【小説】諾々

 4月も後半になってきたからか、あんなに寒くて嫌だった夜風が、むしろ気持ち良く感じてくる。
「夜風がなんか気持ち良くなってきたね」
 えっと声の出てしまった私に、隣を歩く珠樹が心配そうな表情を向けた。
「どうかした?」
「ちょうど同じこと考えてたんだよね。だからちょっとびっくりしちゃって」
 そう照れ臭いながらに伝えると、「えーおそろじゃーん」と珠樹は子供のような笑みを浮かべた。
 珠樹と一緒に暮らすようになってから、日中私が仕事で外に出ているせいであまり時間を共有できないからと、週に3回ほど夜に散歩に出る習慣が生まれた。その距離は日に日に長くなっており、気づけば2時間ほど歩いてしまう日もある。
 最初は早いと思っていた珠樹の歩く速度も、私が速くなったのか私に合わせて調整してくれているのか、今では心地よい速度に変わっていた。
「今日は何してたの?」
「今日は家事以外の時間はずっとUFOキャッチャーしちゃってた」
「えーハマってんねー」
 珠樹はこの頃、UFOキャッチャーのアプリにどっぷりハマっている。そのアプリでは、どこかに存在するUFOキャッチャーをスマホで遠隔操作することができるらしく、そこで取れた景品は実際に自宅まで郵送されるという仕組みになっているそうだ。
 これまでに珠樹が取ったぬいぐるみやお菓子、ゲーム機などがリビングに飾られているが、あまり見向きをしている様子はないので、景品自体に興味があるわけでなく、あくまでそれを取るまでの高揚感を求めているのだろう。
 正直、私の稼いだお金をそんなことに使われる事に気分は良くないのだが、自分のお金の中で楽しんでいるようなので、お金を無心されるまでは小言も言わないでおこうと決めている。
「なんかいいの取れた?」
「今日はあんまりいい台がなくてね。——ああでも、ポッキーは取れたよ」
「えーすごいじゃん」
「600円もかけちゃったから、普通に買うのと同じくらいなんだけどねー。まあ、取れただけ良かった」
「いつ届くの?」
「多分来週とかじゃないかな」
「じゃあ届いたら、ポッキー食べながら映画見ようよ。金ローでまたジブリ祭りやるみたいだから」
「あ、いいね。めっちゃ楽しみだな」
 珠樹の歩くペースが上がる。楽しいこと、嬉しいことがあると自然と早歩きになってしまうのが珠樹の癖だ。私はそれを指摘することもなく、早歩きで玉木を追いかけた。

「ヒモってこと?それ」
 同期であるが部署が違い殆ど会う機会のない詩織が、悪意のないあっけらかんとした口調でそう言う。
 詩織から「明後日飲み行かない?」との誘いがあり、35にもなると滅多に会わない友人からの連絡は大抵結婚の報告か宗教の誘いだと分かってはいるけれど、久しぶりに顔が見たくて、新人時代に行きつけだった居酒屋で会う事にしたのだった。
 そして、私が結婚してから初めて詩織と会うので、乾杯してからすぐに私の結婚生活についての話になった。
「んー。今時はあれだよ、専業主夫。ふを夫って書くやつ」
「あー、なるほどね」
 夫である珠樹が家事をし私が家計を支えているという話をすると、意外と男性よりも女性の方が驚き、差別めいた言葉をかけてくることが多いように感じる。
「でもまあ、沙耶香が稼いでるわけだし、そういう形でも全然いいよね」
「うん。私が家事苦手で、主婦って柄でもないからちょうど良かったんだよね」
「あー、確かに沙耶香って主婦って感じしないよね」
「そんなこと言ったら詩織もじゃん」
 詩織が含みのある笑みを浮かべて、「実は」と勿体ぶって話し始める。知ってる、このパターン。別に他人の結婚なんてそんなに驚くべきトピックでもないのに、どうしてそんなに人を驚かせると信じて疑わないんだろう。
「私結婚して、主婦になる事になりました」
「えっ!そうだったんだ!凄いじゃん」
「まだ会社には伝えてないんだけど、沙耶香には伝えておきたくて」
「えー、嬉しい。おめでとー」
