半熟ナルキッソス


「――ねえ、ナル美、またやってるよ」

「鳴海さん? あ、本当だ」

 手鏡を覗きこむわたしの耳に、クラスの女子たちの潜めた声が届いた。

「あの子、時間さえあればああやって鏡ばっかり見てるよね」

「メイク直すにしたって、休み時間ごとにああじゃない? 私、鳴海さんがほかの子と話してるの見たことないよ」

「あたしらのことなんて興味ないんじゃない? 自分の顔見てるのが楽しいんだろうし、ほんとナルシストだよね」

 マスカラが下まぶたについていないか確認しながら、わたしは手鏡の角度を変えて視線をやる。するとふたりは「うわ、見てるし」と呟いたきり、話すのをやめた。

 そんなに嫌なら、わたしを見なければいいだけのことなのに。

 乾いた唇にリップクリームを塗り、鏡をブレザーのポケットにしまう。毎日メイクをしているけれど、彼女たちのようにばっちりつくってはいない。あくまでも素肌を活かし、アイメイクなど要所要所に力を入れる。流行の顔を踏襲するのではなく、自分の良いところが引き立てばそれでよかった。

 授業の合間の休み時間は、いつも同じことをして過ごした。

 まず、鏡で顔の確認。メイクが崩れていないか、新しいニキビができていないか点検する。もしそこで脂浮きや、肌荒れがあればすぐに薬を塗ってケアをする。

 次に見るのは、爪。ネイルがはがれていないか、形は変じゃないか、爪の間が汚れていないか。歪みがあったらすぐに直す。通学鞄の中にはいつもお手入れ道具が一式入っていた。

 最後に、髪。枝毛ができていないか、櫛を通しながらくまなく探す。こまめなトリートメントのおかげで傷みこそないけれど、髪だけはどうしても乱れやすい。中学から伸ばし続けている髪は背中にまで届き、丹念に梳くと香る柑橘のヘアオイルに癒されるひとときだった。

 時間に余裕があれば、クリームで手や足をマッサージする。ひとりで黙々とケアしているうちに、十分の休み時間などあっという間に終わってしまうのだった。

「……にしても、うちらのクラスってナルシスト多くない?」

「多いもなにも、ふたりだけでしょ」

「ふたりいればじゅうぶん多いって。なにも一クラスにひとり、ナルシストがいるわけじゃないしさ」

 騒がしい教室の中で、やけにあのふたりの声が耳に届く。この程度の会話はいつものこと。しかし、気に入らない人の悪口を言っては、ふたりで嘲笑っていることも多く、聞いているといつも嫌な気分になった。

「――なんだよ、またおれのこと話してたのか?」

 新たに加わった声に、わたしははっと顔をあげた。

「おれのことかっこいいって? 言われなくても知ってるよ」

「そんなこと言ってないし! ほんとナル沢、ナルシスト野郎だし!」

 ぎゃあぎゃあと声をあげるふたりに、彼は大きな口をあけて豪快に笑う。手加減なく背中をはたかれ、痛いと叫ぶその姿は不思議とみんなの目を引いていた。

 成沢健人くん。通称、ナル沢。

 彼はわたし同様、クラスの皆にナルシストと呼ばれていた。

 

     〇

 

 正直、成沢くんのことは苦手だった。

「鳴海っていっつも鏡見てるよな」

 なるべく距離を置きたいと思うも、席はわたしの前。だから彼はことあるごとに話しかけてくる。自習の時間ともなれば、勝手に机を動かしわたしのプリントを書き写していた。

「自分の顔ばっかり見て飽きないのか?」

「飽きない」

 自習の課題を早々に終えたわたしは、手鏡をとりだして自分と向き合っていた。メイクこそ崩れていないけど、表情の変化を確認したくなったから。いつも正面ばかり見ている自分の顔だが、すこし角度をつければまた違って見える。どの角度が一番魅力的か、逆に避けたほうが良い向きはないか。ここぞという角度を見つけるとスマートフォンで写真に残した。

 人間、右から見た顔より、左から見たほうが美しいというのは常識だ。歯を見せて笑うと歯並びが気になり、唇だけの笑みに戻す。いつかお金を貯めて歯列矯正がしたい。親は矯正するほどではないと一蹴するため、大人になるまでの我慢だった。

