教師として大事にしたいもの

先日、初任校での5年間の勤務を終えた。5年を経て思うことは「この仕事、ずっと続けたい」ということ。

そもそもなぜ教員になったのか。教員採用試験のためにしか考えたことがなかったけれど、もっと自分の心を見つめてみると、恩師が云々とかそういう綺麗事だけでは語れないものがある。たぶんわたしは学校ダイスキ!という人間だったけれど、学校の、先生の、いろんなことへのもやもやした気持ち(オブラートに包まなければ「失望」とでも言えるかもしれない)が、わたしを教員にさせたんだと思う。

学校は、たくさんの学びのあるとても重要な場所。わたしはそう思っている。実際にたくさんのことを学んだ。

友達と喧嘩したこと、誰かを傷つけたこと、決まりを破ったこと、先生に楯突いたこと。逆に、傷つけられたこと、理不尽に思ったこと。思い出すのも嫌な記憶、たくさんあるな〜。でも、あの頃を恥ずかしいと思えるのは、わたしの中に変化があったからこそ。やっぱり、たくさんの経験の中で、成長させてもらったんだなと思う。

だけど、自分が成長していく中で、その後押しをしてくれた先生ってどれだけいただろう。本当に少数な気がする。むしろ、SOSに気付かれなかった(触れられなかった)ことの方が多いのではないかと思う。

そんな中で、そこに触れてくれた先生がいた。わたしはそんな先生になりたいんだなぁと思う。

でも、そうすることってかなりの労力が必要だなぁと思う。触れなければ発生しなかった「責任」が生じるからだ。種を蒔いたらそこに水をあげる責任がある。でも、一生そこに水やりができるわけではないから、室内で、自分だけでせっせと水やりをするのは違う。外に種を蒔くことで、時には雨が降って、時には気付いた誰かが水をやって、そんな環境をつくることが、わたしが教員としてできることではないかと思う。

教員4年目に初めての卒業生を出した。わたしたちは、中学校でうまくやれることではなく、中学校を離れてもうまくやれることを目指さないといけない。同じ学年の先生がそう言っていて、とても納得させられた。一人一人に蒔いた種がいつか芽を出し、花を咲かせるように自分で行動できる人を育てなければいけない。

教員5年目、担当学年は2年生だったが、「クラス替えをしてもうまくやれる」ことを意識してきた。常に、一人一人にどんな種を蒔こうか、こう考え、言葉をかけ、行動してきたつもりだ。

「わたしは先生のおかげで、やればできるってことが分かりました。だから、寂しいけれど、先生と離れても、クラスが解散しても、新しい場所でうまくやれるはず。」

離任にあたってもらった生徒からのメッセージに、こう書いてあった。きっとこの子に蒔いた種は、芽を出し、花を咲かせると思う。

わたしが教員として大事にしたいものって、まさにこれだなぁと思う。一人一人をよく見て、個に応じて必要な関わりをすること。いつでも「子どものために」を忘れてはいけない。

教員を志した動機が、負の感情ありきなこと、嫌だなぁと思って今まで言葉にしたことがなかった。だけど、そんな負の感情があったからこそ今の自分がいる気がする。

わたしは、次の学校でも頑張れる気がする。誰かが蒔いてくれた種が芽を出して、いつか花を咲かせる気がする。

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