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ジグソー法でのReadingは禁断の果実

今期の英語科目で一番失敗したと思っている実践について書いていく。

私が今期、一年生の四技能科目(Reading/Listening)の中で最も失敗だったと反省しているのが、4パラグラフ構成の"Background Music in Vlogs"という英文をジグソー法で読んでいくReadingの活動。

たまたま最近SNSで「英語授業でジグソー法はやめておけ」的な話を見かけた。なんとなく教室は盛り上がるし、アクティブ・ラーニングっぽいから教師には魅力的に映りがちだけど、その内実をちゃんと見てみると英語学習として上手くいっていないことが多い、まさに禁断の果実である。

今回は、「英語の授業でジグソー法はやめておこう」ではなく「英語の授業でジグソー法に手を出すなら、こういうことを考えよう」というスタンスで書いてみたい。

ジグソー法を用いる目的と背景要因

「ジグソー法をやってみたい」という類の教師の好奇心を私はあまり否定しない側の人間ではあるが、やはり基本的には「目的」に応じた「手法」があるべきだろう。また、「目的」があればそこから直線的に「手法」が決まるわけではなく、授業者や学習者の置かれている文脈や学校・教室の文化など様々な要因が関係し、それらとの綿密な「交渉」の末に、手法が選ばれる。

この実践をするに至った「目的」「背景的な要因」は以下の通りだ。

目的:「なんとなくこういう意味だと思う」という読みではなく、テキストを分析的に読むことを練習させたい

これはこの学期の授業を通して、もっと言えば過去2年間のこの大学での実践経験から生まれた目的である。授業の中ではどの技能も様々なバリエーションを体験してもらいたいと考えているので、毎回分析的な読みにこだわるわけではないが、どこかのタイミングで分析的な読みをしっかりやってもらいたい思いはあった。

次に、主要な背景的要因は二つある。(もちろん、任せてもそれなりには読める学生がほとんど、というクラスの状況はあった)

① 即興で(横に並んで)話す力をつけてほしいと思って、vlogを2~3人グループで撮る活動を計画していた(そのための練習活動もしていた)
② 教科書のトピックがたまたまmusicだった

目的があって、そこに二つの背景要因が重なり、私は「自分達の撮ったvlogに効果的なBGMをつけるために、BGMについて書かれた文章を読んでもらおう。その際、『なんとなく分かった』で終わらないように、他の人に説明できるぐらいまで文章を分析的に読んでもらおう。全文を個人でやると負荷が重たすぎて脱落者が結構出そうだから、分業にしよう。」と考えた。

「他の人に説明」「分業」となれば、単純な私の頭にはジグソー法が浮かんでくる。
ただ、このタイプのジグソー法ではせいぜい良くても「自分の担当範囲についてはそこそこ深く理解できてる。他の人の範囲は、まぁなんとなく分かった」ぐらいまでしか期待できない点に注意が必要だ。(そうならないように活動を設計することももちろんできるが)
私は「それでも自分の担当範囲だけでも分析的に読んで人に教えることに挑戦してもらおう」と考えてこの手法を選択した。(vlogのクオリティを上げるところは英語学習とはあまり関係ないので拘りすぎない。)

この目的・文脈に応じて選んだ手法が、なぜ「失敗」に終わったのか、大きな2つの要因を順番に見ていく。

失敗の要因① グループ分け

ジグソー法において、二つのグループ(「ホームグループ」と「エキスパートグループ」)の構成(とそのプロセス)は大きな意味を持つ。どのエキスパートグループに入るかということを(英文の概要や小見出し等を示して)自分の関心に従って選ばせることもあるし、ホームグループで戦略的に各エキスパートグループに「適材適所」で人を送り込むというスタイルも取れるかもしれない。

私の今回の実践ではこのグループ構成の手順を機械的にした。このクラスは16名で、いつも4人グループをランダムに構成して授業をしていた。その「いつも通り」の感覚で、その日トランプのマークを使って分けた4人グループがホームグループ、各マークの同じ数字を持つ人を集めたのがエキスパートグループという形でグループを決定した。「どんなグループになってもちゃんと活動できるだろう」というこのクラスのメンバーへの信頼があったからこそできたことでもある。

可能性としては、ホームグループをvlogを撮ったメンバーで揃えることもできた(もちろんそのアイデアは頭の中にはあった)。担当する分量もそれによって重たくはなるが、複数の情報を「分業」によって持ち寄り、それらを「協働」によって一つの形にする(自分達のvlogに適したBGMを選ぶ)というゴールがあることで、ホームグループで互いの持ち寄った情報をより真剣に吟味し合うことが期待できる。
一方で、今回の実践における教師側の狙いはあくまでも「英文を分析的に読む」だったため、「私たちのvlogのBGMどんなのがいいかな?」とvlogを見返して音楽を探して…という活動に授業時間を割き過ぎないよう、あえてホームグループとvlogのチームを無関係にした。この判断自体は私の中では決して間違っていたとは思っていない。それがすごく大きな効果を生むわけでもないが、失敗に繋がる落とし穴でもなかった。

むしろ問題だったのは、エキスパートグループをランダムにしたことだ。

度々繰り返すが、今回の狙いは「英文を分析的に読む」こと。そのトレーニングを積むのはあくまでもエキスパートグループで4人で同じ文章を読んでいる時である。ホームグループに帰ってからの時間は「成果発表会」のような場であり、エキスパートグループでの活動時間がその「成果」の質を分ける。今回、私の観察した限りでは、誰一人としてサボったり、フリーライドしたりしている学生はいなかった。「後で自分のグループに帰って説明する」というタスクが課されているので、比較的英語に苦手意識のある学生も機械翻訳で訳せばOKとはならず、同じエキスパートグループの人の助けを受けながら本文の意味を理解していく。それぞれの学生がそれぞれの学生なりに努力していた。