 鏡の前でころころと表情を変えるわたしに、成沢くんが物珍しそうな視線を向ける。彼に手鏡を眺める習慣はない。道行く窓ガラスや鏡で髪型を整えている姿は見るが、彼が気にしているのは周囲からの評価。学校行事のたびに率先して目立つポジションにつき、女子たちにイケメンだと騒がれているときが至福のひと時。おれってカッコイイだろ、の口癖も彼の愛嬌の良さとして受け入れられている。

 クラスメイトはわたしと成沢くんを同類と見ているが、彼のような自惚れ屋と一緒にされてはたまらない。

「なんでそんなに鏡見んの?」

「好きだから」

「自分の顔が?」

「そう」

 どんなに冷たく返しても、彼は決してあきらめない。鏡を閉じて真正面に向き合い、渾身の目力で睨んでみても、彼が屈託なく笑うだけで意味がなかった。

 成沢くんはイケメンだと思う。背こそそんなに高くないけれど、運動神経が良く体育の授業ではマット運動ですら輝いて見えた。発言力も申し分なく、文化祭の準備で険悪な雰囲気になった時も、彼の一声で場が和んだのは記憶に新しい。

 だから成沢くんは、クラスでとても好かれていた。

「そんなにおれ、かっこいい?」

「早くプリント返して」

 わたしの冷たい返しに、彼は肩をすくめて舌を出した。そのあるしぐさがあまりに自然で、密かに感心している隙に手鏡を奪われてしまう。

「鳴海はいつも、こうやって自分のこと見てるんだな」

 成沢くんが鏡の中の自分を見つめる。角度を変えて観察したり、笑顔をつくってみたり、さらにはおちゃらけてポーズをとってみたりと、完全にわたしの習慣をからかっていた。

「返してよ」

「やだ」

「成沢くんには必要ないでしょ」

「まあな。おれはどっから見てもかっこいいし?」

 鏡ごしにウインクを決めるのがまた腹立たしい。鏡を奪い返そうとするも、彼の反射神経にはとうてい敵わず、どんなに手を伸ばしてもかわされるばかりだった。

「鳴海さ、鏡に映ってる自分だけがすべてじゃないんだぞ?」

「なによそれ」

「鏡の中でばっちり決めても、自分から見えないものもあるってこと。目を閉じてるときの顔は肉眼じゃ見えないだろ」

「そんなの、言われなくてもわかってるわよ」

 突然なにを言い出すのだろう。鏡を奪い返そうと躍起になって、成沢くんに遊ばれている姿はどう見ても綺麗じゃない。わたしは椅子に座り直し、彼が飽きるのを待つことにした。

 鏡で見る自分がすべてではない。むしろ、ほんの一部でしかないこともわかってる。他人の目に自分がどう映っているか、その評価をわたしは求めていない。

 大丈夫。わたしは綺麗で、わたしは美しいのだから。

「鏡がないと怖いんだろ」

 ふいに、成沢くんの表情が変わった。

 いつもの飄々とした笑みが消え、まっすぐな瞳がわたしを見つめる。その視線の鋭さに、居心地悪く視線をそらすと彼はさらに続けた。

「鳴海はナルシストって言わない」

「だから、なに?」

「なにって……」

 言いよどむ彼を、わたしは負けじと睨み返した。

「別に成沢くんには関係ないじゃない」

 勢いよく立ち上がると、倒れた椅子がけたたましい音を立てた。教室中の視線が集まり、成沢くんが怯んだ隙を見て、わたしは手鏡を奪い返す。

「鳴海」

「うるさい」

 手鏡と、ポーチと、目についたものを適当に抱え。わたしは制服のスカートが乱れないよう、ゆったりとした足取りで教室を後にした。

 

         ○○

 

 わたしは綺麗。

 わたしは美しい。

 わたしはとても、美しい。

 鏡に映る自分に向かって、わたしは笑みをつくる。色白だと褒められるブルベの肌に、色つきリップの桜色がよく似合う。

 授業を抜け出し向かった先は、立ち入り禁止の屋上へと続く階段だった。

 自習の時間が終わっても次の授業が始まっても、わたしを探す人はいなかった。ここは義務教育の中学校ではないのだから、授業を受けようともサボろうともすべて個人の責任だった。

