マーケターはストーリーの悪さを知らなければならない
人類の歴史は、ストーリーとともにありました。
例えば『サピエンス全史』でユヴァル・ノア・ハラリは、人類の歴史を作ったのは「虚構(フィクション)」であったと結論づけました(※1)。現在の人類の祖であるホモサピエンスが自分より体格の大きいネアンデルタール人との生存競争に勝つことができたのは「物語を共有する力」の有無だったのです。
マーケティングにおいても「ストーリー」は重要なことは言うまでもないでしょう。
例えばある研究では「イノベーティブな製品が市場に受け入れられるかどうかは、消費者が製品の使用に関するストーリーを自己生成できるかが重要となる」という結論を得ています(※2)。
一方でストーリーは社会にとって必ずしも”善く”作用するとは限りません。
例えば「ケンブリッジ・アナリティカ事件」はこのことを端的に示しています。政治コンサルティング会社であるケンブリッジ・アナリティカ社が、膨大なFacebook上の個人プロフィールを取得し、ブレグジットやドナルド・トランプを支持する政治広告に利用していたとされるこの事件は、個人にとって都合のいいストーリーをパーソナライズして提供することで、結果として為政者にとって都合のいいストーリーを集団的に信じさせることに成功しました。
私たちは今ストーリーの”悪さ”を知らなければならない段階に来ているのではないでしょうか。
哲学者のミヒャエル・ラントマンは「われわれはまず文化を生み出す者である。次には、しかし反作用によって、文化から生み出される者である」と言いました(※3)。まさしくこれはストーリーに対しても同じことが言えると思います。
私たちヒトは500万年の歴史の中でストーリーを使いこなしているのではなく、むしろ「ストーリー」の奴隷となっているのです。それは私たちは遺伝子の乗り物ならぬ、ストーリーの伝達役でしかないのかもしれません。
そうであるなら、マーケティングという人の生活に広く、そして深く関わる活動に従事している「マーケター」はストーリーの表の顔(善性)だけでなく裏の顔(悪性)もまた知らなければならないでしょう。でなければ、私たちは知らず知らずのうちに「ケンブリッジ・アナリティカ事件」の縮小版を繰り返すことになります。
したがって本記事ではストーリーの”悪さ”という観点からマーケターが知らなければならないこと、そしてその上で何ができるかについて考えていきたいと思います。
ストーリーの2つの悪さ
■ストーリーは人の信じる心を悪用する。
ストーリーには「不信の自発的停止(willing suspection of disabelief)」と呼ばれる作用があるとされています(※2)。この作用により、ヒトはストーリーの中の主張に対して疑いを持たなくなり、無批判に受け入れやすくなるのです。またこの作用は、当初はストーリーの主張とは反対の価値観を持っているヒトに対しても有効であることが諸研究から示されています。
例えば映画の『ジョーズ』に登場するホオジロザメは人間をめったに襲うことがありません。しかし本映画のヒットによって「どうもうな殺人ザメ」というイメージを必要以上に植え付けられ、その結果、大規模な駆除対象となり現在では絶滅の危機に瀕するまでになってしまっています。
■ストーリーは現在の自分を理想の自分から「何かが欠けた存在」にする
心理学者のジェローム・ブルーナー氏は、ストーリーの筋書きには無数のものが想定できるはずなのに、世界中にある多くのストーリーは特定の形式を共有していることを指摘しました(※4)。
それは「安定した状態から、危機が直面し、しかしその危機を乗り越え再び安定が訪れる」という形式です。
この形式を文化人類学者の磯野真穂氏は「変身の物語」と名付け、「未来の自分に対する劣等感」という終わりなき欲望を喚起しようとするマーケティング手法を批判しています(※5)。
例えば磯野真穂氏が「変身の物語」の例として、以下の様な事例を挙げます。
今回紹介した「不信の自発的停止」と「変身の物語」はどちらもマーケティング本の中でストーリーの有用性として語られてきたことです。しかしそのどちらもが、見方を変えればヒトを悪の道へ誘う可能性を持つのです。
ストーリーの”悪さ"を知った私たちができること
ではストーリーの”悪さ”を知った私たちは、ストーリーをできるだけ使わないようにすればよいのでしょうか。
そうではないことは人類の歴史がストーリーとともにあったことから明らかです。むしろ私たちはストーリーという形式を抜きにしては、物事について認識し考えることすらできないでしょう。であるならば私たちはストーリーの”悪さ”について自覚した上で、善く使う努力を不断なく行っていく他ないと思います。
