10/31〜11/6 一本一本手渡してくれた花束
チャイコフスキーを聴きながら,今日が命日だと知った。
「長調なのに,なんとも切ない音がする」と語った人の言葉を繰り返し想いながら,胸が締め付けられる切なさというよりも〈広がっていく切なさ〉というのがあることを実感している。それは,秋の空や光とも近いかもしれない。
ロシアの作曲家たちの曲が好きなのは,彼らが共通して表している〈情動〉に惹かれているから。それが何なのかは私にはわからないし,もしかしたら私が”ここ”にいる限り一生わからないのかもしれない。そして,触れてみたい,と思うものの一つでもある。
ショパンの「幻想曲」の虜になっているのも,その音の裏にいるロシアの存在が大きい気がしている。最近の休憩時間に,ピアノのところに飛んでいって練習している曲。
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元気がほしい時に行く喫茶店がまた一つできた。手書きの「コロナ禍のおねがい」の張り紙には,最後に「どうか,笑顔を忘れないでください」と書いてある。素敵ですね,とママさんに声をかけたら,「この文が,利いてるでしょう」と嬉しそうに笑っていた。
その紙の前にある勉強机に座るのがお気に入り。
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論文の構成がちょっと見えてきて,安心しながらもがけるようになってきた。
2週間前は,自分がどんな問いを追いかけているのかがわからなくて,これじゃあ「ただただ一冊の本を読み続けている人」だ,と苦しかった。どこを泳いでいるのかわからずに,溺れている感じ。でも,もがき自体をさらけ出してみたら,「君の泳ぎ方には特徴があるね」と見つけてもらえた。今は,どの海を泳いでいくのかを固めているところ。その海が,今いる研究室とも繋がっていそうで,寂しさが豊かさの感覚に変わってきた。
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息継ぎには,子どもの頃から好きな本を。
屋久島から帰ってきて,変化を実感したのは,ソローの本が〈遠く〉に感じなくなったことだった。それから,子どもの頃憧れだった「大きな森の小さな家シリーズ」を読み直しているのだけれど,こういう生活のことを「過去」のものじゃなくて「未来」のものとして読んでいる自分がいる。
このシリーズの料理本を買ったら,作品や当時の暮らしへのリスペクトに満ちていて,それがなんだかとっても嬉しい。夜寝る前に少しずつ読んでいる。
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息といえば,久しぶりに合唱団に行ったらロングトーンが短くなっていて驚いた。最後の一小節分,息が続かずに切れてしまう。
そういえば,息をしながら生きているんだなぁ,と久しぶりに思い出した。歌うって,こういうことだった。音楽するって,こういうことだった。
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屋久島の子どもたちの写真が届いた。ぐんとはっきりした顔つきになっているのを見て,びっくり。生命力というか,「生きてる!」という喜びが伝わってくる。眺めるたびに,微笑んでしまう。
たろうちゃんが一本一本摘んでは「宅急便でーす!」と手渡してくれた花束を,なんとかして神戸に持って帰ってきた。屋久島で拾った枝と一緒に,部屋の片隅に吊るしている。
あの時間は,もう他になんにもいらない時間だった。この花束を見るたびに,その時間のことを思い出して心がなにか大きなものでいっぱいになる。
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