初芽 〜hatsume〜
ハイヒールのかかとから血が滴っている。
靴の中の噛み傷が、気持ちの悪い痛みを与え、だが一方仕事の達成感をも感じさせていた。
青時雨の横浜、傘など不要だ。すべて満たされているのだから。
スカートのポケットには、男からくすねたSPIRITが、排水溝の吸い殻のように霧散している。
ちかちかと点滅する電柱の蛍光灯が濡れた長い金髪を照らし、B級アーティストのライブのように、満足げな金曜日を突き動かしている。
雨上がりの清々しい朝。
むくりと上半身だけ起きてしばらくは現実との境に心地よさを感じて真っ白な頭のなかを漂う。
昨晩脱ぎ散らかした衣類や何やらを整理し、つま先立ちでサニーサイドアップをキッチンで食べる。
テーブルに散らばった小物のなかから、昨日の収穫をつまみあげる。
現金5万円ほど、ちょっと渋いか。クレジットカードや、免許証などは財布ごと置いてきた。
テレビをつけると、ちょうど朝のワイドショーの時間だった。
“横浜市内のホテルで指定暴力団石田会の幹部島純一郎氏が死体で発見されました。警察は石田会と抗争状態である暴力団組織の関与があるとみて捜査を進めています。”
物騒な世の中だ。
ポケベルが鳴る。報告に出かける。
いつもの駅前の喫茶店でセブンスターをふかして待っていると、人のよさそうなサラリーマン風の男がにこやかな顔で対面に座る。
誰が見ても、そこらにいるただの一般のサラリーマンであり、きっと家には幼子がいて、日々家族のために一所懸命働いているに違いないと思うのであろう。
男はテーブルにそっと封筒を置いた。
“初芽さん、いつもありがとうございます”
男はさもお客様を相手にするような口ぶりで、無表情で煙草をふかす私に話はじめる。
“昭和も60年を超えて、ポケベルなんて便利なものまで出来てしまって、私もなかなか時代についていくのがやっとですよ。ですが、こうして初芽さんとも簡単に連絡が取れますから、本当に助かります。ポケベルではないけども、初芽さんにもいつも助けられてばかりで、今度困ったことがあればお力になりますので言ってくださいね。”
“服部さん、そこまで親身になっていただいて本当にありがとうございます。これからも精一杯お手伝いさせていただきますので、宜しくお願いいたします。”
ぎこちない笑顔であっただろう。内心では、この男に借りを作ったら最後と理解している。
乱雑に煙草を灰皿に押し付ける私を見ながら、服部はにこやかな表情を変えずに仕事の話をしはじめた。
“今回は長丁場になってしまい大変でしたね。なかなかこちらもタイミングを見計らっておりまして、初芽さんの仕事終わりが多少ずるずると行ってしまいました。報酬は少し上乗せしておいたので、心ばかりですがお納めください。仕事の仕上げの状況だけお聞かせいただけますか?”
“いつもの通り、いただいたお薬をお客様に処方し、効果が出始めた段階で部屋の清掃をしてから退室しました。”
たんたんと報告をするなかで、目ざとい服部という男はチェックを進める。
“ところで先ほどからかかとを地面につけておられないようですが、お怪我されてしまいましたか?今回のお客様はなかなか言う事を聞かないということも報告を受けていましたので。”
ちょっとしたことも見落とさないこの男は変わらずにこやかな表情を崩さない。喫茶店内に充満する煙草の煙と相まみえて、どんなに胡散臭い表情に見えることか。私は2本目の煙草に火をつける。
“処置の前にお客様が少し興奮されてしまい、かかとを痛めてしまったんです。少し出血してしまいましたが、部屋はきれいにタオルで拭いておきましたので大丈夫です。”
服部は、我が娘の成長を喜ぶようにうんうんとうなずいた。
“次の患者ですが、こちらの書類を拝見ください。また、こちらが支度金になります。”
服部が提示した書類には「大谷泰広」とある。
“大谷と島は同じ勤め先の顔見知りなので、そこはご注意いただいたうえで、いつもの通りこちらから仕事終わりの指示があるまでは、定期報告をお願いいたします。”
そういうと服部はレシートを持って去っていった。
私の仕事は書類を確認するところから始まる。ここを疎かにすると、取り返しのつかないミスを犯すし、服部だけではない「会社」にも大変な迷惑をかけ、私自身にもリスクが発生する。
45歳男性、離婚歴1回、分かれた妻との間に息子が4人、上の子は25歳、私と同じ年だ。酒が大好きで(特にハイボールと注意書き)、ごく大衆的なBARを行きつけとしていて、週2回ほど通っているようだ。女性関係は多様で、下は20歳から上は50歳まで交遊している。女性の好みまで詳細に書かれており、写真を見ると、たしかに女性受けしそうな顔だ。
