ルトスワフスキ2 自作の経歴と絡めて

先の文章に頂いたコメントの返信として書いたのですが、長すぎる文になってしまったので、稿を改めて書きます。(ただ前回のような文章ではなくかなり個人的なよもやま話となっていることをご了承下さい)

「管理された偶然性」はそもそもブーレーズがフランス語で aléatoire contrôlée と呼んだもので、ブーレーズの「ピアノソナタ第3番」で赤と緑の二色印刷で読み方を変えると異なった通りの音楽が作られるが、全体としては作曲家の意図する手中の範囲にあるという、マラルメの最後の長編詩の書籍「鄧子一擲いかで偶然を破棄すべき」(サイコロの一振りは決して偶然を破棄しない) un coup de dés jamais n’abolira des hasards の、文字のフォントや大きさが変わっていて大きい文字だけを読んでも全文を読んでも一つの意味のある文章が出来るというものから着想を得た(僕もそれをテキストにした曲を書いたことがあります)、モーツァルトの「音楽のサイコロ遊び」にも近い概念です。つまりブーレーズとルトスワフスキのいう「管理された偶然性」の両者は、観念こそ似たような着想から出発していますが、そのレアリゼーションの方法は全く異なるものです。作曲家が違えばそれぞれに書法の消化のプロセスを経て自己の音楽語法や理念を更新していったので、そういった比較検討できちんとした文章を書くとすると、それはこのようなブログではなく、なんらかの学会の会誌に論文として掲載できるような価値のある文章になってくるでしょう。アカデミックな業績審査対象にもつながるので、大学教員やそれを目指している大学院生の方はぜひトライしてみてください。(僕はかつてアカデミックポストとは名ばかりの雑用夫の扱いを受けて懲りた経験があるので、当面はやりたくありませんが。)
ルトスワフスキにしても、「管弦楽のための協奏曲」以前と、(「葬送音楽」を経て)「ヴェネツィアの遊戯」以降では、まるで別人の作曲家と言えるほど豹変しています。芋虫が蛹を経て蝶に変態したかのようです。前述の文章でジョン・ケージの「ピアノと管弦楽のためのコンサート」(指揮者(初演はケージ自身)が腕を時計の秒針のように回し、その角度に反応してピアニストが様々なキューを出し、オーケストラの各楽器が呼応してカオス的な点描を描く作品。2012年のケージ生誕100周年に、ダルムシュタット夏期講習会のオープニングコンサートがそれでした)をルトスワフスキがラジオで聞いた逸話ですが、本人いわく「雷のようなショックを受け、そのラジオの前に座っていた数分間が私の人生を全く変えてしまった」と言っていたと記憶します(確かそれはスタッキーの本に一次資料のポーランド語から英訳して書いてあったはず)。しかし彼の作曲人生の全般を見てみると、戦前・戦中・終戦直後の調性的な初期作品から豹変した前衛期を経て晩年に至るまで一貫して共通しているのは、音楽のクライマックスを作り上げるドラマトゥルギーの語り口のうまさです。そう言った見方であれば、単に「ルトスワフスキはポリテンピの人」と言うだけでは到底語れないような深い見方が生まれてくるでしょう。
僕がルトスワフスキの音楽を深く研究したのは1998〜99年(20〜21歳)でした。最初はたまたま中古CD屋で安売りしていた何枚かのCDをまとめ買いしたなかの1枚で、僕はその頃ドビュッシーやその直後のイベールやプーランクといった近代フランス音楽が好きで、つまり全く異なる方向の趣味を持っていました。(それでもメシアンや武満徹はよく聴いていましたが。)たまたま紛れ込んだルトスワフスキのCD(バレンボイム指揮シカゴ交響楽団)の「管弦楽のための協奏曲」は普通のポスト・バルトーク風のかっこいいオーケストラ作品という印象で終わったのですが、続いて流れた「交響曲第3番」を聴き始めた瞬間、僕が「雷のようにショックを受けた」ことを今でも目の当たりに思い出します。10代終わりから20代はじめにかけての数年間に経験したことはその人の一生の財産になると伊福部昭が言っていますが、僕にとってはまさにそれで、上の文章は昨日のコンサートの帰りの電車内で(しかも仲間内で飲んだ後で)特に資料など見ずネット検索もせずに20年前の記憶を頼りに携帯で書き上げたものです。間違ったことは書いていないはずですが、抜けている項目があるかもしれません。