「……なんなのよ、もう」

 屋上への扉に背中をあずけ、呟く声は狭い踊り場の中で反響する。わたしの足元には、鏡や爪やすりやマニキュアなど、さまざまな道具が散らばっていた。とくに直すべきところはないけれど、空いた時間を利用していつもより丁寧に身体の手入れをしていたのだった。

 爪と、手と、顔と髪を整えて、あとはスマートフォンをいじりながら膝を抱える。もうすぐ昼休みが始まる。教室の人が減るタイミングで戻ろう。そう思うも、なかなか重い腰があがらない。

 鏡ごしに、わたしは自分と瞳を合わせる。

 わたしは、綺麗だ。

 綺麗な自分さえいれば、他に、なにもいらない。

『鳴海ちゃんっていつも綺麗にしてるよね』

 その言葉があればじゅうぶんだった。

 わたしを美しいと言う人がいればそれでよかった。

 醜い人はいらない。陰で悪口を言う人はいらない。自分より劣った人を下卑て、それで自分の地位を確立なんてしたくない。そんなことでしか自分を保てない人たちなら、別に友達になんてならなくてかまわない。

 そう思って、今までやってきたというのに。

『鳴海はナルシストって言わない』

 彼の言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。

 そう思うなら思っていればいい。わたしは別に彼に認めてもらいたいとは思わない。彼は彼なりのナルシストであればいいと思うし、わたしがその価値観に合わせる必要なんてない。

『鏡がないと怖いんだろ』

 その声が、消えない。

「ほっといてよ……」

 かき消そうと呟いても、意味がない。わたしは両手で耳をふさぎ、膝に顔をうずめた。

 自分の鼓動が聞こえるほど、強く強く耳をおさえる。流れる血潮の音を聴きながら、自分の心に囁き続ける。わたしは綺麗。わたしは綺麗。わたしは綺麗。わたしは、美しい。

 わたしはもう、昔の自分じゃない。

 中学時代、いじめに遭っていたのは過去のこと。頭のてっぺんからつま先まで、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられたのはもう過去のこと。

 今のわたしは美しいのだから。あのころの自分はどこにもいないのだから。

 誰になんと言われようと、わたしはわたしなのだから。

「鳴海」

 声が聞こえて、わたしは顔をあげた。

「……成沢くん」

 彼はわたしを見下ろし、気まずそうに頭をかいた。

 

    

「サボりかよ」

 ぶっきらぼうな言葉とともに、成沢くんはわたしの隣に座った。

 肘と肘がぶつかるほどの距離に、自然と身体がこわばる。彼の顔を見ることができず、わたしは膝の間に顔を戻した。

「なによ、笑いに来たの?」

「違うって」

「先生に言われて探しに来たの?」

「もう昼休みだろ。ここ、おれの憩いの場なの」

 彼はお弁当と一緒に購買のパンを抱えていた。さすが成長期、男子が常にカロリーを摂取しているのは知っていたが、成沢くんはなぜかわたしの手にメロンパンと牛乳を握らせた。

「ここ、静かでいいだろ。人が来ることもめったにないしな」

「……うん」

「とりあえず、顔あげれば? そんなことしたら化粧落ちるぞ?」

 彼の指摘に、わたしははっと顔をあげる。顔にかかる髪を、手ぐしで直したのは彼だった。

「……説教でもするつもり?」

「昼飯食いにきただけ」

 胡坐の上にお弁当を広げ、成沢くんはいただきますとミートボールをつついた。冷めたケチャップのにおいにつられ、彼の横顔を盗み見る。本当にご飯を食べに来ただけのようで、わたしは紙パックの牛乳を床に置いた。

