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ピアニストにきいてみよう【鳥のカタログ】no.2

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作曲家わたなべゆきこと、ピアニスト大瀧拓哉の間で行われる、現代に生まれたピアノ作品についての往復書簡です。作曲家の目から見た視点と、演奏家の視点。両方から一つの作品について、深めていきたいと思います。前回からメシアン(Olivier Messiaen)の「鳥のカタログ/ Catalogue d'oiseaux」を取り上げています。
今回はちょっと遠回りして、ピアノ演奏史を俯瞰して、メシアンの演奏へ…。

ついに向かい合うときが来ました。メシアン、鳥のカタログ。
メシアンでも《幼子イエスに注ぐ20の眼差し》や《トゥーランガリーラ交響曲》は大好きなのですが、鳥のカタログだけは僕にとってどうしても謎の作品だったので、今回勉強することになってとても嬉しいです。
何が謎かって、この作品、どうしても曲の流れがよくわからなくて…そもそも人に聴かせるつもりで書いた曲なのか、鳥や自然の模倣として実験的に書いたものなのか、いつも疑問に思ってしまう曲です。だからこそ、知りたい。

さて今回お話するのはイヴォンヌ・ロリオ(Yvonne Loriod)ピエール=ロラン・エマール(Pierre-Laurent Aimard)。稀代のメシアン弾き2人について。

もちろん他にも素晴らしいメシアン弾きはたくさんいますが、この2人は理想的なくらいに対照的にメシアンの魅力を伝えてくれるピアニストだと思っています。なので僕がメシアンの作品を聴くときはどちらかではなく、両方の録音を聴くようにしています。

何故この2人が対照的な演奏に聴こえるかというと、ちょうどこの2人の世代差がピアノ演奏において様々な変わり目のときだったからではないかと思います。
イヴォンヌ・ロリオは19世紀から続く伝統的な演奏スタイルを継承しながら20世紀の作品を見ている、というイメージです。

19世紀の演奏スタイル

では19世紀的な演奏とは何か。
19世紀ロマン派の時代、レコードももちろんまだ出来ておらず、楽譜も多くは出回っておらず、今のように情報が錯綜する時代でもありませんでした。そのため楽譜を正確に弾くことよりも、演奏者各々の個人的・主観的な演奏が多かったと言います。それが徐々に名ピアニストを中心とした流派のようになっていき、スタンダードな解釈などが生まれ、音楽院などそれらを伝える機関も発達し、地域によって異なる(フランス的であったり、ドイツ的だったりという)演奏スタイルができあがってきました。そして主観的な表現(それもロマン派的な感情の伴う表現)と、伝統とが一体となったのが20世紀初めと言ってよいのではないかと思います。今聴けるその頃の代表的な録音と言えばフランスのアルフレッド・コルトー(Alfred Cortot)、ドイツのアルトゥール・シュナーベル(Artur Schnabel)と言ったところでしょうか。

20世紀後半の演奏スタイル

それが20世紀後半に入り、レコードやCDなど録音媒体が発展し、また楽譜も簡単に手に入る状況になっていくと、前の時代の個人的・主観的な演奏よりも、楽譜通りに正確に弾いてることが第一条件のようになり、その上でどのような演奏をするのか、ということが求められるようになってきます。そんな中で出てきたマウリツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini)のように、楽譜の情報を完璧に構築し、恐ろしく磨き上げられた技術と音色によってなされた演奏を一つの頂点とするような傾向になってきます。
コルトーとツィメルマンのショパン、シュナーベルとポリーニのベートーヴェンなど比較してみると、その明らかな違いに歴史の変化を感じることができるでしょう。(ツィメルマンはポーランド人だしポリーニはイタリア人だから比較は少しおかしいかもしれませんが、歴史的な違いはお分かりいただけるかと思います。)


もちろん演奏スタイルというのはそんなシンプルに語れるものではなく、個人個人のピアニストがそれぞれのスタイルを持っているので、これは傾向に過ぎません。
しかし、ドイツに5年住んだ後にフランスに移った僕からすると、ドイツとフランスのレッスンの違いはなかなか衝撃的でした。特にかなり年配( 80歳過ぎ)のピアニストからのレッスンとなると、フランスならではの音色や和声の捉え方、お洒落な言い回しなど、古き良き時代のフランスの伝統を肌で感じます。(フランスならではの音色って曖昧な言い方ですが、例えばドイツのオーケストラの響きに慣れた後にパリのホールでパリ管なんか聴くと、その音色の違いはもう衝撃なんです。こればかりは言葉で説明するより聴くしかない、としか言えない。)

イヴォンヌ・ロリオの演奏

話を戻します。僕にとってイヴォンヌ・ロリオは、そのような古き良きフランスの伝統をダイレクトに伝えてくれるピアニストという印象です。そしてそれをメシアンの演奏でも継承している。
彼女の演奏は、作品の声をまるで自分自身の声のようにして語ってるような印象を持ちます。そのような点で前時代的でありながら、しかし楽譜を全く歪めることなく表現している、というそのバランス感覚が最高に素晴らしい。
それはやはりメシアンと長年共にし、多くを直伝されたからこそ、ということもあるかもしれません。しかし、例えばシンプルなロマン派の作品で、自己陶酔するように主観的に弾くことは誰でも出来ると思います。ですがメシアンは音が多く、複雑な曲が多いですから、その構造を崩さないようにしながら自分の感情を伝えるのはすごく難しいのです。イヴォンヌ・ロリオはどんなに複雑なところでも、人間的な感情や温かく豊潤な音色が失われることがありません。そんなところが僕にとっては驚異的です。

ピエール=ロラン・エマールの演奏

それに対してエマールは、客観の極みではないでしょうか。一つ一つの音色が完全にコントロールされ、どんなに複雑に絡み合った箇所でも全ての音が恐ろしい解像度で聴こえてきます。
なのでメシアンやリゲティなどの複雑な和音も、エマールの演奏で聴くと「こんな響きだったのか!」といつも驚かされます(どんな耳と指があったらそんなふうに弾けるのでしょう)。そういう点でやはり、20世紀後半から活躍した現代音楽弾きとしてのシンボル的な存在だと思います。
"幼子イエスに注ぐ20の眼差し"のような比較的ロマンティックな感情を持つ作品でも、エマールの演奏は客観性を保っていると思います。主観的なルバートで自分の感情を表に出すのではなく、常に客観性を保ちながら、その作品が本来持っている美しさをありのままに伝えてくれます。

幼子イエスの接吻、演奏比較

よければ幼子イエスの15番「幼子イエスの接吻」を2人の演奏で聴いてみて下さい。この曲は特に違いがわかりやすい気がします。

いかがでしょうか。全然違いますよね。甲乙付けられないくらい、どちらも本当に素晴らしいと思います。

エマールの鳥のカタログ

エマールの鳥のカタログの録音を聴いたときは本当に驚きました。自分の感情、自分が何を思っているかなどという主観的なものでなく、鳥の鳴き声の細かい描写という極めて客観性の高いテーマの表現が、そのエマールの特性にぴったりなのでしょう。

鳥のカタログ。むしろ模倣、描写以外でこの曲は一体何をやってるのか…そんなところがとても気になります!

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ピアニストにきいてみよう。【雨の樹素描】no.1
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