竹沢清(2005)『子どもが見えてくる実践の記録』
表紙に記されている「『困った子』ではなく、『困っている子』として」という言葉は、聞き古されすぎて陳腐にすら感じるが、本書を通読した後に本を閉じて再度表紙に目をやると、この言葉に重みを感じるようになる。
(竹沢先生が子どもの成長・発達の必要性を見取る時、それを「困っている」と認識しているかは、私の読んだ印象としては微妙だけど)
運動会のエピソードをはじめ、教師を目指す学生、教師を目指すか迷っている学生、そして現場の忙しさに「どうして教師になりたかったんだっけ」と悩む先生やそんなことを悩む暇すらない先生に、一人でも多く届いてほしい一冊。
ろう学校での実践ということで、もしかしたら自分の(目指す)現場とは関係ないと思われるきらいはあるかもしれないが、それでも一度この本に触れてほしいと思う。
実践記録から得られる感動を今後の読者から奪わない範囲でグッときたポイントに触れておくと、20年近く前の本ではあるが(その時期だからこそか)、「個別最適化」された教育への危機感がすでに強く表明されている。
本書から読み取れる竹沢先生の実践は、一人ひとりの子どもを理解して、その子に求められる成長・発達を見極め、それに必要な学びの内容や方法を判断し実践している。まさに一人ひとりの子どものための教育実践とそれを可能にする眼差しに溢れている。
一方でそれは昨今辟易とするほど耳にしている「個別最適化」という言葉からイメージする教育のあり方とは全く異なる。
Can-Doリストにチェックを付けることに奔走する英語教育はこの痛烈な批判にどう応えるか。その後にはこう続く。
もう一箇所、英語教育の人間として首を痛めそうなほど頷いたのは、隼人くんの「ことばを育てるうえで」竹沢先生が大切にした「ことばの四要素」について。
このうち、④だけで行われている英語教育実践はないだろうか。④こそがことばの教育であるという前提に立った言語能力試験に学習者は振り回されていないだろうか。
③の「意識化」について、竹沢先生が隼人くんに行った働きかけの実例は、いわゆる「タスク」や「言語活動」を考える際にも役に立つ発想とも言える。もちろん他もそうなのだが、ここで他の要素よりも多少詳しく立ち入られているのは③だけである。(ただ、①と②は本書全体を通して描かれているとも言える。)
ここまでで取り上げたこと以外にも、我々の教育実践へのヒントになること、そして元気をくれるエピソードが沢山ある。
実は私は今、毎長期休み恒例の「授業のないことによるメンタル不調」および「メンタル不調から来る生活リズムの乱れによるフィジカル不調」の真っ只中なのだが(自宅療養中)、この本を読んでいる間、前期の授業内外で学生と関わった多くの場面を思い出した。本当に多くの反省もありつつも、後期の学生との再会および新たな出会いが楽しみでならない。
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