 彼の考えていることが、さっぱりわからない。

「……じゃあわたし、戻るから」

「行くなよ」

 立ち上がろうと床についたわたしの手を、成沢くんが掴んだ。

 箸を口にくわえたままで、行儀が悪い。とくに続きを言うでもなく、ただ見つめてくるその視線を逸らすことができず、わたしは床に腰を下ろしたままだった。

「離してよ」

「鳴海って頑固だよな」

「いいじゃない別に」

「本当はかまってほしいくせに」

「成沢くんこそ自意識過剰だと思うけど」

「知ってる」

 彼の声色が、変わる。

 さっきもこうだった。教室で見るいつもの姿と違って見える。ぶっきらぼうな口調で愛嬌もなく、ナル沢と呼ばれて飄々と笑い返す彼がここにはいなかった。

 お前のことなんてすべてお見通しだよ。そう、上からものを言われている気分になる。なにも知らないくせに、知ったような顔をされるのがとても嫌だった。

「ナルシストぶってるの、辛くないか?」

 成沢くんは、ただ、そう言うだけだった。

 ほんのひと言、その言葉が、やけに響く。

 そして、わたしの中で何かが切れた。

「――なによ!」

 突然立ち上がったわたしに、驚いた成沢くんが手を離す。

「あんたなんかに、わたしの気持ちなんてわかんないわよ!」

 甲高い声で叫んで、ヒステリーをおこしていた。特別なにかを言われたわけでもないのに、いつものように冷静でいればいいだけのことなのに、わたしは自分を抑えることができなかった。

「わたしは……」

 こみあげる気持ちを、うまく言葉にできない。唇がふるえて声すら出せない。そのかわりにあふれたのは両目からの涙で、わたしは泣き顔を見られるまいと顔をそむけた。

「わたしは、綺麗なんかじゃない……」

 必死にしぼりだした言葉に、成沢くんは黙って箸を置くだけだった。

 

       ○○○

 

 あの子なんか臭くない? そう言われてから毎日制汗剤をたっぷりとつけて家を出た。

 汚ねえ顔でこっち見るんじゃねえよ。そう机を蹴られてから、大好きだったお菓子をやめてニキビの薬を買い漁った。

 笑い方が気持ち悪い。そう言われてから、いつも静かに過ごすようになった。

 そんな生活を続けているうちに、自分で自分のことがわからなくなってしまった。

 クラスメイトから酷い言葉を投げつけられた中学時代。はじめの一年は鉛のように重い体を引きずって教室に通っていた。二年のクラス替えで環境が変わっても、群れて弱者の悪口を言う人は一定数存在した。

 あの子は脚が太いと言われている。自分も言われないようにダイエットをしなければ。

 あの子は目つきが悪いと言われている。視線に気づかれないように前髪を伸ばさなければ。

 あの子は先生に媚を売っていると言われている。担任に話しかけられても大丈夫と言って躱さなければ。

 誰からも悪口を言われないようにしなければ。嫌われないようにしなければ。

 誰か、の言葉に怯えて過ごすうち、わたしは教室に入れなくなっていた。

『鳴海さんって、綺麗な爪のかたちしてるんだね』

 毎日保健室で自習をするわたしに、養護教諭の先生がそう言った。

『先生の爪は丸くて小さいから、ネイルをしても映えないの。鳴海さんならどんなネイルをしても似合うだろうな』

 大人がわたしのことを褒めた。それはまるで讃美歌のように、甘美な言葉として頭に響いた。

 その日から毎日、爪やすりを使って指先の手入れをするようになった。

 ある時、先生の不在時に怪我をした女子生徒がやってきた。先生の見よう見まねで消毒をし、絆創膏を貼ってあげると彼女はわたしの手元をまじまじと見つめた。

『綺麗な爪。もしかして透明マニキュア塗ってるの?』

 その称賛に、わたしはよりいっそうの手入れをするようになった。

 保健室には時おり生徒が訪れた。お腹が痛いとベッドで休んだ女子は、同じクラスだが話したこともなかった。先生がいなくなると隠し持っていた漫画を読みはじめた彼女は、読み終えて暇を持て余すと、黙々とプリントを解くわたしに声をかけた。

『そのヘアピンかわいいね。どこで買ったの?』

『ストレートヘアっていいよね。あたしくせっ毛だから、雨の日なんて爆発して最悪だよ』

『自分で教科書読んだだけでそのプリント解けるの? 頭いいんだね』

 それからわたしは、少しずつ教室に通えるようになった。

『鳴海ちゃんって脚が細くてうらやましい』

『いつも落ち着いてて大人っぽいよね。私、虫が出ただけでいつも騒いじゃって』

『姿勢がいいけど、バレエかなにかやってるの?』

 褒められたところを必死で磨いた。人が良いと言ったところはできうる限り引き立てるようにした。中学生で整形なんてできないから、自分のできる範囲で、とにかく美しくなれるように努力した。

