とうきび畑でつかまえて~7,雪像が溶けるほど恋したい①
7 雪像が溶けるほど恋したい
「あなたはここにいる大地を夫とし、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、夫として愛し敬い慈しむことを誓いますか?」
「……はい、誓います」
教会のチャペルで交わされる誓いの言葉を、息吹は最前列の席から見守った。
大地の結婚式は二月の三連休に開かれた。教会での挙式の後、提携した結婚式場で披露宴をしたが、式は親族と一部の友人が集まるアットホームなものだった。
息吹は大地から披露宴の受付を頼まれた。北海道の結婚式は会費制のため、手順もさほど煩雑ではない。挙式と披露宴は日中に行われたため、すべてが終わってもまだ空の明るい時間帯だった。
「――そんな大事な日に、私と会ってよかったの?」
スマートフォンで撮影した披露宴の様子を見ながら、和奏が言った。
「普通、二次会とかあるんじゃない? 親族だけで打ち上げとか」
「うちの親戚も本州にいて来れなかったんです。弟の二次会には呼ばれたけど、なんか気を使われたみたいで行きづらくて……」
結婚式の二次会といえば出会いの場として有名だ。大地は自分の人脈を紹介したかったようだが、息吹はそれを丁重にお断りした。
「ブーケトスを息吹が受け取って、そのまま穂高とゴールインだと思ってたのに」
「そんなドラマみたいなこと起きないってば」
富良野から札幌に帰り、あっという間に四カ月が過ぎていた。
二月の札幌は雪で閉ざされ、気温も氷点下の真冬日が続いている。息吹はホットコーヒーを飲んで身体をあたためた。
「和奏さん、三連休によく休みとれましたね」
「雪まつりシーズンなのに、本当に運が良かったわ」
二月の祝日は建国記念日。札幌では北海道有数の祭りである『さっぽろ雪まつり』が開催され、この時期はどこもホテルが満室になる。大地たちは式場が空いていたという理由でこの日に式を決めたが、その後宿をとるのに難儀していた。
「連休に低気圧がぶつかるって予報だったけど、持ちこたえてよかった。荒れる前に帰りたいから、雪像のライトアップは見れないや」
ため息をつき、和奏は窓の外を見やる。たまたま空いていた喫茶店に入ることができたが、この時期はどこの店も混雑しており、裏方は戦場のように忙しいに違いない。
雪まつりの期間は短く、平日に開会式があり、三連休で最終日を迎える。最終日まで雪像のライトアップがあるが、事故を防止するために翌朝には重機で雪像を壊してしまう。一月から準備が行われる大雪像だが、その命はとても短かった。
大地の結婚式は連休の初日に行われた。新婦の親族も雪まつりを楽しむ予定だったが、飛行機の予約を繰り上げ翌日には帰宅した。悪天候で欠航になる前に動くのが賢い選択だ。
「息吹が富良野に来た時、毎日が雪まつりだって言ってたの納得したわ。どこを歩いても海外の人ばっかり」
札幌も例に漏れず海外からの観光客が訪れる。狸(たぬき)小路(こうじ)商店街に行くとドラッグストアなどの看板に中国語やハングルが使われ、歩く人々もアジア系の人ばかり。雪まつりは中国の旧正月と重なるため、いつにもましてインバウンドの旅行客が多い。
「ミル・フルールもデートスポットだったけど、雪まつりもそうなのね。ミニスカートを履いた女の子が彼氏と歩いてるの。札幌の子は寒い日もお洒落なのね」
大通公園の様子を眺め、和奏は我が事のように身体を震わせる。札幌の女性たちはどんなに寒かろうと、気合いという名の防寒具を纏いお洒落を優先させるのだった。
「雪まつりって、カップルで行くと別れるっていうジンクスがあるんですよ」
「なにそれディズニーランドみたい」
「人は多いし寒いしでイライラして喧嘩になっちゃうんですよね」
多くの人が訪れるため、ジンクス関係なく別れる人もいるだろう。そんな話で息吹たちは盛り上がる。
「息吹は明日、仕事?」
「そうです。サービス業なので、土日祝日は関係ないですね」
札幌に帰ってから、息吹は大通にあるデパートで契約社員として働いている。はじめはお歳暮限定の販売スタッフだったが、長年培った経験を買われ、二月になったいまも契約を更新していた。
