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文字には質量がある

これまで機会があって、雑誌の連載をいただいたり、書籍を制作したり、エッセイ的なものを書いたり、趣味で思ったことを書いたり、色々なタイミングで様々な内容を書いてきました。
傾向としては大きく3つあると思います。

  1. フランクに思ったことを書き殴れるこんな感じの文

  2. エッセイ的に言い回しや表現、内容を気にしながら書く文

  3. 学術的にハードコアな文

もう少し具体的に言うと、
はSNSや2の文章のラフで書くもののイメージ、
はコラムとかソフトめの媒体に載るもののイメージ、
は論考や学術書のような時のイメージ、
と分かれている感覚です。

これまで色々な形で書いてきたので、それなりに物事を整理しながら書くことは慣れているつもりではいますし、それなりに本を読んでいるので表現のバリエーションもあるつもりではいます。あくまでつもりです。
もっと上手くなりたいし理解したいしサクサク書きたいし、みたいなことは常々思ってます。あと書かない期間が空くと書くのが下手になります。あとはそもそも書き慣れていない表現は見よう見まねで書くことはできても、ナチュラルには出来なくて時間がかかるということも往々にしてあります。
個人的には、もともとの形の表現でまとめることが多かったので、の時は結構悩んだりします。

本題はここから。よく、集中してれば1時間で〇〇文字書ける!みたいな話を耳にします。この表現がずっと気になってたのですが、その理由が分かったので今回それについて書こうかと思った次第。
すでに前段で分かるかと思いますが、文章には複数の種類があるということ。つまり、ものによって書きやすさの難易度が異なるということ。あくまで個人的観測ですが、書く難易度は1<2<<<<<3ぐらいのテンションです。


ここ重要です。
1<2<<<<<3
これなんです。これがリアルな体感時間。
いわゆるポモドーロ・テクニック(作業時間を25分で区切るやつ)で計測すると、自分の場合は、だいたい1セットで1000文字ぐらい。すると1時間で2000~3000文字ぐらいになります。

これが多いのか少ないのかは人それぞれなんでまあ何でもいいんですが、余談的に言いますと、何かモノを書く場合、そのパートが何文字ぐらいの分量なのか決まってます。その時、それがだいたいどれぐらいのヴォリューム感なのかパッとイメージできるようになってると便利です。

つまり、10000文字書こうと思ったら、ポモドーロ・テクニック的にいけば、みたいな文章は3~4時間あれば書けることになります。ちゃんと集中すれば書けると思います。
(もちろん書く内容があることが大前提なんですけど、そのスピード感でサクサクモードの内容をそれだけ書くことはそうそうない気がしてます)

しかしこれが一転、のような文章の場合はそうはいきません。
めちゃくちゃ生みの苦しみに苛まれます。
数百文字書くのに何時間とか平気でかかったりします。何時間もかけて書いた文章をボツにすることも平気であります。なぜかというと、誰が何を言っていたか、その裏付けを踏まえながら書くんですけど、論理的に構築することにとても大変な労力をかけるからです。


正直、の時の文章は突っ込みどころがどれだけあっても大して気にしないです。一方で、の時は極力その突っ込みどころを無くさないと意味をなさない。そのためには、過去に誰がこういうことを言っていて、だからこうなっていて、今私はこのように話をしている、みたいなことを延々とやらないといけなくなるわけです。

だから、のときの1000文字とのときの1000文字は重みが全く違うんです。そう、文字の重みが違う

文字には質量がある、そしてそれはどれだけの意味が含まれているかによるんじゃないか、と思うんです。

これはに価値が無いと言ってるわけではないです。モードが違うんです。

文章には複数のモードがあり、それを構成する文字には質量がある

これが重要な認識なのではないかと。


1991年神奈川県横浜市生まれ.建築家.ウミネコアーキ代表/ wataridori./つばめ舎建築設計パートナー/SIT赤堀忍研卒業→SIT西沢大良研修了