性格面は、仕事では大変厳しい一面があり、書類では「厳しい」ではなく「冷たい」という表現がされている。だからこそ患者として選ばれるくらい偉くなったのであろう。一方女性に対しては、二重人格かと思うくらい温厚であり、薄い付き合いの中で女性には尽くす男のようだ。
これまでの私が受け持った患者の中では、比較的苦労はかからなそうな印象である。
この前まで受け持った患者は、いわゆる俺様主義的立ち振る舞いの男で、何をされても常に笑顔で返さねば大変なハレーションが起こるような、大変面倒な患者であった。
かくして、支度金を確認し店を出る。
支度金はいつも同様100万円ほどがあり、美容院で髪型をショートカット黒髪に変え、少し大人に見えるような化粧品や洋服などを買い漁る。
数日が経った夜、途中のコンビニエンスストアでマルボロを購入し、大谷行きつけのBARに赴く。
事前の情報にあった通り、大谷のような人間が行くお店とは想像がつかない一般的な店だ。
BARではあるが、ケーキが売りのようである。
テーブル席は満杯だったので、左奥のカウンターに座る。
その日、大谷は来なかったが、それでいい。このBARに通う人間として出会えばいいのだ。
店内では、題名は覚えていないが確か有名な讃美歌が流れる中で、感じの良い女性店員と彼女が好きであろう映画の話やこのお店のことなど他愛のない話をしながら、ハイボールを飲む。
5回ほど通った頃だったろうか、いつもの通りお店に行くとカウンターには、見るからに高級なスーツを身にまとったハンサムな男がマルボロをふかしている。
店内に入りお母さん(女性店員は常連にそう呼ばれている)に挨拶を交わし、男とは一席空いたところに座る。
女性店員が注文も聞かずにハイボールを持ってくる。
いつもの通り女性店員と、映画の話に花を咲かせていると男が声をかけてきた。
“お母さん、今日はあまり僕の相手をしてくれないのかい?寂しいなぁ。久しぶりに来てみたら、新しい綺麗な女性にお母さんを取られていたとは、大変悔しいものだよ。”
ハイボールで少し酔っていたか、甘い声色にうっとりとしてしまう。
声をかけられたお母さんも女としての喜びの色がうかがえる。
少しはにかんだ笑顔、目じりに寄せる皺と、口もとにちらりと見える八重歯が、より一層男の魅力を掻き立てる。
“お姉さんは初めましてかな?良く来るのかい?”
突然の鼓動に少し戸惑ったが、すぐに冷静さを取り戻した。これは仕事だ。滞りなく進めて行くのだ。
“1カ月前くらいからか、よく来るんです。常連さんですか??”
“もう1年以上は通っているね。ここのハイボールは量が多いのに安くていいんだよ。お母さんが話していたけど、初芽さんと言うのかい??”
苗字は偽名だが、下の名前はいちいち偽名は使わない主義だ。(主義とか偉そうに言いたい年ごろでもある)
“お金持ちそうなのに、ちょっと庶民派なんですね”などと、少しずつ距離を近づけていく。
“お母さんは僕の恋焦がれる人だから、奪ってはダメだよ。ねぇ、お母さん、この前のお寿司は美味しかったねぇ。”
それからはそれぞれの経歴やら何やらを話のつまみに二人でハイボールを楽しんだ。
経歴については概ね事前資料の通りだったが、仕事についてのみ男は嘘をついていた。予想通りではある。
しかしなんと気を遣うのだろう。そこらのホストよりも真摯に、しかし下心なく女性を楽しませる。
私だけではなく他の常連客やお母さんに対しても優しく振る舞う姿に、優しく甘い声色に、その魅力にどんどん引き込まれていってしまいそうだ。
彼の話はどんな小説よりも面白いし、どんな映画よりも私に寄り添ってくれる。彼は相手の表情や反応にあわせて話してくれることに長けているから、誰もが夢中になってしまうのだろう。
これまで様々な患者と会ったが、男など上辺の優しさだけで、本能が見え始めれば皆同じ。
結局自分本位であり、本当の意味で他人に優しさを与えることなどないのだ。
自分の欲求を満たすことを目的に生きているのだ。
どんなに優しくても結局私の思いは無視され、私の苦痛の表情を見たがる人間もいれば、私が乱れる姿を見たがる男もいる。
それが人というものだ。
それからは2週間に1回くらいのペースで、店でばったり会うようにした。
とある日は女性連れでお店に来ていが、女性には私と同じように接していたし、いつもの通りお母さんとも優しく語り合っていた。
一席空いて座っている私に、“今度初芽ちゃんも一緒に食事に行こうね”と優しいメロディーを流してくれる。
錦秋。
いつもの喫茶店でマルボロをふかしながら、服部に定期報告をする。
そろそろ切り込んでいく頃合いである指示を受けた。
ふと、彼の煙草の吸い方を思い出す。笑いながら煙を吐く彼の横顔を思い出す。
“泰弘さんは毎日外食なんですか??”
