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終わらせるもの

年末を感じる季節になった。ここ数年に比べると、なんだか忙しない感じがする。みんな色々我慢していたんだろう。久しぶりに年末っぽい年末になるのかもしれない。

そんな中で、世界は色んなものを終わらせに来ている。自分の身の回りに目を向けても、社会に目を向けても、世界に目を向けても、色々なものが終わろうとしている。悲しい終わりもあれば、嬉しい終わりもあれば、この先、どう転ぶか分からない終わりもあった。そして、必ずしも始まりとセットではなく、終わるだけ終わって、あとは知らない、みたいなのもある。どうしていくんだろう。

自分のコントロールできないところで世界は目まぐるしく様々なものを終わらせていく。外圧の場合もあれば、リーダーが腹をくくって終わらせることもあるだろうし、クーデターのような終わらせ方もあった。

ただ、自分の芯を食ったところは、自分で終わらせるしかない。

やめることと、はじめること。昨年春に考えてみたテーマだが、やめるというのは、ちょっと言葉として弱かった。やめても、また始めればいいだけだ。ただ、終わらせること、というのは、重みが違う。始めるよりも、終わらせるのが難しい。

思えば終わらせることがうまくできないタイプなのだろう。探求というキーワードに昔から惹かれ、同じようなことをずっと考えていて飽きない。趣味も変わらないし、一度好きになったものは基本的にずっと好きで、愛着がわいてくる。外圧以外で何かを終わらせたことがあるだろうか。自分から終わりを告げた関係性も少ない気がする。それが良いこともあれば、悪いこともある。何事も、良い効果があれば、逆効果もある。

当たり前なんだけど、そんな風にして一つ一つのことを、ゆっくり考えることがなかった。こんなことを考える機会を得られたのは、今後の人生を考える上で幸せなことなのかもしれない。

今年気付いたのは、とにかく「速い思考」に偏重しているということである。自分だけではない。現代人全員もれなくそうだと思う。特に、同じような関係性にいる人は漏れなくそうであると思う。日々、生活していてもそう感じる瞬間が多い。他人のことはわかるのに、自分事にして気付くのに時間がかかった。瞬間的に判断を迫られる事象が多く、本当にそんなに早く意思決定をしなければいけないことなのかもわからないまま、目まぐるしく毎日が過ぎていく。

ここでいう「遅い思考」を身につけなければいけないタイミングに来ている。今までの成功パターンに囚われ、長く続いた自己探求に終止符を打つ必要がある。だが、ではそのためにすぐ「何か行動をしなきゃ!」という自分だけじゃなく、わからないものをうまく飼いながらしながら、取り扱うだけの余裕をそろそろ持たないといけないのかもしれない。

引き続き、手に入っていない「大人の余裕」は、今年も空しくも手に入ることはなかった。あきれてしまう。来年こそは。そんなことを思った週末だった。

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