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⑦母親の代わりを求められて

「お父さんは家事が出来ないから、
家事は全部たまひよ頼むな。
たまひよが大変だから、
お兄ちゃんは手伝ってあげなさい」
母が倒れたとき、父が私に言った言葉。
私は呆然として何も言えなかった。

大学に入学したものの、なんだかやる気が出ず、つまらない日々を過ごしていた。大学2年のとき、慢性的な蕁麻疹に悩まされるようになった。ある日、大学から家に帰ると、母が頭が痛いと言って横になっていた。私も蕁麻疹が痒くて仕方なかったので、休むことにした。

次の日の朝起きると、父に母をクリニックに連れていくように命じられた。兄の車に乗せてもらい、母をクリニックに連れていったのだが、どうも様子がおかしかった。呂律は回っておらず、話していることも意味不明だった。医者は、首が回るから大丈夫と言ったが、私は不安になり大きい病院に連れていくことにした。これがたまひよの人生最大のファインプレーとなる。母はくも膜下出血だった。近くの病院からドクターヘリで大学病院に連れていってもらい、緊急で手術を受けた。私は取り乱すこともなく、淡々と同意書にサインしていた。唯一伯母に電話したときだけ、私は泣いた。緊張の糸が途切れ、子どものように泣きじゃくった。伯母はこの時私が大泣きするのを見て、こんなたまひよ見たことなかったと驚く。

手術を担当した医師の説明では、この病気を発症した場合、半数の方が病院に着く前に亡くなり、残りの半数が手術までもたず、さらにその残りの半数が手術しても亡くなり、その残りの半数が社会復帰できません、ということだった。その後、何回か手術を受け、母は奇跡的に命をとりとめた。少し脳にダメージは残ったものの、身体には大きな麻痺などの障害は残らなかった。しかし1ヶ月以上意識がなかったため、身体の筋肉が衰え、歩くことすら儘ならなくなった。ここから私の介護生活が始まった。

母が入院していた3ヶ月間、私は家事すべてを任された。女だからである。大学に通いながら、母のお見舞いに行きつつ、家事をするのは大変だった。孤独だった。何故私がこんな目に。そんなことばかり考えるようになっていた。食事が摂れなくなり、体重は1ヶ月で12㎏ほど落ちた。また手首を少しだけ切った。そんな中で唯一の希望は伯母だった。伯母は私が大変だろうからと、頻回に母のお見舞いに行ってくれた。そして帰りに私の家に寄り、茶碗蒸しや煮物、金平などを作っていってくれた。すごくありがたかった。次第に伯母に泣き言を言うのが習慣になっていった。。

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