ただ、僕がこうして概略として記憶しているのは、自分の作曲活動の中でことあるたびに、ルトスワフスキならどう考えたか?ということを考え直すきっかけにしているからです。(他にもデュティユー、サーリアホなど、自分にとってキーパーソンとなる作曲家は何人かいます。実際に師事したジャレルとフェデーレは別格ですが。)自己紹介文で同時期の1999年ごろ三味線の二重奏曲を書く機会があったと書きましたが、それはちょうど日本音楽史を学んだタイミングで、邦楽における見計らいの概念がルトスワフスキの書法との共通性を思い起こさせました。同時期に湯浅譲二氏のレクチャーでも見計らいの概念は触れられていました。原田敬子氏もアンサンブルにおいて互いのパートを聞き合うと言う話をされていましたし、望月京氏も雅楽における時間概念という話をされていました。これらの話を集中的に聞いたのは、2000年に武生音楽祭に行き(武生国際作曲ワークショップと名前がつくのは翌2001年からで、2000年は3日間だけの短期セミナーでした。わたなべゆきこさんとお会いしたのもそれがきっかけでした)、同年秋には東京で「作曲フォーラム」と言う催しもあり、またそれに参加する直前の申し込みの段階で前年1999年度のフォーラムのまとめ冊子というのも買って読み、また東京日仏学院では平義久氏のレクチャーもあり(その後パリ・エコールノルマル音楽院で師事し)、その時期に集中して中堅や大家の様々な作曲家の自作レクチャーを聴きました。それによって得られた考えをまとめて自分の中で消化するうちに、僕自身は「多層的な時間軸」と言うことに着眼点が行くようになり、僕の2001年からの約10年間はそのような書法を書き進めていくことになりました。ルトスワフスキとの違いは、彼は従来的な小節と、小節線を排するポリテンピの部分が交互に出てきて全体の音楽の流れに緊張感を与えていますが、僕の(その時期の)場合は、一切の小節線を排した書法だけで曲全体が作られていくことにあります。これはルトスワフスキよりもむしろ、武満徹の「アーク」第3楽章や第4楽章、また「アステリズム」に雛形を見出せます。(両曲ともピアノ協奏曲で、僕のはそうではありませんが。)
余談ですが僕がピアノ協奏曲第1番を書いたのは5年前の2013年で(第2番は現在作曲中です)、その第1番は基本的に小節線がありますが、クライマックスがいくつか出てきて、それの直前にやはりポリテンピのループがあります。また前半最後と、後半のピアノカデンツァの前の2回に「テープソロ(エレクトロニクスのサウンドトラック)」があり、これはヴァレーズの「砂漠」と、サーリアホの初期作品「眩惑」と「イオ」に大きな影響を受けています。やはりそれも2000年前後に初めて触れて印象に残った作品です。
同じく2013年に書いて2017年に改訂した「Accumulations 集積」という作品があって、これはヴィッテン音楽祭の公募枠で演奏されました。(渡辺さんには聴いていただきました)これは2012年から(社会人職を放棄して)再度渡欧(渡瑞)してジュネーヴ音楽院にいた時に書いたもので、現代作曲家の一人を選んでその様式を研究し、その分析論文とともにその様式を用いた自作曲を書くという授業の枠組みで書かれたものです。非常にペダゴシックな理由で書かれたもので、本来の自分自身の語法を見つけて作曲するという大前提とは異なるものですが、さすがにヴィッテンのプログラムノートに「ルトスワフスキの様式を模した習作」とは書けず、日本の伝統音楽に見られる多層的な時間軸うんぬんという文章を(英語で)書いておきました。あとでラジオ放送された時に(ドイツ語訳されて)ヤパーニッシェムジークとか言っていましたが、これ本来はポーリッシェムジークなんだけどなあと苦々しく思ったものです(昨年5月の話)。ただそれは、20代前半の大学の学部生の時のスポンジのように自分の未知な事柄を貪欲に吸収していた頃とは異なる、30代半ば(当時)ならではの若干落ち着いた見方ができるようになってから改めて若い頃に強く影響を受けたルトスワフスキの書法を再び掘り下げたものであり、またすでに自分自身の節回しや書法(例えば打楽器なら各セクションの最初を大太鼓で区切ったり、ウィンドチャイムを多用するなどの音色的な趣味)があったので、20代の初期作品とはまた違った境地をそれなりに見いだせるに至ったという思いはあります。

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