本節ではストーリーの”悪さ”を知った上で、私たちができる二つの処方箋を提案したいと思います。
■ストーリーを鳥の目で見る
「不信の自発的停止」を自覚した私たちは、私たちが無意識に信じている(または信じさせられている)ストーリーの存在を認識することができます。
この無意識に信じているストーリーのことを精神療法やケアの領域では「ドミナントストーリー」、そしてそれとは異なる別のありうるストーリーを「オルタナティブストーリー」と呼んでいます(※6、7)。
例えばこの構図を財務会計のバランスシート(通称BS)の観点で見てみましょう。
BSの視点で経営を評価した時、売れ残った在庫は資産として計上することができます。そのため企業は多少の売れ残りが出たとしても製品を大量生産し一製品あたりのコストを下げた方が、在庫分を資産として計上することができるため、財務会計上は優良企業として評価されます。
このことから「大量生産した方が、企業の成績がよくなる」というドミナントストーリーが企業を長らく支配してきました。しかし最近では社会インパクト評価やSDGsなど、新たな企業の成績を計る指標から導かれるオルタナティブストーリーが多くの人に認知されつつあると思います。
私たちはマーケティング戦略や施策立案において、知らず知らずのうちにドミナントストーリーを前提にしていることが少なくありません。もちろん必ずしもドミナントストーリーが悪であるとは限りません。しかし最近のマーケティング施策の「炎上」の多くは、ドミナントストーリーへの “無自覚”から生まれていることは、いくつかの事例を思い浮かべれば納得いただけるのではないでしょうか。
■ストーリーを虫の目で見る
あらゆるストーリーに共通する形式である「変身の物語」を無視することは難しい。
であるなら「変身」を「現在の不完全な自分から、未来の理想的な自分への変身」ではなく「過去の自分を捉え直すことで、現在の自分の捉え方を変化させる」こととして「変身の物語」を使うことはできないかと考えています。
例えば、心理学者のティモシー・ウィルソン氏は実証研究によって「過去の出来事を捉え直し、現在の自分を再解釈する」ことは、未来の結果に大きな違いがあることを示しています。すなわち過去を捉え直し、現在の自分の捉え方を変えることは、未来のよりよい自分につながるのです。ウィルソン氏はこのことを「ストーリーエディティング」と名付けています(※8)。
ストーリーと人間の幸福、そして脳との関係
さらに前節で紹介した「ストーリーエディティング」には大きな可能性があることを、脳神経科学の最新知見から導き出すことができます。
「ストーリーエディティング」が起きるためには「過去の自分」と「現在の自分」(そして「未来の自分」)をつなげて理解することが必要です。そしてその理解を担うのが脳の「島皮質」と呼ばれる領域だということがわかってきました。「島皮質」は脳全体の協調性を司る領域とされていて、そして幸福感の高い人は島皮質が発達しているとされています。
すなわち「ストーリーエディティング」を喚起することは、島皮質の発達を促し、結果的に幸福感を高めるのではないかと思うのです。
さらに島皮質は「他人と自分の気持ちをつなげる機能」、いわゆる(高度な)共感能力も担うとされています。そして他者がどのような考えや感情を持つかへの共感力が高まることは、同時に彼らが近未来にどんな行動をするのかという「未来予測」の脳回路を鍛えているのと同じであり、その結果、いま/わたしの損得ではなく未来/わたしたちの損得を重視して行動するようになることが研究で示されています。
私が本論で提案したいのは、ストーリーエディティングを喚起するマーケティングコミュニケーションは、マーケティング対象の個人の幸福感のみならず、間接的に社会全体の幸福を深める可能性があるのではないかという仮説です。つまり脳神経科学の最新知見が示してくれるのは、私たちがマーケティングという活動の中でストーリーを善く用いることによって人間の幸福の本質に近づくことができるという可能性なのです。
これからの時代に求められるマーケターは、「ストーリーを売る」のではなく、「消費者(生活者)が自らのストーリーを得るための手助け」をする存在なのではないかと思います。皆さんはどう思われますか?
REFERENCE
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