 声のトーンを上げ大袈裟に喜びつつも、こういった報告を素直に喜び祝福できないのは、もしかしたら自分が真っ当な結婚をしていないことによって生じる劣等感が原因なのかもしれないなと考え始めた。

珠樹と出会ったのは、今から5年程前の事だ。
 その当時付き合っていた相手と食事に行くために中目黒駅に到着し、改札を抜けたところで、予報になかったにわか雨が降っていることに気づいた。小雨なのでこのまま小走りで待ち合わせのレストランまで向かおうかと考えていたところ、突然知らない男性に声をかけられた。
「傘、どうぞ良かったら」
 黒くがっしりとした傘を差し出し、私に屈託ない笑顔を向けるその男性が、珠樹だった。
 珠樹を初めて見た時、茶色いジャケットの下に白いパーカを着ていることや、センター分けのいかにもビジネスマンという見た目なのにクシャっと笑うその笑顔から、子供みたいな大人の人だなと感じた。
「いやでも……」
「僕は大丈夫なんで、気にしないでください」
 それから、ほとんど押し付けられる様な形で傘を受け取り、珠樹は小走りで改札のほうへ行ってしまった。
 その日の夜、自宅に着き部屋着に着替えるとワンピースの裾がほんのり濡れており、傘を借りていなかったら大変だったなとそっと胸を撫で下ろす。それと同時に、そういえばこの傘をどう返すかを考えていなかったことに気づく。借りたつもりでいたのだが連絡先も聞いていなかったし、どうしよう——そう考えながら傘を眺めていると、柄の部分に何か文字が彫られている事に気づいた。
 その文字をスマホに打ち込み、ネットで検索してみると、それはその傘のブランド名だったようだ。傘にブランドがあることも知らなかったのだが、調べてみると老舗で有名なブランドらしく、この傘もそこそこ値の張る物のようだ。何とかあの人に返さなければいけないと改めて思うのだが、あの男性を見つけることは可能なのだろうか。
 その男性について知っていることは、いい傘を持っており、それを躊躇なく人に差し出すことができる——つまりは、金銭には不自由していないのだろう。そして、子供みたいな大人の人、それだけだった。それだけの情報で、どう見つけ出せばいいのだろう。皆目見当がつかなかった。
 翌日、通勤電車に揺られながらインスタグラムを開き、何の気なしに例の傘ブランドを検索ワードに入れてみると、複数の検索結果の中に、見覚えのある笑顔で傘を持った珠樹の写真があった。「マジか!」と思わず声が出そうなほど驚いてから、すぐにそのアカウントをフォローし、昨日の感謝を伝えあの傘を返したいというDMを送ると、その数分後に『じゃあ、もしよければついでに食事でも』という返信が届いた。
 これは後になって気づいたことなのだけど、これは珠樹が女性を落とす時によく使っていた手法なのだろう。運命的な再会を演出するために、巻き餌としてブランド名のついた傘を複数の女性に配っていたのだと、私は殆ど確信している。
 そして、その他大勢の女性の例に漏れず、私もその頃には、二度と見つけることの出来ないと思っていた相手との再会に底しれぬ高揚感を覚えていた。その後、その相手に全財産の大半を奪われることも知らずに。

詩織とは、結婚相手との出会いから結婚までの馴れ初めを聞いてから、「今度さ、お互いの旦那連れてどっか旅行行かない?」といった話を締めに解散となった。
 自宅に帰ると、ダイニングにはラップのかかった大量の焼きうどんが置かれていた。珠樹は、必ず余るほど大量に料理を作り、余った分は翌日の朝食や昼食にしている。それは、「多めに作っておけば、食べたい分までちょうど食べられるでしょ。ちょっとだけ多いとそれを残すのに罪悪感あるけど、流石にこんなに多ければ残す前提って見た目だからそれも感じないし」という理由らしい。
「ごめんこれ、作ってくれてありがとうなんだけど、飲み会行ってたからあんまり食べれないや」
 ソファに座りスマホを操作していた珠樹が、ハッと顔を上げてこちらを向く。
「あ、飲み会って今日だったっけ。うわー、すっかり忘れてた」