『鳴海ちゃんっていつも綺麗にしてるよね』

 自分が密かに努力していることを、認めてもらえたのが嬉しかった。

 褒めてもらえたところはとことん伸ばした。逆に、嘲笑われたところは徹底して直した。一年のころのクラスメイトと廊下で会っても、不躾な視線を無視して堂々と歩いた。

 わたしの陰口を言う人がいても、聞こえないふりをして、あとで必死に直した。徹底的に磨き上げたところはなにを言われても気にならないようになった。

 見た目だけでなく、授業も後れを取らないよう躍起になって勉強した。あれこれ言ってくる人たちより悪い成績になりたくなかった。猛勉強のおかげで、わたしの入学した高校に同じ中学の生徒はほとんどいなかった。

 高校でまた、同じ目にはあいたくなかった。自分磨きは一日たりとて怠らず、成績も常に上位をキープし続けた。

『鳴海ちゃんって肌綺麗だよね』

『鳴海はいつも成績いいよな』

 そう言ってもらうことだけがすべてだった。

 どこか変なところはないか。またなにか言われるんじゃないか。いつもそればかりが気になって、どうしても鏡を手放すことができなかった。

 そしていつしか、ナルシストと言われるようになった。

 わたしは、ナルシストなんかじゃない。

 ナルシストは、自分のことが好きな人だ。自分が大好きで、自分を愛していて、自分を抱きしめたいと思う人たちのことだ。

 わたしは違う。コンプレックスのかたまりで、自分のことなんてこれっぽっちも好きじゃない。抱きしめたくもないし見たくもない。自分が本当に綺麗なのか、鏡を見てもわからない。

 ――鳴海はナルシストって言わない。

 成沢くんはそれに気づいていた。自分で自分を愛している彼の目に、自分が嫌いな自分を好きだと嘘をつくわたしは滑稽に見えていたことだろう。

 わたしが頻繁に鏡を見る理由も、爪の手入ればかりする理由も、自己陶酔のためじゃない。自分の醜いところを、必死に隠しているだけ。

 止まらない涙に身体の力が抜け、わたしはへなへなと床に崩れ落ちた。

「……わたし、ナルシストじゃないよ」

「知ってる」

 言って、彼はわたしの頭を乱暴に撫でる。突然ヒステリックな声をあげたというのに、子供のように泣き出したというのに、嫌な表情ひとつ見せなかった。

「おれも、ナルシストじゃないし」

「うそだ」

「本当だよ」

 涙目のまま、たっぷり三秒は見つめあった。その沈黙に耐えられなかったのか、成沢くんが喉の奥で笑いをかみ殺す。

「自分のこと、本当はあまり好きじゃない。自信なんてないし、かっこいいとも思ってない」

「でも、おれはかっこいいって、いつも言ってるじゃない」

「鳴海の鏡と一緒だよ」

 わたしの頭に手を乗せたまま、彼は天井を仰いだ。

「おれってかっこいいだろって言って、それでいつも『調子乗るな』って言われるけどさ、嫌われてはいないだろ? なんだろうな、おれ、人に好かれているかどうかを確かめたいんだよ」

 わたしの涙を乱暴にぬぐいながら、成沢くんは微笑んでみせる。眉間にしわが寄り、目じりの下がるその表情に、それが彼の苦笑なのだと気づく。いつも自信満々な表情を浮かべる彼が、こんなにも繊細な感情を見せるとは思わなかった。

「人に好かれる自分はさ、自分でも好きだと思えるんだ。だから、人に好かれているのを確かめたくて、いつもああやってるだけ」

「……うそ」

「本当だってば。まわりが勝手にナルシストって言うだけだ」

 鳴海と一緒だよ、と、成沢くんは肩をすくめた。

「だから鳴海を見てると、下手くそだなって思うんだよ」

 わたしの頭を撫で続けていた手が、ふいにデコピンへと変わる。驚きに涙が止まったのを見て、彼はいつもの飄々とした笑みに戻った。

「だからついつい構っちゃうんだよな。さっきはごめん」

「……別に、放っておいてくれればいいのに」

「口ではそう言うけど、内心はおれが来てほっとしたんだろ?」

 それにわたしは何も言えなくなる。成沢くんは手付かずだったメロンパンの袋を開け、無理やり手に握らせた。

「それ食ったら教室に戻るぞ。何か言われても鳴海なら無視できるだろ」

「……最近、それがちょっと辛い」

 メロンパンの甘みに、ぽろりと本音がこぼれた。

 授業をさぼって午後から復活したわたしを見て、あの女子ふたりはなにかと陰口を叩くことだろう。それをいつも無視して過ごしているが、その実、彼女たちの言葉が塵のように積もり続けているのも確かだ。

