弾くと思ってた」
アメ兄が椅子の隣に座る。ニット帽を目深にかぶった彼は、両手をダウンジャケットのポケットに入れ、わたしの手元を見つめる。話しながら音階を刻む余裕がなくて、わたしはぽろぽろと鍵盤をはじいた。
「伴奏はできなくてもさ、なにかソロ演奏ぐらいできたんじゃない?」
「無理だよ、合唱の練習で忙しかったんだから」
コンサートの日まで練習したけれど、わたしのピアノはあまり上達しなかった。部活はパート練習から合同練習に移り、時間も伸びたため居残り練習もできなかった。
「大浦先生、美綾が頑張って練習してるって言ってたよ」
「先生と話したの?」
「少しだけな。家にも会いに来てくれてるし」
あの日以来、アメ兄の姿に少しずつ変化が訪れはじめていた。
「美綾のお父さんとお母さんとも話したよ。久しぶりにたくさんの人と会うと疲れるな」
「大丈夫だった?」
「みんな演奏に夢中だったから、消えても意外とばれなかった」
アメ兄は水に濡れなくても姿が見えるようになっていた。けれどそれは一時的なもので、普段は透明人間でいることが多い。彼も自分でコントロールできないのか、ばれないようにいろいろ工夫しているようだった。
「正月は美綾の家で年越ししようってさ。でも、家の中で身体が消えたらどうしよう」
「そのときはわたしがフォローするよ。せっかくのお正月だもん、みんなで過ごそうよ」
「そうだな、ちゃんとお年玉ももらわないと」
アメ兄がずっと抱えていた秘密を、最初に打ち明けたのはわたしの両親だった。
『たとえ血がつながっていなくても、天彦くんが甥っ子なのは変わらないから』
お母さんたち間髪容れずにそう言った。良くない反応を覚悟していたわたしたちは拍子抜けしたけれど、あとは大人同士でうまくまとめてくれたらしい。近しい親戚たちは、いまも変わらずアメ兄と接していた。
「そうそう、わたし、年明けからピアノ教室に通うことにしたんだ」
「そっか、いよいよか」
「緊張するけど、楽しみ。またアメ兄の家で練習してもいい?」
快諾してもらえると思っていたが、アメ兄は曖昧に微笑むだけだ。依然手はポケットに入れたまま。体育館は暖房が効いているはずだが、首元にマフラーを幾重にも巻いていた。
「……練習できるのは、春までかな」
「春まで?」
「おれ、高校受験やり直すことにしたからさ」
マフラーに顔を埋め、彼はその中でもごもごと喋った。
「合格したら、寮のある高校に行くよ」
「……引っ越しちゃうの?」
「そうなるな」
高校進学でこの町を離れる人は多い。ひとり暮らしよりも、下宿先があったほうが親も安心するため、大半の生徒が学生寮に入ってそこから通っていた。
「さっき、大浦先生にもいろいろ相談したんだ。また受験勉強のやり直しだし、ここ一年勉強もサボってたからいろいろ忘れてるしさ」
「じゃあわたしが教えてあげる」
「美綾の受験はまだ先だろ」
アメ兄がわたしの頭を小突く。ポケットにずっと入っていた手は、指先がすこし透けていた。
それに気づいて、アメ兄は手袋をはめる。姿が見えるようになってから、彼は慎重に備えをしていた。帽子もマフラーも、万一身体が透けてしまった時にごまかすために身に着けている。以前は身に着けたものは一緒に消えてしまっていたけれど、中途半端に透けている段階なら手袋は形を残していた。
「……アメ兄が引っ越したら、寂しいな」
「たまには帰ってくるよ。おれの家はこの町にあるからさ」
手袋をはめた手が、ぽんぽん、と頭を撫でる。透明人間だった頃と違い、動きが目で見えると驚くこともない。
アメ兄が受験する高校は、以前母親と一緒に住んでいた街にあるらしい。つまり、小学校時代の友人もそこに住んでいるということだ。なにも知らない街に飛び込むより、知り合いがいるほうが彼も安心だろう。
