見出し画像

塩を量る授業

2月に訪問した札幌新陽高校で見た理科の授業。
生徒たちは塩を掬って、特定の重さピッタリに計量するという活動をしていた。
規定の数値に満たなければ塩を足して、超えてしまったら失敗。数値を超えないように地道に塩を足していく生徒もいれば、一発でピタリを狙って失敗を繰り返す生徒も。

教室はそのゲーム性ゆえにそこそこ盛り上がってはいたのだが、それを見ていた私には理科の授業としてこの時間に何の意味があるのか分からず、授業をされていた先生にこの活動の意図を尋ねてみた。

「金曜日に実験をするんですけど、この子たち実験もそんなにしたことないので、そもそも適切な重さを量って入れるとかから練習するんですよ」と答えてくれた。

(私はそういう授業を受けた記憶はないけど)もしかしたら理科の先生方からしたら当たり前のことなのかもしれない。ただ私はこの時ハッとさせられた。かなり刺激的だった札幌新陽高校訪問の中でも、強烈に印象に残っているシーンの一つだ。

「塩を量る」授業は、英語の授業に置き換えるとどういう授業なのか。

ひたすら単語を覚えたり、リピートしながら発音を練習したりする時間。あれはもしかしたら「塩を量る」時間かもしれない。でも、その先に塩を量る経験が活きたと思える時間、あるいはそんなものが活きたなんてことも気づかないぐらい没頭できる時間は用意されているだろうか。

例えばスピーチの活動が待っているとしよう。そのスピーチは「文を暗記しているか」とか「発音は正確か」といった構成要素がルーブリックに従って評価され、その合計点がスピーチの点数として返ってくる。(完全に妄想だが、現実にありそうだ)
そこでは本当にスピーチを良くすることが目指されているだろうか。発音の質をテストするためにスピーチという活動が存在していたりしないだろうか。
もし(発音やその他の諸要素に支えられる)スピーチという一つのコミュニケーションの質を上げることではなく、発音の改善自体が目的になっているとしたら、やはり発音練習は塩を量る授業とは違う
塩を量るのはあくまでも実験をよりよく遂行するため。生徒にとって大切なのは実験の手順をしっかり踏んで実験を成功させることだ。そのために必要なスキルを習得するための時間が、塩を量る授業。塩が正確に量れるかどうかは実験の成否を分ける要因の一つとして説明されることはあっても、(きっと)評価されない。

「多分出来ないけど、とりあえずやらせてみる」でもなく、「構成要素ごとに指導して、ルーブリックを使って評価する」でもない、ただただ塩を量るだけの時間。
ああいう時間を(楽しく)過ごせる英語の授業も良いな〜という、月並みな感想。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?