「出かける時に言えば良かったね、ごめん」
「いや沙耶香さんは全然悪くないよ。事前に言ってくれてたんだから」
 焼きうどんを冷蔵庫にしまおうとする珠樹に、「あ、待って」と声をかける。
「ちょっとだけ食べていい?軽く小腹が空いてたんだよね」
「おー、それならちょうど良かった」
 珠樹が焼きうどんを温め直してから、改めてダイニングに置くと、その重さのせいでドンッと大きな音がなる。
「いただきます」
 一口食べると、これまで珠樹の作ってくれた焼きうどんと違った奥行きのある味わいに気づく。
「え、美味しい。これいつもと違くない?」
「わかった?」と満面の笑みを浮かべてから、得意げな表情を浮かべる。「隠し味にバター使ってみたんだよね」
「あ、バターなんだ。凄い濃厚になってる」
「だよね。なんとなくでやってみたら、意外と上手くいってさ」
「へー、凄いじゃん」
 続けて、「こんだけ美味しければお店出せるんじゃない?」と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。忘れかけていた記憶——いや、無理矢理にでも忘れようとした記憶が、蘇ってきたからだ。

2度目に珠樹と会った時、会社員をしながらも自分のお店を開業する夢に向けて努力しているという話を聞いた。
 その夢を持つきっかけとなったのは、両親が喫茶店を経営しており、そのお店が好きでそんなお店を自分も作りたいと思ったことがきっかけらしい。しかしその店は経営がうまくいかず、珠樹が中学生の頃に店を畳むことになったそうだ。
 そして、その頃にできた借金が未だ返せておらず、その返済のために今は会社員をして親の代わりに借金の返済をしているとのことだった。
「うわー、めっちゃ偉いね」
「そんなことないですよ。この歳まで不自由なく育ててくれた両親には感謝しかないんで、その恩返しだと思ったら安いもんですよ」
 借金を背負わされている現状は不自由なく暮らせていると言えるのか——とも考えたが、それほど苦労して過ごしてきたのだろうと考えると胸が苦しくなり、「今日は飲もう。全部私の奢りだから」とどこかで聞いたことがあるような台詞を吐いた。
 それから、深夜ラジオを聞くのが好きという共通の趣味の話で盛り上がり、その店を出てから大衆居酒屋へ行ったが、そこでも会話が途切れることはなかった。
「めちゃ話し合いますね、沙耶香さん。なんか初めて会ったって感じしないなー」と珠樹が顔を赤らめながら言うので、私は高揚しながらも平静を装い「初めてじゃなくて2回目だからね」と答え、2人で大笑いした。そんなことで笑えるくらい、両者とも完全に出来上がっていた。
 気づくと終電も無くなっており、「もし良かったらうちで続きやります?」と珠樹がいうので、千鳥足になりながらもコンビニでお酒を買い珠樹の家へ行った。1LDKの部屋だったが、最低限の家具しかなくシンプルで清潔な部屋だったので、私のイメージする男性の一人暮らしの部屋とは大きく乖離していた。
 改めて飲み直し、ウィキペディアでオールナイトニッポンの歴代パーソナリティを見ながら会話をしていた時、ふと会話が途切れた。
 すると、お互いを見つめ合う時間が10秒ほどあり、どちらからともなく唇を近づける。ただ、お互いの唇が触れ合うか触れ合わないかと言ったところで、ハッと珠樹が顔を振った。
「ごめんなさい、あの……」
「ごめん、いや私も」
「沙耶香さんって、彼氏さんとかっていますか?」
「え?」と突然の質問に戸惑いながらも、嘘をつけるほど頭も回っていなかったので「いるよ」と答える。
「そうですか……」と珠樹は落ち込んだ様な表情で俯いた。「考えが古臭いかもしれないんですけど、なんていうか、こういうことはちゃんとそういう関係の人とだけするべきなんだと思うんです」
 見た目から軽そうな人だと勝手に思っていたので、両親の事といい、意外としっかりした人なんだなと感じ、この人なら——と決意を決めた。
