自分の心と対話すること

さぼってしまった。2024年が始まってまだ16日。毎日書こうと決めたのにこれでようやく7回目の投稿。まあそんなもんでしょという気持ちとこれだからわたしはという気持ち。

明日からの2泊3日はスキー・スノボ宿泊の引率。これがひどい。希望していないのにお金を払って行くのだ。もちろん、給料もでる。だけどどうがんばっても赤字なのだ。数万円の自腹をきって、ここよりも寒い思いをしなきゃいけないなんて。早寝早起きを強いられるなんて。自由に食事できないなんて。スキーとかスノボができるなら楽しみになるんだろうけど、いかんせんセンスがないからなぁ。苦行のたの数万円、ほんっとに、わりに合わないなぁ💸

だけど、子どもたちはみんな楽しみでウキウキモード全開。そりゃあそう。中学校初めての宿泊学習だもん。全力で楽しんでほしいなぁ。いい思い出にしてほしいなぁ。子どもたちを見ていたら、全然楽しみじゃないはずなのに、思わず、「楽しみだねぇ。」と口にしてしまう。口にすると、本当に楽しみな気がしてきてしまう。単純だなぁと思うけど、言霊ってあるなぁと思う。

だからこそ、普段から自分が発する言葉はプラスな言葉でありたいと思う。周りも、自分も、楽しくなるような、うれしくなるような。そんな言葉を発する人間でありたい。(なりたい。)

だけど、弱音を吐けないのはまた違うなとも思う。

ちょうど今日の国語の授業(『光村図書』「誰かの代わりに」)で、パスカルのこんな言葉がでてきた。

「人間の弱さは、それを知っている人たちにおいてより、それを知らない人たちにおいて、ずっとよくあらわれている。」

弱さを知っている人間は、人に頼り、助けを求めることができる。また、助けが必要な人にそっと救いの手を差し伸べることができる。反対に、弱さを知らない(知ろうともしない)人には、「支え合おう」という意識が生まれてこない。そんな人たちの行動を、弱さの表れだと表現している。

小中学生の頃のわたしは、虚勢を張っていつも威張っていたなと思う。(威張ってるだと語弊があるかなぁ、でしゃばってるの方が合う?)今思えば、自信のなさゆえの行動。勉強はそこそこ。運動は普通。秀でるものは特にない。自分が自分でいるための、あの姿だったんだなぁと思う。それによって嫌な思いをさせてしまった人、たくさんいたよなぁと思う。あんな自分を受け入れてくれて、今でも付き合ってくれる友人たちには感謝してもしきれない。

こうやって、ふと子どもの頃の自分を思い出すと、わたしが教員としてやりたいことを思い出せる。「自分の心」とたくさん対話してほしい。

「そんな中学生、気持ち悪いよ」
「そんな中学生いないよ」

と、言われそうだけど、たくさん葛藤して、心が成長する時期だからこそ、自分と対話して、自分を知って、なりたい自分になってほしい。そう思う。

自分の心との対話は一生続くこと。今こうやって文章を書いていることも、自分との対話。こうすることで気付ける自分がいる。

でも、今の中学校の教育課程にそんな余裕がないのが現実。ほんっっっとに詰め込まれすぎてる。さらに、テストの点数をあげるために小テストがあって、課題があって、帰ったら塾に行って、部活の他にクラブチームに所属する子も多い。余裕がなさすぎるよ。

どんなやり方ができそうか。考えてみたい。

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