「受験のことで母親にも連絡したんだけど、お父さん、おれが自分の子どもじゃないって知ってたんだって」
「そうなの?」
「連絡したときは美綾のお母さんがそばにいてくれたんだ。だから、お互い感情的にもならずにいろいろ話せてよかったよ」
アメ兄のお父さんは、結婚するときからお腹の子供が自分の子どもではないと知っていたらしい。生来子どもを授かれない身体だったのだと、アメ兄は言った。
「ずっと、お父さんを騙していたのかって心配だったから……本当のことを知れて安心した。おれひとりだったら、そういう話もできなかったと思うから」
葬儀の際、母親も息子のことを引き取るつもりだった。血のつながらない父親よりも、実の母親である自分を選ぶと思っていた。けれど息子が予想外の拒絶をしたため、動揺してしまったのだろうとアメ兄はかばう。
「高校に合格したら、たまには会おうって言われたよ」
「……アメ兄は、会えたら嬉しい?」
「女手一つで育ててくれた母親だからな。弟の顔も見てみたいと思うし」
ずっとひとりっ子だった彼に、弟ができた。血を分けた兄弟の存在はやはり気になるらしい。少し迷うようなそぶりを見せてから、「でも」と言葉を切った。
「おれの父親は、お父さんだけだから」
自分に言い聞かせるように、彼は言う。わたしが手袋越しに彼の手を握ると、
アメ兄はマフラーから顔を出して静かに微笑んだ。
「ありがとな、美綾」
飴色の瞳がやわらかな光をたたえている。彼は手袋のまま、指先を鍵盤に乗せた。
けれど、音が鳴らない。手袋が分厚くてうまく弾けないようだ。アメ兄は手袋を脱ぐと、震える手を鍵盤に乗せた。
すこし力をこめれば、鍵盤は簡単に音を鳴らすだろう。けれど彼はその指を動かすことができなかった。
「大丈夫だよ、アメ兄」
わたしはその手に自分の手を重ねる。その手は緊張で冷たくなっていた。
かわりにわたしが鍵盤を叩く。ドファファ、ラソファラ。何度も何度も練習したメロディを、彼の瞳が追った。
「歌って、アメ兄」
そしてわたしも口を開いた。
アメイジング・グレイス。なんて甘美な響きだろう。この歌が、アメ兄の心を救ってくれた。
アメイジング・グレイス。この歌が、彼を新しい世界に導いてくれますように。
二人で息を合わせてメロディを口ずさむ。わたしは歌に夢中になると手の動きがおろそかになってしまい、ミスタッチを繰り返してしまった。
焦るわたしの耳元で、彼が囁く。
「――もう大丈夫」
アメ兄の手が重なるようにして、ピアノの続きを弾いた。
ダウンジャケットの腕をまくり、両手を広げて鍵盤を大きく使う。体育館中に広がったピアノの旋律に、会場の視線が集中した。
さきほどまで不安定だった指先が、はっきりと輪郭を取り戻している。ピアノの音色がまるで光の粒のように、きらきらと弾んで宙に消えていった。
彼はなめらかな動きで、アメイジング・グレイスの伴奏を弾いた。
「歌って、美綾」
わたしは椅子を離れ、彼の隣に立つ。背筋を伸ばして、腹式呼吸を忘れずに息を吸った。
アメイジンググレイス。この歌を一緒に歌えなくなる日が、そう遠くないうちに来てしまうのだろう。歌声がふるえそうになるのをこらえ、わたしはすこしだけ、彼から顔を背けた。
わたしの目から落ちる雨粒を、アメ兄に見られてはいけない。ぎゅっとまぶたを閉じると、ピアノの音色がまるで雨のように降り注ぐのを感じる。
広げた両手でそれを受け止め、ようやく、わたしの涙が止まった。
「……おれ、やっぱり、美綾の歌が好きだな」
アメ兄がそう言ってわたしを見上げる。唇で歌を紡ぎながら、わたしはそれに微笑みで返した。
END
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