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「 環世界 」-自分が見ている世界だけが”本当”なのか-


「トゥルーマン・ショー」という映画をご存知だろうか。トゥルーマンという名の一人の人間の誕生の瞬間からの人生を、テレビの視聴者に24時間365日生中継するという設定のドラマが舞台となる。トゥルーマンの日常は隠し撮りされ、脚本通りに彼が人生を送るように番組はさまざまな演出を仕組んでいく。もちろんトゥルーマンは、自分が脚本通りの人生を送っているなんて考えもしない。


周りを壁で囲まれた擬似的に造られた広大な港町には、小国に匹敵する演者・スタッフと5000台のカメラが至る所に配置され、彼らはトゥルーマンに偽りの世界だと悟られぬように演技し、カメラは"演出された"彼の日常をブラウン管に映し出す。視聴者は彼の一挙手一投足を固唾を飲んで見守る。彼はあるトラウマが原因で(まぁそのトラウマも製作陣にそうしむけられたのだけれど…)町から出ることができない。しかし、いくら膨大な予算をかけ、緻密に計算したとしても、人間がやることなのでミスを犯す。そのほころびに彼が疑問を持ち始め、そして…。


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僕は子どものころ、まさにトゥルーマン・ショーと同じような造られた世界の中で"生かされている"という感覚を持っていた。ふとした時に、自分が今見ている風景は、全てドラマやコントと同じように誰かが造ったセットで、何者かがこの壁の向こうから僕のことを見ていると感じられた。何の目的かはわからないけれど、確かにそこには不穏な空気が感じられた。むしろ本当の世界は壁の向こうの世界なんだとすら考えていた。だから子どもの頃のある期間、僕は日常とは別の、もう一つの世界にずっと目を光らせながら生活をしていた。だから今でも、見えている世界"だけ"が本当ではない、という感覚が残っているように思う。

「環世界」という言葉がある。  
ドイツの生物学者、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した説だ。環世界とは、生物は同じ環境に存在していても、その生物特有の知覚によって、独自の時間と空間が立ち現れるという主体的な世界のことを指す。視覚や聴覚情報を持たない生物が、世界をどう認識するのか。ざっくり言えば、オケラだって、ミミズだって、アメンボだって、世界を知覚する方法はそれぞれ違うから、認識される世界も違うよ、ということ。それは生物の種の違いだけで生じることではなくて、同じ種の人間の中でも一人一人の環世界はある。

リンゴは赤い。

では何人かで同じリンゴを見ている場合、それぞれ認識する赤に全く違いはないのか?極端な話、ある人には赤でも、他の人は青に見えているかもしれない。そんなはずはないと思うかもしれないが、一方でそれを証明することもまたできないのも事実だ。


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パブロ・ピカソの「アビニヨンの娘たち」という有名な作品がある。だからアートは訳がわからん、と見るなり言われてしまいそうな絵の代表かもしれない。正直僕も少し前までは訳わからんと思っていた。
女性の裸婦像なのだけど、体は形が崩れ、目や鼻は大胆にデフォルメされ、写実的な立体感はなく、平面的。当時のアーティストたちも酷評したという。                 


しかし決してピカソは適当に筆を走らせたわけではないらしい。例えば肖像画を描く場合、通常は対象の人物に対して描き手からの一方向の目線だけでとらえた姿が描かれる。ところがピカソは、対象の人物を複数の目線で同時に見た時にどんな表現になるかを描こうとした。人を正面から見て描くとき、その瞬間存在していたはずの、その人の背後や真横、真上からの姿を同時に描かれることはない。もちろん、それぞれの角度から見た姿を、別々に描くことはできる。でもピカソは、さまざまな角度の視線を混在させた一つの肖像を表現してみせた。体のある部分は正面から、また別の部分は斜め前からといったようにさまざまな角度から見た体のパーツを切り取り一つの人物画の中に複数の見方を同居させた。先に平面的と書いたけれど、実はある意味とてつもなく立体的なのかもしれない。

そしてピカソは、実際そのように対象を見ていたということだ。つまりその絵はそのままピカソの環世界を写しとっているとも言える。ピカソに限らず、アーティストの作品(表現方法は違えど)を見るとき、私たちはその表現者の環世界を見ている。おそらく他人が知覚する環世界を体験することは出来ないから、アート作品を見るということは、実はかなり貴重な体験なのだと考えることもできる。


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やもすると私たちは、お互いに世界を"同じように"見ているという大前提の上で社会を生きているように思う。だが社会の中で多くの対立や分断が起きていることからも分かるように、そんな前提はそもそも存在しない。皆それぞれの環世界の中で生きているのだ。
これまで当たり前だった普通や常識が通用しなくなった時、私たちはどのように別の世界のありようをつくり出していけるのだろう。もちろんそれには、テクノロジーや経済対策などのさまざまな要素を横断的に繋げながら問題を解決していくことが重要だ。
しかし”今までの普通”を乗り越えていくような営みの中では、訳がわからないと言ってピカソの環世界を否定するのではなく、自分とは違うものの見方を受け入れて、もっと言い換えれば、自分とは違う新しい知覚方法を知ることで、自らの環世界の領土を広げ、自分の中の普通を別の角度から見つめ直す姿勢を持つことがまずは大切なのではないかと思う。
さらに私たちは自らの環世界を表現や対話などを通して認識し合い、共感や批判(非難ではない)を繰り返しながら、自分だけでは辿りつけなかったはずの気づきや学びを獲得していけるはずだ。

当たり前や常識を疑え、なんて周りくどい言い方ではなく、実際に当たり前が、当たり前ではない世界になってしまった。あるのは私たちそれぞれの環世界だけ。でも、だからこそ、環世界の数だけ未来への可能性があると思っている。

さて、造られた壁の向こう側へ行けた時、トゥルーマンはどんな環世界をつくり出すのだろうか。

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バッグ職人。オリジナルブランド革式主宰。また、業種、業界を越えたつくり手との対話から生まれる、意味や価値を伝える活動を行う「WELINK.」の立上げメンバー。
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