「和奏さんはホテルの仕事どうですか?」
「慣れるまで大変だったけど、穂積さんが丁寧に教えてくれたから大丈夫だった」
懐かしい名前を聞き、息吹は動揺を悟られないようコーヒーを飲んだ。
「穂積さん、家庭の事情で春に退職するんだって。後任の人が見つからないみたいで、私も契約を延長しないかって言われてるところ」
「じゃあ、しばらく富良野にいるんですか?」
「そうね。毎日寒いし雪が多くて大変だけど、北海道の冬も好きだなって思うから」
彼女の存在が、富良野での生活が夢ではなかったのだと伝えている。
札幌に帰るとあっという間に日常に戻った。慣れ親しんだ我が家、慣れ親しんだ寝室、食べ慣れた母の料理。はじめこそ家のことを手伝っていたが、仕事の忙しさを言い訳にして結局任せっぱなしになっている。人間、そう簡単に変わることはできないらしい。
「息吹はいまの仕事をずっと続けるの?」
「いまは契約だけど、正社員登用もあるみたいだし、その時は了承するかも」
「じゃあ、今年のミル・フルールには来れないか」
残念そうに和奏が言う。富良野と札幌は近いようで遠い。はじめはすぐに会えると思っていたが、お互い仕事で忙しく、年が明けるまで会えずじまいだった。
「穂高のこと、聞いてる?」
「うん。たまに電話してる」
穂高との仲はいまも途絶えずにいた。
しかし、富良野にいた時と比べると明らかに頻度が落ちている。毎日交わしていたメッセージもいまや週に一、二回。気まぐれに電話がかかってくる時もあるが、夜通しおしゃべりをすることはない。
層雲峡旅行でお互いの気持ちを確かめ合うつもりだった。その機会を失い、中途半端な状況が続いてしまっている。
「休みが取れたら富良野に遊びにおいでよ。冬のラベンダー畑も景色が違って面白いよ。息吹もきっと気に入ると思う」
「雪が解ける前に遊びに行きたいな。トワさんにお線香もあげたいし」
「突然だったよね。無人販売所も、トワさんが亡くなってからずっと閉めたままなんだって。私もお線香あげたいから一緒に行こう」
はたして、稲瀬家は息吹が訪ねても迎え入れてくれるだろうか。
札幌に帰ってから一度も連絡していない。喪中のため年賀状を出すこともできなかった。時間が経てば経つほど、連絡することに臆病になってしまう。
息吹はコーヒーのみだが、和奏はパフェを食べていた。たっぷりと巻かれたソフトクリームに、果物がふんだんにあしらわれている。
「ソフトクリーム見てたら、息吹の偏食思い出すわ」
「いまは朝ご飯もちゃんと食べてますよ」
しかし、昼食を菓子パンだけで終わらせる日も珍しくない。野菜の味も自炊の楽しさも、ひと夏の思い出が少しずつ風化していく。
このまま、富良野のことすべてが、夢になってしまう日が来るのかもしれない。
「また札幌で婚活はじめてもいいと思うよ。私たちにはもう、時間の余裕はないからね」
富良野の話題になるたび、息吹の表情が曇っているのかもしれない。メロンにフォークを刺しながら和奏が言った。
年上の彼女は三十路の気持ちが痛いほどわかるのだろう。春になれば息吹は三十一歳になる。女性の結婚率は三十代を過ぎてから日ごと下がっていく。もし婚活するならば、一日でも若いうちに行動しなければならない。
「結婚はご縁っていうし、なかなかうまくいかないものだよね」
メロンを差し出され、息吹はそれを受け取る。青肉メロンはこの季節には高価であり、以前の自分なら喜んで食べていた味だった。
しかし、いまはなんの感情も沸いてこない。
富良野を去ったあの日から、何を食べても心からおいしいとは思えなくなっていた。
〇
デパートの仕事は早番と遅番がある。三連休中日の仕事は十二時出勤の遅番だった。
遅番の休憩は十六時ころに始まる。夕食を食べるには早く、しかし何も食べずに夜まではもたない。雪まつり会場で腹ごしらえをしようと、息吹は大通公園に向かった。
雪像は和奏と見てまわった。大通公園は各会場でスポンサー協賛の大雪像が作られ、さまざまなイベントが催されている。オータムフェスト同様食事を楽しめる場所があるが、人気の店はどこも行列ができていた。
