【連載小説】稟議は匝る 14 札幌 2007年1月30日
(創立記念祭の夜)
松の内の雰囲気もようやく和らいだその日、山本は、リバプールホテル札幌の宴会場にいた。私用ではない。農林銀行の創立記念日のディナーパーティーだ。100名を超える支店職員が一堂に会する年に1回の恒例イベント。
この日、全国の本支店でも各々同じように創立記念パーティーが開催されている。
「なんでこんな忙しい時期に」
と決まったセリフもあちこちで聞かれるのも例年どおり。広い宴会場には丸テーブルがならび、くじ引きで座席が決まったはずなのに、なぜか山本のテーブルには、見知った顔が並んでいた。
人柄はいい長瀬副支店長と昼行燈の安藤課長、美魔女の喜多川と、大熊だ。大熊は新人らしくステージで変な衣装を着て司会進行を務めている。
コース料理で、ホールにはたくさんのスタッフがそろっていることから、酒を注いで歩く必要もなく、豪華な料理を楽しめる。会場全体が酔客の集団となり、山本のテーブルの面々も、ご多分に漏れず、機嫌よく酔いが回っていた。
そして酒は口を滑らかにする。
「今だから言えるけど、山本君が着任した時は、みんな身構えていたよなぁ。」
人柄の良い長瀬が上機嫌で口火を切った。
「そうですよね、副支店長。私ら支店の事務担当も、本当にドキドキしていました」
喜多川もシャンパンを片手に、追従する。珍しい光景だ。
「それは、どうしてですか」
山本が素朴に問うと、
「インテリなのに、ドサ回りをしているのは、よっぽど人物に問題があるって」
間髪入かんぱついれず応えた長瀬は、分かりやすくシマッタという顔をしている。
「いやですよ、副支店長、お口が悪い」
喜多川がホステスのように、長瀬にボディタッチをしながらフォローする。
「やだぁ副支店長、支店をドサ回りだなんて、私たち支店の女性は支店採用ですよ」
咎めながらも、口調は柔らかい。
「ごめんごめん、そんな意味じゃなくて、山本さん、旧帝大の大学院出身でしょ。うちの会社、男性の人は、ほとんど旧帝大出身だけど、大学院出で支店ばかり転勤しているのは珍しいよね。そういう人は、みんな本店で偉そうな部署ぶしょに配属されるから」
長瀬の挙げた例に当てはまる幾人かの同期の顔が脳裏に浮かび、山本は思わず眉をひそめた。
男は総合職、女は一般職など、いつまで前近代的な仕組みを維持しているのだろう。
不愉快な顔を何ととらえたか、今度は安藤が絡からみはじめた。
「ほら、それそれ、山本君。あんた、いつも、そんな感じで、うちらを見下しているんだよ」
言いながら、安藤のセリフはしゃっくりによって何度も途切れ、まるで漫画のようだ。
「課長、見下しているとは誤解ですよ」
困った顔をして頭をかく山本の太鼓腹に、安藤はパンチを入れる仕草をする。
「朝から晩まで休みなく働いて、上司の評価など気にしていません、正しいと信じることを貫いていますって。何様だ、お前は、ひっっく、」
安藤のあまりにストレートな物言いに、喜多川も、長瀬も驚いている。
「課長、ちょっとお酒飲みすぎですよ」
喜多川がたしなめ、長瀬が、まぁまぁと肩をたたくと、安藤は振りほどくように手を挙げて、その拍子にテーブルの赤ワインのボトルがひっくり返えった。おかげで、山本が今月新調したグレーのスーツが、真っ赤に染まった。大惨事だ。
「これはもう帰ったほうがいい。僕が家まで送っていくよ」
どこまでも人の良い長瀬は、意識も朦朧としている安藤の肩を担いで、ホテルの出口に向かっていく。山本は喜多川とホテルの前でタクシーを止めふたりを見送った。
「副支店長、ご迷惑をおかけします」
山本が声をかけると、長瀬は頭を振った。
「君が謝ることないよ。課長も悪酔いしただけだから気を悪くしないでね」
最敬礼で見送った黒塗りのハイヤーが去ったあと、山本は再び喜多川と会場に戻るため、1階から2階へ続く大きな階段を登っていた。
