見出し画像

今の興味: 「メタ言語能力」を育てる英語授業

メタ言語能力とは何か

「Aとは何か」という問いを立てると,「Bである」という答えを期待してしまいがちですが,少なくとも今の僕に「メタ言語能力」という概念Aに対する,明確な定義Bを与える力・知識はありません。
ですので,ここではとりあえず僕がいま座っている椅子から一歩も動かずに手に取れる距離にある本の中で最も簡潔に表されたBを置いておきます。

「言語知識を対象として,高次から観察したり,分析したりする能力」(大津, 2019, p. 277)

"This is a pen."を「これはペンです」と訳す能力を一つの「言語知識」とした時,"This is a pen." という文において,"This"は話し手の手の中だったり,指差している先(近距離)だったりにある物体を指し,"is"で「その物体について何か情報を与えるぞ」というメッセージを伝え,"a pen"は一本のペン,そしてそれは聞き手にとって「あー,あのペンね」とはならないペンだということを示す,みたいなことを説明できるのが「メタ言語能力」ということでしょうか。確かにこれも一つ魅力的な能力です。言葉を教えるのが仕事であれば尚更。

ただ,自分の育てたい力はそれ(だけ)ではない気がします。「メタ言語意識」というAに変わってしまいますが,こんなBが(またしても僕が椅子から一歩も動かなくていい範囲に)あります。

「様々なコミュニティ,話者とかかわっていく中で多様なバリエーションの中に存在する差異を読み解いていく感性 (sensitivity)」(佐藤・熊谷, 2017, p. 172)*

多分,僕の興味はこっち(まで含めたもの)です。「意識」というと(「高める」ことも出来るけど)「持つ」「持たない」みたいな言葉とも使われるし,どこか個人の「特性」みたいなイメージを僕自身が勝手に持ってしまいます。そのため「メタ言語能力」と呼んで,上で引用したような「感性」を磨いていくような教育をしたいと考えています。(正直呼び方に強いこだわりがあるわけではないので,今後文献を読んでいく中で,やっぱ自分の育てたい「力」は「意識」と呼ぶべきなのかもしれない,となる可能性も高いです。)

上の引用にある「バリエーション」や「差異」は,日本の英語教育の中では「アメリカ英語」「イギリス英語」「オーストラリア英語」... etc ぐらいの話で終わらせられてしまうかもしれません。
しかし自分は,一つ一つの言語使用に,仮にそれが「同じ」言語であったとしても,バリエーションや差異があると捉えています。僕が書く日本語の文章でも,このnoteの投稿と,twitterと,Instagramでは全く違ってきます。基本的には想定読者とか,そのメディアの空気感とかそういうものの影響を受け,バラエティー豊富な「かわむらの日本語」が生まれ,その一つ一つに少なからず「差異」があります。

*『かかわることば 参加し対話する教育・研究へのいざない』(佐藤・佐伯, 2017)の第6章の中でCanagarajah (2007)から引用された,「トランスリンガル・アプローチ」の立場から見た,現代の言語教育への提言の一部。

なぜメタ言語能力なのか

対象言語をコミュニケーションの行われている文脈や場面(フィールド・テナー・モード)**を意識して,理解・使用することができる外国語学習者。
端的に言うと,これが自分の「目指す生徒の姿」です。もしくは「優れた言語使用者」とか「良い外国語学習者」とか言うこともあります。

寺沢 (2020, pp. 195-200)によれば,「グローバル化の時代に,英語は必要だ」というのは勘違いであり,短期的に見れば英語使用ニーズは微増こそすれ,劇的に日本中の人々に英語運用能力が求められるようなことは無く,中長期的に見通しても日本という国で英語が生活のために「必要」となる可能性は否定されます

対して,英語を日常的に喋ろうが喋らまいが,コミュニケーションを思慮深く行うということは人間として「必要」と言っても過言ではないほど重要なスキルではないでしょうか。ここでいうコミュニケーションとは対面やオンライン会議のような口頭によるものに限らず,ポスターや広告,トイレの注意書きまでをも含めたあらゆる情報の伝達一般のことを想定しています。
同じ国の同じコミュニティに属している人の共通の母語によるコミュニケーションでさえ,その伝わらなさに起因するトラブルは尽きません。ましてや,海を渡った異文化・異言語の世界との対話ではどうでしょうか。どんなコミュニケーションの場面でも相手の文化を100%理解しろ,というわけではありません。ただ,まずは自分と相手には大小様々な「違い」があって,その中で言葉を用いた心許ないコミュニケーションをしているんだということに意識的になることが肝心ではないでしょうか。

「それは英語教育じゃなくて,国語でやればよくない?」という声が聞こえてきました。何を隠そう,これは僕自身の声です。正直言って,「国語教員になってればもうちょい自由にやれたな」と思ってます。ただこれから国語の教員免許を取る気にはならないですし,正直僕が受けてきた国語教育でも僕のやりたい言葉の教育は実現されていなかったと思います。僕は上の僕自身の声に対して,やはり僕自身の声で「国語がやらないから英語でやってやるんよ」と,とりあえず強気に返します。そしてそのあと,国語科と英語科の連携・コラボがあれば,もっと理想に近づけるんじゃないか?と考えるというサイクルをこれまでに何度も何度も回しています。気の合う国語科教員と巡り合えることを願っています。

**「フィールド」: コミュニケーションの中で何について話されているか
 「テナー」: コミュニケーションに参加している人の関係性
    「モード」: コミュニケーションの方法・様式

文脈を持ち込み,英語教育に「知性」を

「言葉を理解したい」「相手に気持ちを伝えたい」という言語使用や言語学習の動機を持つとき,それを(広く「文化」まで含んだ)文脈から切り離して,言語の構造と語彙の当てはめだけを教える・学ぶのはナンセンス。しかし,日本の英語教育で学習者がテクストを読んだり聞いたりする時,また話したり書いたりする時,どれほど充実した文脈が与えられているか。どれほど深く文脈について考えさせているか。

ここが充実しない限り,英文法の構造について同級生より少し詳しく語れるだけの勘違い野郎が再生産されることはあっても,コミュニケーションについて思慮深く考え,自らの言語使用を相対化し,目の前の他者やその向こう側の世界を見据えた言語使用を意識的に行えるような,知性溢れる言語使用者・外国語学習者は,今の日本の英語教育ではほとんど育たないだろうと考えます。

参考文献

大津由紀雄 (2019). 「メタ言語能力の育成を基盤に置いた言語教育を目指して」秋田喜代美・斎藤兆史・藤江康彦(編)『メタ言語能力を育てる文法授業 英語科と国語科の連携』ひつじ書房. 277-287.

佐藤慎司・熊谷由理 (2017). 「社会・コミュニティ参加を目指すことばの教育」佐藤慎司・佐伯胖(編)『かかわることば 参加し対話する教育・研究へのいざない』東京大学出版会. 163-190.

寺沢拓敬 (2020). 『小学校英語のジレンマ』岩波新書.



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?