人混みにもまれながら会場をまわると、世界の料理にスポットを当てたコーナーがあった。イタリア料理のピザ、タイ料理のトムヤムクンやグリーンカレー、韓国のチヂミやトッポギ。北海道の屋台に比べると比較的行列が短く、息吹はふと足を止めた。
「……ロシア料理」
屋台のメニューにはピロシキやビーフストロガノフの文字がある。息吹は吸い寄せられるようにその列に並んだ。
「ピロシキとボルシチのセットをください」
ロシア料理の店だが、売り子は日本人だった。注文するとすぐに料理を渡され、近くのテントで食事をする。テントは断熱シートで囲まれてはいるが、ストーブの効果は薄い。湯気の上がるボルシチが見る間に冷めてしまいそうで、急いで口をつけた。
「……甘い」
ロシア料理の店は、ボルシチにサワークリームが乗っていた。本場の味を感じながらも、心の中では稲瀬家で食べたボルシチを思い出してしまう。
もう二度と、トワのボルシチを食べることはできない。
ピロシキを食べる気にはなれず、早々とテントを出る。足早に会場を歩くと、イベントスペースから大きな歓声が聞こえた。
西三丁目会場には巨大なジャンプ台が設置されている。高さがあり傾斜もきつく、期間中は毎日スノーボードやフリースタイルスキーが滑走する。昨日はプロのスノーボーダーが技を披露していたが、今日の観客は家族連れの姿が目立つ。何気なく目で追っていると、ジャンプ台からスノーボーダーが滑りだした。
それはまだ小さな子供だった。スキーウェアの色から性別の判断がつかない。急こう配におびえる様子もなく、ジャンプ台を勢いよく滑り降りる。
勢いを殺さず、小さな身体が宙を飛ぶ。その瞬間、自分の身長ほどもあるボードを操りポーズをとった。
着地が決まると、会場から歓声があがる。今日はキッズの大会だったらしい。
息吹が会場の中に入ると、歩道とは違ってスペースにも余裕があった。しかし、たくさんの人で踏みしめられた道は、滑り止めの砂を撒いても容易に滑る。足をとられ転びそうになるのを、そばにいた男性が支えた。
「大丈夫ですか?」
「すみません」
体勢を立て直し、息吹はお礼を言う。そして顔を見上げ、呆然と呟いた。
「……穂高?」
間違えようがない。穂高も驚いた様子で息吹の名前を呼んだ。
「どうしてここにいるの?」
連絡の頻度は減ったが、札幌に来るなら前もって教えてくれるはずだ。何も言わずに訪れ、人知れず帰ろうとしていたのか。その気持ちが顔に出たのか、穂高が慌てたように口を開いた。
「連絡しなくてごめん。急に決まったんだ」
「……別に、連絡しないのは穂高の自由だよ」
違う、と彼は慌てたように首を振る。冬にもかかわらず、その肌は日焼けしていた。
「うちのスキー教室の生徒が参加してるんだ。送迎は別のスタッフがやる予定だったんだけど、インフルエンザになっちゃって、急遽おれが駆り出されたんだよ」
子供たちを乗せるため、移動はマイクロバスを使っているらしい。穂高は大型車両の運転に慣れていたため白羽の矢が立ったそうだ。
「日帰りだから、これが終わったらすぐに帰るんだ。だから息吹に連絡しても会えないと思って……」
穂高は息吹がデパートで働いていることを知っている。たとえ連絡があったとしても、お互い仕事の合間に会うのは難しかっただろう。こうして会場で会えたのは奇跡のような偶然だ。彼は息吹を見下ろし、白い息を細く吐き出した。
「葬式の時、見送れなくて本当にごめん」
「わたしこそ、迷惑かけちゃってごめんね」
イベントは滑走の時に名前や所属団体をアナウンスする。次に滑るのは富良野市から参加した子供――つまり穂高の教え子だ。穂高はその勇姿を見届けた。
次はフリースタイルのスキーだった。滑空の瞬間、両脚を大きく広げポーズをとる。着地も無事成功し、穂高は観客席から「いいぞ」と声をかけた。
「みんな今日のために練習してたんだ。低気圧が来るから参加を中止しようかとも思ったけど、子供たちのことを思うと連れてきてやりたくてさ」
「穂高もこういうのできるの?」
「おれ、高いところ苦手なんだよ」
思いがけず知った彼の弱点。息吹はそれにくすりと笑った。
「スキー教室の先生、楽しそうだね」
「久しぶりに復帰したけど、身体が覚えていて安心したよ」