「じゃあ、もし良かったらなんだけど、付き合わない?……もちろん、今付き合ってる人とは別れるから」
 すると珠樹は驚いた表情のまま立ち上がり「えっ、ほんとですか!是非!是非お願いします!」と頭を下げた。
 その日はそのまま何もなく、始発までお酒を飲み別れた。私は殆ど乗客のいない始発電車に乗りながら、彼氏に「大切な話がしたいんんだけど。今日会えないかな?」というメッセージを送った。
 その時点でもう、気づくべきだったのだ。両親の借金を返済しようと節約していると言っていたのに、なんでブランド物の傘を持っていたのかと。

それから珠樹と付き合い始め、1年ほどが経った。
 前の彼氏が会話が止むと黙り込むタイプで、一緒にいてあまり楽しいと思えなかったのと対照的に、珠樹とは一度会話が始まるといくらまででも話し続けることができ、珠樹とならどんな時間でも楽しく過ごせるだろうなと考え、私は自然と結婚を意識し始めていた。
 そんな頃、仕事中に突然珠樹から電話があった。
 会議中ではあったが、仕事中に電話がくることなんてこれまで一度もなかったので、心配になり「すいません親からの連絡で、緊急みたいなのでちょっと席外します」と嘘をつき電話を掛け直した。
「どうしたの?」
 珠樹はいつにもなく真剣な声で「ごめんこんなの沙耶香さんに頼むべきじゃないってのはわかってるんだけど……」と前置きしてから「昔両親のやってたお店のテナントが売りに出されてて」と言う。
「えっ、そうなんだ!そこでお店を開くのが夢だったんだよね?」
「うん。でも、頭金も払えそうにないから今は契約できないし、そこの管理会社に確認してみたらもう問い合わせが何件か来てるらしくて……」
 尻窄みになりながら喋る珠樹の声を聞いて、何を言いたいのかを察した私は、気づくと「いいよ。払うよ」と答えていた。
「えっ」
「いくらなの?頭金」
 それから言いにくそうにしている珠樹を何度も問いただし聞き出した金額は、私の貯金額の8割ぐらいの金額で、想像していたよりも少ないその額に安堵した私は「珠樹の口座に振り込めばいい?」と聞いた。
「いやでも、半分くらいはなんとか準備するから……」
「珠樹くんは借金の返済で手一杯でしょ?大丈夫、私が払うから」
「ごめん、でも……」と渋り続ける珠樹をなんとか押し切って、私はその日のうちに珠樹の口座にその金額を送金した。
 その後、当たり前のように珠樹と連絡が取れなくなり、そこでようやく私は騙されたことに気づいた。

詩織と飲んだ次の日の朝、寝ぼけ眼で枕元に置いた眼鏡を探し、それをつけてから隣に珠樹がいないことに気づいた。寝る前はそこにいたのに——と不安になるが、朝食を作ってくれているのだろう。毎朝のことなのに、また自分の元から去ってしまったのではないかと急に不安になる。
 リビングへ行くと味噌の匂いがして、胸の支えが下りる。エプロン姿の珠樹が振り返って笑顔を浮かべる頃には、気づくと涙がこぼれていた。
「えっ、沙耶香さん、どうしたの?」
「いや、ごめん……。なんでもない」
「え、でも……」
「気にしないで。——味噌汁?」
「あ、しじみ汁。沙耶香さん昨日飲み会だったから、これがいいんじゃないかって思って」
「えーありがとう」
 私は席に座り、しじみ汁を一口啜る。蒸気が私の眼鏡を曇らせて、さっきまで鮮明に見えていたこの部屋の景色が、まるで幻想でも見ているかの様にぼんやりと映った。

珠樹に騙されたと知った私は、何をする気力も無くなり、食事もろくに取らず、職場ではなんとかこれまで通りに振る舞いながらも、自宅ではただひたすらに布団の中にくるまって過ごした。
 貯金額の大半を失った悲しみはもちろんあるのだが、やはりそれ以上に、珠樹ともう会うことができないということに大きく心が動かされた。
 私を騙すために演じていたのだろうけれど、あんなに趣味が合い、私のことを尊重してくれて、辛いことがあった時は私が泣き止むまで慰めてくれた珠樹と、もう二度と会うことができないのだ。どれだけ泣いても、慰めてはくれないのだ。その事実に打ちひしがれて、気づけば四六時中ため息をつくような無気力状態のまま3ヶ月の時間が過ぎた。
