絵筆と距離

快晴。
夕方絵を描いた。
下図が終わって描き出しの一時間。
筆に触るのは三ヶ月ぶりくらいか。
あまり良い出だしとは言えなかった。

昼間に大学でお世話になった先生と少し話す機会があった。
大学のオンライン授業は、整備が一段落ついて、今までとは違う形でそれなりに機能しているらしい。
アトリエ利用ができないので、多くの学生は実家に帰省している。
その分リモートでのディスカッションなどが活発になり、その方面でみれば、これまでより格段に学生と教授陣のあいだでコミュニケーションが発生しているそうだ。
面と向かった対話では、会話の得意不得意や、その場の文脈、時間の都合上などで、どうしてもたどり着けない質問や議論が、メールやビデオディスカッションの場合、時差(「今ここ」で回答しなくてもよい)があってもよかったり、コミュニケーションへの苦手意識も和らぐので、それはそれでいろいろ発見があるらしい。

昨年の夏に滞在制作でお世話になったシンガポールの大学は、まだ閉校している。
先生も第二波は警戒していると言っていたが、とりあえずは秋になれば平常に戻る予定だそう。
しかし、多数の学生が集まる講義などはオンラインを継続する。
リモートではどうにもならない実習系のものだけは早めに元に戻したいところだろう。
絵を描く上で何より苦心するのは場所の問題だ。
キャンバスで大きな絵を描こうとすれば、それならのスペースがいる。
私は幸いにも今の家で、F100号(1620x1300mm)をなんとか描ける部屋を確保できたが、この最低条件は学生には案外厳しい。
大学はアトリエとして有効なので、それを使えない学生たちの無念は、容易に想像がつく。

勝手な自論だが、絵なんて誰に教わる必要もない、ただ描くか、描かなくともただそれに常に向き合っていればいいだけのものなので、大学は自由な風紀とスペースさえ提供すればよいのだ。
それが出来ないとなれば、建物はもはや無用の長物である。
つくづく思うけれど、絵を気ままに描けるというのは非常な贅沢だ。
絵具は高いし、支持体(描く画面)だってタダで降ってくるわけじゃない。
空間もいるし、時間もいる。その上それがそのまま何もせずに商品として流通するわけでもない。

自分はなんでこんなことをしているんだろう。
正直私はよくそう思う。
今日もそんなふうに絵筆を握っていた。

三月、四月は非常に澄んだ心で生きていたけれど、最近は上手く自分と向き合えていない。
深く考えていないし、目先の生活に捕らわれている。
文章もつまらないし、意識も散漫としている。
こういうときは、しかしやはり、絵を描くしかない気持ちもする。
だから描くけれど、良いものになるかは分からない。
分からないけれど描くということは、もうこれ以上どうしようもない。