穂高が働く富良野市のスキー場は、和奏がフロントで働くリゾートホテルの経営――つまり兄の穂積と同じ会社である。
彼の近況は聞いていた。冬になると農家の仕事も閑散期に入るため、穂高は実家を離れホテルの寮に住み込みで働いている。職場が違うためか、兄と顔を合わせることはないらしい。春には穂積が実家に戻ると和奏から聞いているが、その後、跡継ぎ問題に進展があったのだろうか。
「おれ、春になったら農協に戻るかも」
以前と同じく臨時職員ではあるが、貴重な就職先である。一度離れた人材を再び雇い入れるあたたかさが田舎にはあるようだ。
「家のことはどうするの?」
「仕事の休みに手伝う。でも、家には戻らない。アパートを借りて自立するよ」
寮生活の間に費用を貯め、春先に借りる物件もすでに決まっているらしい。
「跡継ぎの問題はまだ保留だよ。親父が元気なうちは正式な跡継ぎは決めずに、おれたちの働きぶりを見るって」
息吹が思っている以上に、跡継ぎ問題は奥が深い。白い息を吐きながら、彼は鼻先をこする。赤く腫れた指先が痛々しかった。
「どうして手袋しないの。しもやけになっちゃうよ」
「富良野はもっと寒いよ。札幌は暖かいな」
今日は最高気温がマイナス五度の真冬日だ。彼はこともなげに言うが、冷えた指の動きが強張っている。息吹は手袋を外した。
「帰りも子供たちを乗せて運転するんでしょ? ハンドルを握る大事な手なんだからね」
冷たい指先を両手で包み込む。息を吐いてあたためると、ふいに彼の指先が動いた。
「息吹、富良野で一緒に住まない?」
彼は息吹の手を握り返していた。
「今年の冬はしがないフリーターだけど、農協に勤めれば安定するし、長く働けば正社員になる可能性だってあるし。もしお金が必要になったら農業ヘルパーでもなんでも仕事増やすから、絶対に苦労はさせない」
「穂高……」
「家を出るから同居の心配はない。息吹が畑を手伝う必要もない。子供のことだって焦る必要はない。もし富良野でやりたい仕事があればやってほしいし、おれも家のことちゃんとやるよ」
氷のように冷たい手が、指先が、震えている。けれどそれは寒さのせいではなかった。
「……ごめん」
吐息で白く染まる視界の中、穂高の顔に落胆の色が浮かぶ。
「なんで? おれ、いま、息吹の条件に合ってるじゃん」
「そういう問題じゃないの」
彼を傷付けてしまった。指先から動揺が伝わる。振りほどこうとするそれを、息吹は力をこめて握り返す。
「このままじゃ、穂高のお父さんの言うとおりになっちゃう」
農家の跡取り息子ではなく、普通の勤め人になる穂高。実家を出れば同居で悩むこともない。男の子を産むようにとプレッシャーをかけられることもない。
「わたしと一緒に住んで農協勤めをしたら、みんな、穂積さんに跡継ぎを譲ったって思うよ? 穂高は家の仕事が好きなんじゃないの? あの畑でおいしい野菜を作りながら、家族みんなで暮らして、たくさんの子供に囲まれて生活したいんじゃないの?」
「……おれはもう、跡継ぎじゃないし」
「まだわからないのに、どうして自分から諦めようとしてるの?」
息吹の問いに、彼は口をつぐんだ。
ジャンプ台では新しい子供が技を披露する。そのたびに歓声があがるが、息吹は気を逸らすことなく穂高の言葉を待った。
「……こわいんだ」
しばしの沈黙の後、穂高はそう呟いた。
「大事なものがなくなっていくのがこわいんだ。頑張ってきた家の仕事も、跡継ぎの話も、ばあちゃんも、仲が良かった家族も、みんな手からこぼれ落ちていくんだ。これから先、もっともっと、大事なものがなくなっていくのかもしれない」
すがるように、穂高は息吹の手を握り返す。
「息吹までいなくなったら、おれ……」
「わたしはここにいる」
震えるその手に、息吹は唇を寄せた。
「逃げないで。逃げたら後で絶対後悔する」
弱っている穂高にこれを言うのは酷なことだろう。優しく包み込むのが大人なのかもしれない。しかし、息吹はこうすることしかできなかった。
自分はいま、彼の人生最大の求愛を断ってしまった。もう二度と、この縁が結ばれることはないかもしれない。
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