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『第四次産業革命と教育の未来—ポストコロナ時代のICT教育』

佐藤学(2021)『第四次産業革命と教育の未来—ポストコロナ時代のICT教育』を読んだ。

本書は手に取りやすい形で「第四次産業革命」(日本風に言えばSociety5.0)や新型コロナウイルスのパンデミックによる世界の劇的な変化を描写,近い未来への危惧を表明し,今後必要とされる教育の在り方を論じている。

「人材」概念の変容(pp. 33-40),日本式「個別最適化」の脆弱さ(pp. 44-46),「STEAM教育」が「ICT教育」と結びつけられることへの違和感(pp. 46-47),「未来の教室」の無理筋さ(pp. 47-48),学校教育が(私企業の参入ハードルの極めて低い)市場とされることへの抵抗(p. 72)など全体を通して「わかる,使える<はじめの1冊>」としての役割は果たしているだろう。

(副題に惹かれてICTの効果的な使い方ガイド的なものを欲した読者にはあまり満足できる内容ではないかもしれないが)

一方,内容的に物足りない部分や筆者の主張の受け入れを留保せざるを得ない部分も少なくない。

例えば,ICT教育の質の向上に関して,「教える道具」としてのICT活用(Computer Assisted Instruction: CAI)から「学びの道具」(であり「思考と表現の道具」であり「探求と協同の道具」)としてのICT活用(Computer Assisted Learning: CAL)への転換の必要性を説いている部分について(pp. 50-54),その主張自体は全く否定されるものではないとしても,そもそも「思考」「表現」「探求」「協同」とはどういったものかが教師に理解されなければ,「タブレットを使ってグループワークをやって,発表させれば良いんだ」という短絡的な解釈をされかねない。「それは著者の別の文献にあたればどれだけでも書いてあるだろう」とも言えるが,「はじめの1冊」として読まれるからこそ,そこはこだわってほしかったと個人的には思う。

私は少し前にICTを用いた授業に対する外部評価を受ける経験があったが,「とりあえずグループワークか,調べ学習か,発表か…」という思考に陥りやすいことを自覚させられた。
ICTをどのように使うかが執拗に取り沙汰されてそういった不自然な思考に陥ってしまうことへの警鐘が,あとがきにあるICT機器も「文房具」のようになればいいという言葉の意図なのだろう。ICTを文房具と呼ぶこと自体は色々と見えていないことが多いICTリテラシーの低い人という感じもしてしまって微妙だが。

また,コンピュータにアシストされたラーニングが,そうでないラーニングよりも「善い」ということでもない。筆者はそんなことは言っていないので,これは読み手側の意識の問題だ。
自分の求める教育活動にICTが貢献できるなら効果的に使えばいいし,何かブレイクスルーを欲してICTの可能性を色々知りたいなら試してみればいいとは思うが,「今時ICTも使ってないの?」「ICT使うのはとりあえず常識っしょ」という,「朝活」至上主義者のそれにも似た押し付け感というか,身勝手な優越感というか,そういう態度でいる時点で,ICTこそ好きに触っていればいいとは思うが,学校教育には是非手を出さないでいただきたいという気持ちになる。

つい,筆者の言ってないことを引っ張り出してただ文句を言うだけの時間になってしまった。手書きだったらペンを走らせるのがめんどくさくてこんな余計なことは書かないのだが,ICTの力は恐ろしい。


気を取り直して,終盤の経済格差の拡大による資本主義の危機について。

「資本主義が崩壊すると,暴力と戦争と競争が支配する野蛮社会が復活してしまいます。そうなる前に資本主義を正常化し,資本主義の機能をまっとうなものに恢復する必要があります。」(p. 71, 太字引用者)

とあるが,今の世界は既に「暴力と戦争と競争が支配する野蛮社会」と言えてしまう状態ではないだろうか。そして資本主義は本質的に今我々が目にしているような崩壊に向かうのが必然だったとする見方もあり,資本主義が上手くいっていた時代への回帰はもはや不可能,あるいはそもそも地球全体として見たとき資本主義が上手くいっていた時代などないのかもしれない。この点について,自分は経済学については全くの素人だが,以下の2冊が参考になる。

昭和・平成のいわゆる「詰め込み」教育に逆戻りしたいわけではないが,「これからの時代を生き抜く力」なるものを学校教育で育てなくてはいけないほどに生きることを厳しくしてしまっている現実がある。

人間が人間のために作ったはずの資本主義というシステムが結果的に多くの人間を苦しめるものとして機能し,そこで苦しめられるものには「努力不足」のレッテルが貼られたり,そもそも多くの人にその苦しみが見えないように隅っこに追いやられたりしている。

タイトルにもある「教育の未来」を語る際,社会の方の未来をどう想定するか,どのような社会を希求するかという問題は極めて重要だ。「これからの時代は〜だ」というある種の仮説から,「〜すべき/〜であるべき」といった主張は直接的に導かれない。その仮説が事実であったとしてもだ。

多彩なICT機器やグローバル規模での学校間オンライン交流などこの時代ならではの教育内容・教育機器に踊る心を一旦落ち着かせ,そこで明示されない価値観・教育観に自覚的・批判的になることができなければ,今後も学校教育は格好の市場とされ続けるだろう。

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