「わからない。なんであんなに見てくるんだろう。やっぱりわたし、どこか変なところがあるのかな」

「違うって。あいつらも鳴海と同じなんだよ」

「わたしと?」

 空腹を思い出し、わたしはメロンパンを齧る。昼休みだというのに、踊り場は下の階の賑わいも届かない。彼はいつもこの隠れ家で、ひとり、素の自分に戻れる時間を過ごしているのだろう。

「誰かになにか言われないように、自分から牽制してるだけ。本当は鳴海と話してみたいのに、ちょっかい出しても無視されるから引っ込みがつかないだけ」

 その言葉がにわかに信じがたい。それが表情に出ていたのだろうか、成沢くんは頬についた砂糖を指さして教える。

「鳴海も子どもみたいな食べ方するんだな」

 わたしはあわてて頬をぬぐう。いつも気を付けて食べているはずなのに。けれど逆の頬だったのか、彼の手が伸びるほうが早かった。

 成沢くんが砂糖を払う。そのはずみで、指先が唇に触れた。

「あ、ごめん」

 先ほどまで人の頭を撫でまわしていたというのに、彼が今さらあやまる。あらためて距離が近いことに気づき、わたしは一瞬、心臓が高鳴った。

「なに、ときめいた?」

「……成沢くんって、本当にナルシストだよね」

「だっておれ、かっこいいじゃん?」

 調子に乗るな。そう返そうとして――わたしは小さく息を吐いた。

「そうだね」

「え?」

 彼の瞳の奥にある、かすかな怯えが見えた。

「かっこいいよ。ほんと、かっこいい」

 成沢くんだってこわいんだ。

「まじイケメンきゃーきゃーかっこいー」

「なにそのやっつけ感」

 わたしの棒読みに彼が嘆息する。瞳の怯えは一瞬、いつもの態度に戻り、成沢くんがすっくと立ちあがった。

 かたくなっていた身体をうんと伸ばし、お尻についた埃をぱんぱんと払う。わたしも最後のひとくちを食べ終え、彼を真似して立ち上がった。

「そろそろ予鈴鳴るぞ」

 成沢くんが先に階段を下る。一段、二段、すたすたと下ってから、足音がしないことに気付きこちらを見上げた。

「――ほら」

 足がすくむわたしに、彼が手を伸ばす。

「成沢くん、まじイケメン」

「鳴海に言われるとなんかこわいな」

「きゃーきゃーかっこいーすてきー」

 棒読みのまま手を引かれるわたしに、彼がけらけらと笑う。それに反して手のひらが汗ばんでいるけれど、なぜか不快に感じない。

 階段を降りると、人の声が波のように押し寄せた。廊下を歩く生徒の姿、にぎやかな話し声、ときおり沸く笑い声。いつもと変わらぬ日常がそこに、ある。

 成沢くんは手を離さない。すれ違う人たちの視線を感じる。予鈴が鳴ると、彼はわたしを引っ張りながら走った。

 生徒たちが続々と教室に戻る。同じように走る姿の中に、あの女子ふたり組がいた。

「――え、ナル沢?」

 手をつなぐ姿を見て、彼女たちが声を上げる。

「なに、そういう関係?」

「いいだろ美男美女で」

「いやほんとナルシストだし」

 教室に滑り込む寸前、彼が手を離す。めいめい席に戻りながらも、話すことは決してやめない。

「昼休みに探しに行ってたの?」

「そう。おれってかっこいいでしょ」

 彼のいつもの口癖。それが違う言葉に聞こえるのは、きっとわたしだけ。彼女たちはお決まりのブーイングで返した。

「……ね、調子に乗ってるよね」

 同調するわたしに、ふたりが目を真ん丸に見開いた。

 この言葉が「ありがとう」に聞こえるのは、きっと、わたしたちだけ。

 

              了

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