そんな話からうまく誘導して、後日食事に行くことになった。
駅での待ち合わせ、横浜西口改札前に彼の姿があった。
彼おススメの鉄板焼きのお店に入り、メニューの金額に驚きながら(実際には驚いていないが)、一緒に注文を決めていく。
男と女の話をしていく。
彼の周りは常に笑顔に溢れているし、もちろん女性も多い。そんなことを気にせずに笑う彼は、逆に下心なく人を寄せ付ける。
人並と言える楽しいディナーを終えて、いつもとは違う大人の雰囲気のBARに行く。
気づくといつかいつもの店で聞いた讃美歌が流れていた。題名は調べていない。
“ある人の言葉ではあるんだけどね、『人間は恋と革命のために生まれてきたのだ』って僕の大好きな言葉さ。”
「恋」だなんて言葉は久しぶりに聞いた。この仕事をし始めてからは、ある意味人間を信じられなくなっていたし、いや信じる必要性もないと思っていた。そんな私には、恋なんて純真なものは存在していなかったし、なんとなく嘘っぽいあまり良い印象のものではなかった。
「革命」だなんて意味も良く分からない。目の前のことを淡々とこなすしかない人生で、目的を持って生きることなどありえないと思う。
でも、彼は目を輝かせて言うのだ。
“僕は恋をするということを忘れない人生を歩むよ。そして今も歩んでいるよ。”
何かのラブソングだろうか、セリフではなく歌に聴こえた。甘く優しい歌だ。
煙草が切れたからと、私の吸いかけのマルボロを口に加える彼は、妖艶だ。
大変気持ちのいいハイボールと煙草の煙の余韻に包まれて、仕事でなくても恐らくそうしたであろう、いやその瞬間は仕事など忘れていたに違いない、彼は自分の欲求よりも私の思いを尊重しながら、優しく私を果てさせた。
ベッドの隣で踏み込む。
“泰弘さん、本当は何の仕事をしているの??”
一瞬驚き、すぐに優しい顔になって、ピアノの鍵盤をゆっくりと押さえるように話をする。
“ふふ、何だろうね”
言わないのか。
“いや、初芽ちゃんは大事な人だし、嫌われちゃうかもしれないけど。実はいわゆる街の管理をしてるんだよ。一般的には反社会的集団と言われてしまうかな。”
更に踏み込む。
“泰弘さんはいつも高級な服を着ているし、ほとんど夜にしか活動していないようだから、やっぱりそっち系とかかわりのある人なのかなと思ってたんだ。”
“初芽ちゃんは嫌いかい?”
“泰弘さんは悪い人じゃないし、絶対に周りの人を不幸にしないって分かるから大丈夫。”
“初芽ちゃんと出会えてうれしいよ。恋ができてうれしいよ。”
可愛らしい笑顔で、でも少し申し訳なさそうに話す彼は、薄っぺらくも今の時間は私に恋をしてくれているのだ。
定期報告にて、普段は表情を崩さない服部が満足そうな笑みを浮かべる。
孟冬は一層私にわびしさを覚えさせる。
それからは、泰弘さんの仕事の話を随時服部に報告する日々を送っていた。
年内に降るとは珍しく、小米雪舞う中で、泰弘さんとショッピングにでかけた。
歩き始めて、ふと違和感なくつないだ手があたたかい。
泰弘さんの選ぶものはセンスが良いし、一般的に男性はショッピングが苦手かと思うのだが、女としても一緒にショッピングをするのがすごく楽しい。
太陽の形をした、可愛いピアスを買ってくれた。陳列している中で、最も私の好みに合っている。
もうすぐクリスマスだ。
“クリスマスの夜には大きな仕事が入っていてね。今年一番の取引があるんだ。一緒にいられなくてごめんよ。前の晩は空いているから、いつものBARで美味しいものでも食べて過ごそう。”
嫌な予感がする。
あぁ、私は嫌だと思っている。
服部に会うのに緊張するのは初めてだ。
“年内は特段動きがないようです。”
服部はうんうんとうなずき、いつも通りの進行をしていく。
“初芽さん、年末年始の過ごし方が分かったらまた教えてくださいね。そろそろ仕事終わりになるかもしれません。おや、可愛らしいピアスをしているね。大谷からのプレゼントかい?”