 そんな頃のある休日、昼過ぎに起きた私は、いつもの様に布団の上で前日買ったコンビニ弁当を食べていると、メンチカツを布団の上に落としてしまった。それを見て、はーあ、と既に今日何度目かもわからないため息をついてから、ティッシュでその汚れを取ろうとする。しかし、すでにシミになってしまって一向に取れる気配がないので、シーツを剥がし洗濯ネットに入れた。そして、せっかく洗濯機を回すんだからと溜まっていた洗濯物も一緒に洗濯機の中に入れた。
 洗濯が完了するのを待つ時間、改めて部屋を見渡してみると、3ヶ月間も自堕落な生活を送ってきたせいか、コンビニ弁当がそのまま置かれていたりシンクにはペットボトルが何本も積み上げられ今にも崩れ落ちそうだったりと、布団の上にあった汚れなんかと比較にならないほど汚れていることに気づく。それらを分別しゴミ袋に入れていくと、これまで奥底に眠っていた気力が少しずつ湧いてきて、久しぶりに自炊をするくらいに回復した。
 しかし、日常を取り戻しても、珠樹への気持ちは忘れられず、気づくと中目黒駅へ行って珠樹を探していた。さすがに以前行ったあの部屋は引き払っているだろうが、きっと詐欺は続けているのだろう。そう何度も同じ手口を使うのかはわからないが、一縷の望みをかけて、雨の日は特に入念に珠樹の姿を探した。
 それから一週間もしないうちに、あっさりと、中目黒駅で珠樹を見つけた。改札から出てくる珠樹を見つけ、一度目があったのだが、この3ヶ月の間に8kgも体重が落ち顔の輪郭が変わってしまったからか私のことに気づかず、通り過ぎようとした。
 私は小走りで珠樹の元へ向かい、手をとってぎゅっと握り締めた。
「えっ」と珠樹は慌てた様子で私を見た。そして、今度はギョッと慌てたような表情に変わったので、ようやく私に気づいたのであろう。すぐに手を引き剥がそうとした。
「違うの、待って。通報したりはしないから。お金も、返さないでいいから。ちょっとだけ、話を聞いて」
 私は、珠樹の手を離さぬまいとさっきより強く握り締めて、そう伝える。
 その言葉に安心したわけではないだろうが、珠樹は手の動きを止めて、訝しげな表情で「え、なんですか?」と棘のある声を出す。
 え、違う。解釈違いなんだけど。珠樹はそんな顔しないしそんな声も出さない。
 そこでようやく気づいた。ああ、この人は珠樹じゃないんだ。珠樹を演じていただけで、ただの詐欺師なんだ。え、じゃあ珠樹にはどうやったら会えるの——そこまで考えたところで、私は一つの結論を出した。
「私を、騙し続けて」
「は?」
「こんなこと続けてたら、いつ捕まるかわからないでしょ?私があなたを見つけられたってことは、私以外にあなたが騙してきた女性も、これから騙す女性も、あなたを見つけられるかもしれないんだよ。普通だったらそこで逮捕だよ」
 『普通だったら』と、自分で言っておきながら笑ってしまう。私は普通じゃないんだと、今更ながらに実感した。
「いや、まあ……」
「でも、私だけを騙し続けていてくれたら、絶対に捕まることはないから」
「いやだから、それはどういうことなんですか?」
「あなたの本名は知らないし、知りたくない。でも、だから——なんていうか、仕事として、珠樹として、私と結婚して欲しいの。騙し続けて欲しいの。お金は払うよ。衣食住のお金は全部私が払うし、それに加えて15万——いや、20万払う。逮捕される心配もなくて、珠樹としていてくれたらそれだけで安定したお金が入るんだから。あなたにとっても悪い話じゃないでしょ。お願い、ダメかな?」
 私の言葉を聞きながら、その男は苦々しくもうっすらと笑みを浮かべた。——珠樹だ。ようやく珠樹に会えた。となると、答えはもう決まっている。珠樹が私のお願いを聞き入れなかったことなんて、これまで一度もなかったのだから。