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分析的理解は全ての学習者を助けるか

英語科教育法Iの振り返り。
模擬授業第13回目。今回の先生役の学生にとっては4回目の挑戦。

模擬授業の概要

「英語は予測できる!?」というテーマで中学2年生に対して接頭辞の働きを指導する授業。
左側にいくつかの接頭辞とその意味、右側に語根となる単語が書かれたワークシートの左右を繋げて、意味を考える活動がメイン。

教師のTHINK: 「予測できることは嬉しい」

検討会の中で、先生役の学生は「単語の予測」をできるようになってほしいと願い、その根底には「単語の意味を接頭辞から予測できるようになることは嬉しいこと」だという感覚があった。
また、予測する過程自体を楽しむことを意識し、「正しくなくてもOKなので、ペアで何かしら答えを出してほしい」ということを語った。

授業のアイデア自体は私個人としてはとても面白かった。左右に配置された接頭辞と語根を適当に組み合わせるというのも,新しい造語を作れそうで楽しそうだったし、適当に作った単語が本当にあった時、しかもその意味まで合っていた時なんかはとてもテンションが上がりそうだった。論理的に意味を推論する力にも繋がるし、逆に論理的に考えれば存在していても良さそうな語が実は存在しないというのも「自然言語み」を感じてもらえそうで、私の好みだ。
接辞を参考書や単語帳で淡々と勉強するよりも、そういうポジティブな感情を伴った経験を通して学ぶことで、より多くの学習者がその後の英語学習で接辞を意識することができるようになるかもしれない。

生徒のTHINK: 「別に使わないかな」

一方、生徒の方はあまり活動が盛り上がらず、先生の方も「難しいのは知ってた」が、「盛り上がらないなー」と思っていたようだ。
なぜ活動が盛り上がりに欠けたのか。生徒の側のTHINKやFEELを見てみる。
授業の冒頭に先生が「接頭辞というのがあって、」と説明をしている時、すでに複数の生徒が「興味がない」「つまらない」「単語の予測なんて無理」などと思っていたようだ。

検討会で(役割カード上)英語が得意な生徒を演じたある学生は「英語の文章に出てくる単語だいたい分かるし、別に使わないかな」と言った。
これが実際の中学2年生の実態とどれほど重なるかは別として、生徒に「なるほど、これは役に立ちそうだ」と思わせられなかったという課題が端的に現れたシーンと言える。

教師と生徒の学習経験の差

今回の授業で生徒役を演じた学生の中にも実際には接辞や単語の由来などを分析的に勉強するのは好きだと言う学生は複数名いた。そんな彼らが自分の感覚にだけ流されて安易に授業を楽しもうとしなかったことがある意味生徒役としての成長を感じさせる。

教師が役に立つと思っていたり好きだと思っている学習内容・形態・素材を、学習者に対して「役に立つから」と押し付けるような形になってしまうと、往々にして上手くいかないだろう。
英語教師は教室で出会うほとんどの生徒の比にならないほどの時間を英語学習に費やしてきているはずである。その豊富な学習経験の中で単語を意味と一対一対応で覚えることの限界を感じたり、どうしても長文の中で辞書で調べずに意味を理解しなければならない状況に置かれたりという経験も沢山する。そういった経験の積み重ねが分析的に語彙を学ぶことの有用感をもたらす。

また、中学生と英語教師ではすでに知っている語彙の数にもかなり大きな差がある。豊富な語彙知識の中で接辞と語根に分けることで分析的に意味が理解可能な単語をいくつか知っているからこそ、英語教師(になるだけの英語力を持った人)にとっては分析的な学習が有意義に思える。
そもそもの語彙知識がまだあまり豊富でない中学生の場合、仮に接辞と語根で意味が予測できる単語があっても、その絶対数が圧倒的に少ない。つまり、推論の材料となる「具体」が少ないため上手く「抽象」化して考えることができない。

これは接辞に限らず問題になり得る。これに類するものとして最も代表的なものの一つは(大抵の場合,認知言語学の知見を応用した)「イメージ」で捉える文法や語彙の理解だろう。前置詞等の機能を含む多義語の意味を一つの「コアミーニング」のようなもので括ることはそれなりの英語学習経験を持ち,多様な意味・文脈で語彙を使ってきた者にとっては理解しやすいかもしれない。しかし,そもそも具体的な使用経験の乏しい学習者に対して,多義性をまとめることの出来るコアミーニングがどこまで意味を持つのかは良く考えたいところだ。
そういう意味では,学年の問題だけではないが,今回の授業がその目的・内容に照らして「中学2年生」を対象としたものとして妥当だったと言えるかを考える必要がある。私はあまり「何年生だからこういう内容を」みたいな考え方はしない。中学1年生だって学ぶ準備と使える状況があるなら関係代名詞を教えたって良いと思っている。
ただ,今期の英語科教育法の模擬授業では授業を行う対象の学年を先生役の学生から指定することができる。そのような中で対象学年があまり慎重に検討されなかったことの裏には「分析的理解は誰にとっても有益である」という信念があるのではないかと私は考えた。


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