“ああ、そうですね。自分の好みに合っていたので愛用しています。”
“一応、いつもの薬を渡しておきますから。何かあればすぐにご連絡ください。”
そんな言葉を言って服部は出て行った。
クリスマスの前夜、いつものBARで待ち合わせをした。
お母さんがハイボールを持ってくる。
自然と笑みがこぼれる。
店内はクリスマスの飾りつけでいっぱいだ。
“初芽ちゃん、明日は誰と過ごすのかしら?”
あどけなく笑いながら、少し茶化すような物言いで問いかける。
“明日は一人なんで、連日お世話になっちゃうかも。”とお母さんに愚痴ともとれることを言っていると、ロングコートをなびかせた泰弘さんが店に入ってきた。
いつもの通り、二人でハイボールを飲む。
量が多いので、私が1杯飲むうちに泰弘さんは2杯飲む。
そう、いつもの通りだ。
“初芽ちゃん、明日は予定が空いているって。泰弘さん、誘ってあげたら?”お母さんがまた茶化してくる。
泰弘さんは可愛らしい苦笑いで応答する。
ローストビーフを食べながら、他愛のない話でケタケタと笑う。
ここ数年でちゃんと笑ったのは泰弘さんと出会ってからだと気づく。
店を出て今日は朝まで一緒にいようと、泰弘さんが予約していたそこそこ上等なホテルのスイートルームに入る。
ベッドのうえ、煙草の香りがうっすらと残る中、泰弘さんの甘い歌を聴きながら、本能のまま没頭していく。
しばらく経って、シーツで身体を隠しながらハイボールを注ぐ。
ベッドに座って二人の余韻に身を包み、ゆっくりとその時を感じる。
“ねぇ、泰弘さん。仕事って変えられないの??”
一瞬驚き、すぐに優しい顔になって、、、、
“難しいねぇ。初芽ちゃんは辞めてほしいのかな??”
“だって、危ないお仕事でしょ。泰弘さんに何かあったら嫌だもん。”
“そんなに思ってくれるなんて嬉しいよ。初芽ちゃんはいつから僕のことを好きになってしまったんだい??”
“割と早いうちだったかも。”
本心だ。私自身驚いているのだ。
“ふふ、ありがとう。でもね、これ以上は恋ではなくなってしまうよ。僕は今の仕事を大切にしているし、そのうえで大好きな初芽ちゃんとの恋を楽しんでいるからね。心配しなくても大丈夫だよ。”
泰弘さんの言葉が、またメロディーを奏で始める。
“初芽ちゃんに突き動かされているよ。ちゃんと好きでいるよ。みんな君にあげるよ。”
こんなに幸せな気持ちになるなんて。
世の中がこんなにも甘く満ち溢れているなんて。
はは、でも、願いは届かないのか、もうどうにでもなってもいいか。
全てを話そうか。
私のリスクなどもう気にしていない。
これまで善い行いをしてこなかった分、罰がくだっても構わない。
少しだけあなたを裏切っていたわ。でも、これからも私の身体を触ってほしい、恋でいいの、ずっと一緒に居たい。だから、一緒にどこか別の場所で恋を楽しみましょう。
つたない言葉を伝えようか。
頭の良い東大生などであれば、もっとうまく伝える良い方法も思いつくのかもしれない。
そんな地頭の良さを持ち合わせていない私は、言葉をみつけられずに押し黙っていた。
突然、鍵をかけていたはずのスイートルームのドアが開く。
2人の男が走りこんで来た。
乾いた音が数回発せられると、一挙に力が失われそのままベッドに横たわる。
隣では泰弘さんも真っ赤に染まったベッドに横たわっている。
2人の男の向こう側に、いつもと変わらぬにこやかな表情の服部を見た。
窓の外は淡雪が街を何度も染めている。
私にクリスマスは訪れなかった。
ハイボールもマルボロも私の好みだった。
そういえは、曲名を調べておけば良かったな。
あぁ、神様、私に恵みは訪れますか?