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SakkBiblio27 ボードリヤール「消費社会の神話と構造」

読書会27回目。ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」。本日は6名の方に参加いただきました(写真撮り忘れた)。以下、僕なりの解釈と、みなさんとの議論を踏まえた雑感です。

ボードリヤールによれば、豊かになった現代社会においては、消費における関心はモノの有用性や機能ではなく、その消費によって「いかに他人との違いを示すか」という「差異化」にフォーカスされます。そのような差異化に対する人々の欲求は、無意識に商品を差別化された「記号」とみなします。例えば同じ物を運ぶという意味で同じ機能をもったバッグでも、100円ショップのバッグとグッチのバックを、僕らは大きく価値に違いがあるものとして記号的な区別をしています。今日の参加者からは、例えば移住に関してもどこの地域を選ぶのかにおいて、記号的な消費の面があるのではないか、という議論もありました。

現代における消費は、消費によって個人の効用を満たすという経済学的な側面だけでは語れません。消費は、モノを介して社会的な意味づけとコミュニケーションを行う手段であり、その意味で「消費」は言語的です。他人との違いを表す記号(差異)を選ぶことによって個性を出し、自分らしさをアピールするような社会になっています。そのような社会においては、マスメディアや広告によって、差異が無限につくり出され、強調されていきます。

もはや私たちは、企業やメディア(現代までのばして解釈すると、インフルエンサー。さらに悪いことにはSNSで発信する個人。)によってつくり出された中身のない「記号」を永遠に消費しつづけるだけになっていて、その神話から抜け出すことはできない、というのがボードリヤールの結論です。神話繋がりで、無意味に岩を運ぶ→落とすを繰り返すシーシュポスの神話の不条理を思い出します。

ボードリヤールが悲壮的なのは、消費社会への批判(反言説)は、その批判自体が消費社会に内在するもので、一体となって消費社会の神話を構成するものであり、そこから脱することは決して不可能だとすることです。

ここはすごく違和感というか、反抗したいところなのですが、昨今の「環境問題」「SDGs」「脱資本主義」「地方移住」といった言説自体が、結局はメディアやインフルエンサー、キラキラした方々の発信の文脈に載って消費社会に内在化されていっているところをみると、さもありなんという感じもします。この消費社会という神話はめちゃくちゃ強烈で、ボードリヤールの言っていることは実感をもって説得力があるようにも感じます。

ボードリヤールはサジをなげちゃった感じがしましたが、で、僕らはどうすれば良いのか。

ヒントになりそうなことは2つ。

まず、読書会の中で、消費社会の記号に溺れる前の「こどものまなざし」に注目すべきでは、という意見にすごくヒントと勇気をいただきました。

もう一つは、確かに僕らは消費社会の神話に生きているのだけれども、それでもそれを認識した上での一回限りの「生」。つまり個人の実存的な主体性を諦めてはいけないのではないか、という直感です。実存主義への批判から、ボードリヤールを含む構造主義が生まれてきたはずなので、順番としては逆戻りする感じなのですが、消費社会の神話と構造を理解した上で、実存的な主体はなにをすべきなのか、というところは、今後考えていきたいと思いました。

というわけで、次は10/24(木)13:00-サルトルの「実存主義とは何か」です。僕が高校時代に、ぼーっと聞いていた倫理の授業で配られて、衝撃を受けた本です。いつもと時間が違うので、ご注意ください。

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