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文章とは可視化である。と、今頃気づく。

相手の話には一切耳を貸さない、言いたいことばかり一方的に話す、というのもある種の言葉の暴力のようなものかもしれない。僕は幸い「対談」「連載」という場のおかげで「自身の立ち位置、話す量的割合、話すスピードとBPM」について意識せざるを得ない。それって相当有り難いことだと思う。

こんなツイートをしてみた。

僕自身を振り返ってみれば、自分の都合でワーッと話してしまったり、全体的みたときに自分の割合が大きくなってしまったり、相手や一緒に話してる人が続けやすい話題を提供できていなかったり・・・、そういうことがしょっちゅうあったと思う。

そうならないように気をつけているつもりだけれど、なかなか思ったようにいかないこともあって。何とかしたい、という長年の課題のひとつだ。

これに関連して、いくつか気づきがあったので、書いてみようと思う。

僕はおかげさまで、格闘技界No.1シェアの専門誌『ファイト&ライフ』で2010年からずっと連載枠をもたせていただいている。

最初の頃は、格闘技界に必要と思われる安全知識や医学知識の記事を「毎号書いては発表する」という方法でやっていた。

でもある時期から、テーマによってゲストをお招きし、対談も行うようになった。

いろんな実践者や指導者、医療者と話していく中で、それぞれの立ち位置や考え方を知ることができるし、医学知識がどの程度浸透しているのか?とか、格闘技医学がどのような形で捉えられているか?なんてことも理解できる。これは執筆→発表、の一方通行ではなかなかに得られないプラスであった。

そして何よりも、

2人で話したとき、3人で話したときの、自分の話した言葉数が文字になってひとめでわかる。そうだ、文章とは可視化である。と、今頃気づく。

だから自分の傾向もよーくわかる。胃が痛くなるくらいに。

話の流れを変に切ってしまっていないか?話題を自分のところにもってきて相手に返さない、なんてことはないか?3人のときに2人にしかわからないような話題をしていないか?

まだまだ出来ていないところだらけだけど、少なくとも「そういうことが気になる」ようになったのだ。

話はその場で川の水のように流れていってしまうけど、その時感じた印象は案外、人の心に残り、簡単に消えることはない。

僕たちは、自分で自分の姿を見ることができない。いま、この瞬間の表情でさえ。だから誰かと何かをやる「場がある」ということは、自分を知りながら、成長の機会をいただいているということでもある。

今日もその幸運に感謝しながら、一歩前に進んでみたい。








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