その上で、グループによって読みの緻密さに差が生まれた。ここで私の活動の設計ミスが露見した。
あるパラグラフを担当するグループには文の構成要素とその関係を緻密に理解しようとする学生が複数名いて、その学生に引っ張られて普段は文法を苦手とする学生も主語・述語関係、修飾・被修飾関係などを紙の上に矢印や言葉を足して明示していた。この授業で期待する生徒の姿そのものと言えた。

他方、別のグループには英文を見たらその和訳をなんとなくパッと言えるタイプの学生が複数人集まっていた。それらの学生に引っ張られてグループ全体が「あー、確かにそんな感じの意味になるね」とぼんやりした和訳ありきの読みにとどまり、「なぜこの語の並びでそう訳せるのか」という問いにはほとんどぶつからないまま最後まで読み進めた。途中で私が介入して「この訳、英語の訳としては分かるけど、本文のメッセージとしては結局どういうことを意味してるの?」とか「これ、なんでこういう訳になるの?」とかいくつか発問をし、それを受けてその場で考えはするのだが、やはり先のグループほどの分析には至らない。

あくまでもグループごとの傾向の話で、一人一人の学生にとってはもう少し違う実感があるかもしれないが、少なくとも私にはそういうふうに見えていた。学生の読み方の癖やスタイルを意識して、意図的なグループ編成をすれば、より力が発揮できた学生、より分析的に読むトレーニングを積めた学生がいたかもしれない。

失敗の要因② 介入への迷い

グループ編成については、気づいた時点でもう組み替えることもできないので、そこからできることはそれぞれのグループに必要な足場掛けを判断し、適宜支援や指導をすることだ。(ここでは「介入」という言葉で括る)
授業である以上、適宜教師の介入はあって良いし、あって然るべきである。事実、上で触れたような発問という形での介入もいくつかした。
ただ、ジグソー法を選ぶと選ばないとに関わらず、私自身の授業者としての課題として【介入への迷い】が生じていることがこの実践を通して浮き彫りになった。色々な場面で感じてはいたが、改めて「大切にすべき授業者としての個性」というよりは「より良い授業をするために乗り越えるべき課題」であると、この実践を一人で振り返っていた当時、強く認識した。(この【介入への迷い】が強まった要因やきっかけには、いくつか思い当たる節があるが、ここでは割愛。しかし、「授業観」みたいなものは色々な経験から重曹的かつ流動的に成り立っているものであるという点は大切だ。)
「分析的に読む」という目的から、(例えば、適宜発問しながら分析的な読みを教師中心に展開するという手法ではなく)ジグソー法という手法を選んだのは、「アクティブ・ラーニング」「主体的・対話的な学び」への意識の表れだろう。
その手法の選択の根底にある「学生を信じてやらせてみる」という基本的な姿勢が少し歪んでくると「私が介入しなくてもやれるはず」「介入せずに失敗しても、そこから学ぶこともある」と段々介入を避けるようになる。少なくとも数ヶ月前の私はそういう傾向があった。お節介な指導とか、学生の権利を奪うような制限とか、そういうものは基本的に忌み嫌っている私だが、学びを深めるための介入を避けるようになってくると、教師の存在意義が問われる事態となる。「教えない授業」が言葉だけ広まって全国のあらゆる教育現場で同じようなことが起きているかもしれない。
確かに私の介入がなくてもちゃんと読んだし、それなりに理解はしていたが、私の求めていた水準には達していない学生が複数人いて、そこに対して十分な介入をしないのは私のミス、あるいは、より厳しく言えば怠慢である。

厄介なのは、こういった私の傾向(ひいては「教えない授業」とか「アクティブ・ラーニング」とかに挑戦している多くの先生の傾向?)が「学生を信じて任せてみる」という基本的な教育観・授業観と強く結びついていることだ。強い信念と結びついた癖はなかなか変えづらい。癖が身体に染み付いてだけでなく、行動を変えることを信念が邪魔する、あるいは信念との葛藤で判断が遅れる。

しかし、「学生を信じる」という信念は必ずしも「介入しない」「教えない」ということに直結しない
「今こんな発問をしたら、もっと深く考えられるかもしれない」「このことを教えてあげたら、もっとやりたいことがやれるようになるかもしれない」そう考えることも「学生を信じる」ことになるはずだ。
この捉え直しが、「主体的な学び」と「介入」のジレンマを解きほぐす。

ビースタが『教えることの再発見』の中で主張するように、教師からの教授を受けている学習者は、単に受動的に情報を受信しているわけではなく、(退屈や逃避も含め)一人一人異なるあり方で受け取っている。もちろん退屈や逃避は我々教師にとっても学習者にとっても望ましいものとは思われないが、「教える」という行為がそれらに直線的に繋がるわけでは決してない。
学習者に期待してジグソー法を採用するのであれば、時に教師が介入することによってさらに学びを深めてくれるかもしれない、という「期待」も持ち合わせるべきなのだ。

学習者の視点や考え方が変わったり、闇雲にやっていた中に光明が見えたりするような介入ができることこそが、「教師の専門性」の一つ。確かにそう信じている私もいて、「学生を信じる」ことにやや頭を支配されすぎた結果、その本来の教育観・授業観がブレていた。

そのことに気づくきっかけとなる実践だった。

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