紅まどんなから作文、脳の不思議まで
千疋屋だとびっくりするようなお値段がつく「紅まどんな」を、
今年も裏ルートから格安で入手。
そこに近所の友人から、ES農法のリンゴのおすそ分けの電話があり、
集合住宅の我が家の通路で物々交換となる。
友人は小学生の頃からの読書仲間である。
というと、お下げ髪にメガネの優等生タイプのイメージだが、
我々は先生からましてや男子からウケるタイプではない。
ワルでもないが成績も良くないくせに、理屈だけは一人前の可愛げのない、
タイプだったに違いない。
その友人が
「最近、ちょっと読み直してみようと思ってこれを借りてきた」
とバッグの中の本を見せてくれたのは
「セロ弾きのゴーシュ」
友人はこれまで、宮沢賢治は好きではなかったそうだが
ちょっとしたきっかけで、別の角度から読んでみようと思ったそう。
私は宮沢賢治の言葉の使い方や欧風のモダンな雰囲気が好きだが、
「あ、でも、私、『よだかの星』は嫌いだった」
「あー私も」
「なーんか暗くてシミったれた感じで…」
「そうそう」
そういえば、教科書にも乗っていたし、小学校の時の学習発表会(学芸会?)で
我々の学年が「よだかの星」の劇をしたことがあった。
「どうしてわざわざあんな暗い話を地味な衣装でやるんだろう」
「当時の学校って、ああいうテーマが”善”とされてたよね」
(「よだかの星」が好きな方、ごめんなさい。あくまでも個人的な感想です)
などなど、もう50年来の付き合いになるので、共通体験は多い。
われわれの子ども時代は、お涙頂戴モノや耐え忍ぶようなストーリーが
良しとされていた。
高校の体育祭の演技では、戦争時の出陣モノが頻出していた。
審査員がOBのジジィ(私がジジィというからには、相当のジジィである
前身が旧制高校の高校なので)
ばかりだったから、これなら票が入るからである。
読書感想文も、
「私たちは恵まれていると思います。登場人物のように、
これこれこういう気持ちを忘れずに…」
みたいな作文が先生ウケがよかった。
文の綴り方もヘッタクレもありしゃしない。
今思うとなんちゅー教育。
そりゃ、清貧も忍従も戦争体験も悪ではなく、忘れてはならないことである。
でも作品の良し悪しよりも、それをテーマにすれば”善”という短絡思考が
ますます私に嫌悪を抱かせていたのだ。
それに反抗して暴れたりこそしなかったけれど、
「ケッ」というオーラは出ていたのだろうな。
後々、「清水義範氏の作文教室」を知った。
作家である氏が、弟の学習塾の作文を担当する顛末である。
まず彼が子どもたちに教えたことは、
「作文は道徳ではない」
ということ。
「感謝の気持ちを忘れないように〜」
「〜反省したいと思います」
という紋切り型の結論を意識しない、目的は文を書くことなのだ。
作家先生様がそう仰ってくださるなら、本当に心強い。
もっと早く世に出てくださってほしかった。
(私が子どもの頃の先生は、権威に弱かったから)
ところで、私の子どもの頃の先生方は、紋切り型の作文を読んで、
どう思っていたのだろう。
「どれもこれも先生ウケしたような内容で、つまらんなー。
まっ、本音と建前があるからな、授業はこれでOK」
と思ってたのか、
「誘導通りの作文で、感心、感心」
と思っていたのか、本心を聞いてみたい。
などなど、文章にするとそこそこの時間がかかるのだが、
物々交換から部屋に戻るまでの僅かな時間で、これだけ回想するとは、
脳ってすごいと思いました。
私ももうアラ還、天命を知ったつもりで怠けてはなりません。
この気持ちを忘れずに、これからも耳順うことを目標に毎日を正しく
生きていきたいと思います。
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