「地方のポテンシャル」の再考とコミュニティの力
田舎に住む僕たちはしばしば、「うちの街に来たって何にもないよ」と言います。この一言には、地元への複雑な感情が込められていると考えられます。田舎の生活は、都市部のそれと比較すると、賑やかさや便利さでは劣ります。僕はこれのことを都会的価値観と呼んでいます。その都会的価値観で考えれば、確かに「うちの街には何も無い」
でも、反面、そこが良くて住んでいるという事実もあります。(否応なしに住んでしまっている、住まざるをえないという状況は今回のスコープ外です。)
この状況を、仮に「第一期地方の気持ち」とします。
第二期
それが、いつの日からか、というよりも、どこかで外部の方々との繋がりや評価を見聞きすることで、ある日突然、「ああ、こんなにいいところがあるのか」「住みやすいとはこういうことなのか」ということに気がつき、自分たちの住む地域を改めて評価し直すことになります。
これが地方第二期の始まりです。
ここでは、自然の美しさ、豊かな文化、地域コミュニティの温かさなど、これまで見過ごしていた地元の魅力に気が付き始める頃でもあり、この気付きによって、地元に対する誇りや愛着を新たに生み出すことになります。
第三期
地方第三期では、第二期で気がついた地元の美しさなどを「ポテンシャル」と称し始め、そのポテンシャルがうまく活かされていない、それをどう活かしていけば良いのかを考え始めます。そして、この段階は、地元の豊かな資源や可能性に対する認識が高まる一方、「うちの街にはこんなにポテンシャルがあるのに、なぜ誰も気が付かないんだろう」「このポテンシャルをもっと利用して何かができるはずなのに」というフラストレーションも生まれます。更には、「このポテンシャルに気が付かない地元が悪い!!」というネガティブさも生じさせ、地域での意識のギャップや行動の齟齬に悩むようになります。
さらには、この地域のポテンシャルをどのように活かしていくか明確な道筋が見えにくいというジレンマにも直面。地元の資源や魅力を最大限に活用するためのアイデアや取り組みが模索される中で、実行に移すための具体的な計画や資源、そして資金が不足しているという実際の課題にもぶつかります。僕も長きにわたってこの第三期から抜け出せず、いわゆる第三期は拗らせ期であるとも言えるのかもしれません。
第四期
しかし、ある時、急に考えます。そもそも、「ポテンシャルとはなんなのか」という、根本的、かつ、これまでの考えをある意味無駄にしてしまう恐れもある思考が頭の中を埋め尽くします。
「あれ?今言ってるポテンシャルって、基本的にどこの街にもあるものじゃね?」
ここで第四期がはじまります。
これまでは地元のポテンシャルをどう活かしていくのかということに大きな期待を寄せていたはずだったものが、このポテンシャルが実は特別なものではなく、どこにでもあるものであることに気付きます。
例えば北海道であれば、海の幸、山の幸、基本的にはなんでもうまい上に、「北海道」というブランド力も大きい。ここで「地方のポテンシャルとは幻想だった」という苦い認識に至ることで、地域に対する見方がより現実的で、成熟したものへと変化します。あははは。幻想なんです幻想。
それでもポテンシャルを感じるということは、それは「コミュニティ」の成熟度であるとも言えるという仮説も立てられるようになってきます。
ここでの重要な課題は、地元の資源や魅力が他地域と共通していることを認め、それでもなお地域固有の価値、いわゆる「コミュニティ」による付加価値をどのように生み出し付加し続けるかを考えることです。地域が直面するのは、独自性の追求から、共通資源をどのように特色ある形で活用し、地域に新たな価値をもたらすかへのシフトなのだな感じるわけです。
これからどうすんべ
もし、これから先も地域を継続させていきたいんだと考えたならば、我々が持つ「価値観」がどんなものなのか。できればこれに、我々が普段見る風景・景色をも組み合わせて話をしていきたいですね。
ただ、地方を活性化させるのだ、盛り上げるのだ、ではなく、私たちが私たちたる所以を改めて見直し、そこから考えてみるのもいいのかもな、とここ最近は考えているわけです。
と、長々と書きましたが、何を言いたかったかと言えば吉幾三の「おら東京さ行くだ」がまさしくこの現象を歌いあてていたなということです。
テレビもねえと嘆き、銭こ貯めても、銀座で山買おうとしてる時点でダメなんだべなw
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