「災難だったわね」
喜多川の瞳は優しい。
「でも、ワタシ、課長の気持ちも分かるんだ。山本さん、やっぱり多くの人を見下しているんだと思う」
喜多川は、階段を上る足を止め、山本をまっすぐ見つめてきた。
ひたりと、見つめられ、山本は見透かされているようで居心地悪く感じた。思わず茶化してしまう。
「どうしてそんな風に思うのですか。すごく悲しいです」
だが、喜多川は真面目に応じた。
「私、縁故採用なのよ。叔父が地元の名士で、ただそれだけで入社できた。山本さん、そういうの嫌いでしょ。言わなくてもわかる」
喜多川の真意を量り損ね、山本は否定する言葉もうまく思いつかない。
「でもね、縁故採用も良い面もあると思うのよ。私は入社してたくさん嫌なこともあったけど、私が辞めたら叔父に迷惑がかかる、父の面目もないと思って、自分なりに必死で仕事を覚え、頑張ってきたのよ。そういう頑張りというか、なんというかうまく言えないけど、特に才能がなくて、正しいことを正しいと胸張って言えなくても、みんなそれぞれ主張があるっていうこと、山本さん気付いている? ん~自分でも何言っているか分かんなくなってきちゃった」
勢いのまま言葉を紡つむいでいた喜多川の本音に山本は虚を突かれて思わず口ごもった。
「私も自分が常に正しいとは思ってませんし・・・・・・」
「いや、あなたは全然わかってない。山本さんが来て、半年ぐらいであなたの事務補助をしていた奥山さんが退職したでしょ」
「ええ、寿退社で」
「それが違うの。今更こんなこと話してもしょうがないけど、彼女は、結婚しても仕事を続けるつもりだったのよ」
喜多川は言葉をつなぐ。
「山本さんは、口を開けば、取引先のために、これこれが必要だから、これをしてくださいって言う。それは正しいんだわ。きっと。でもその正しいことをするために、私たちが、本部や周りに頭を下げながら、異例処理をしているは分かっているかしら。山本さんは、異例処理をやらない方がおかしいんだぐらい思っているでしょ」
異例処理とは、銀行でマニュアルとは異なる特別な事務処理のことを指す。事故やミスのリカヴァリーに使われることが多く、様々なリスクを包含するため、内部的には、異例処理自体にネガティブなイメージを持つものが圧倒的に多い。
また、その対応は、知識や経験が要求されるため、事務担当からすれば、労多く益なしどころか、労多く自分の評価を下げるといった、いいことなしの対応なのだ。
思いもかけない喜多川の指摘に山本の血の気が一気に引いた。
顔から首に向かって、どんどん血が落ちていく感じが分かる。それぐらい、衝撃的だったのだ。
奥山は、山本のサポートを苦にして退職し、代わって支店内で重しの利く喜多川が山本の事務補助に回っている。支店の女性陣の不平を防ぐために。おそらく人員配置は、長瀬副支店長と安藤課長がいろいろ調整したに違いない。
まぁまぁまぁと、常に何かあれば長瀬副支店長がなだめていたのも、山本自身をねぎらっているのではなく、支店の女性陣を気遣ってのことだったのだ。ちゃんとみているよ、山本が無理を言ってすまないね。そういう「まぁまぁ」だったのだ。
山本はそんなことも考えたことがなかった。
喜多川は山本をじっと見つめて話を続ける。
「大熊さんが、あなたを尊敬しているって。支店の女性ばかりの飲み会の時、目をキラキラさせながら、根室の回収の話をしていた。でも、あの話を聞いて、逆に私は山本さんが嫌いになったわ。なんだか弱くて吠えている犬をいたぶっているように感じたの」
山本自身が周りに反感を持っていたこと、見下していたこと、すべてが見透かされていた。様々なことが線でつながる。私は無知で、無神経で、思い上がった人間なのだ。
山本は真っ白な顔で喜多川に言った。
「すみません、私、ちょっと、トイレに」
「ええ、私は先にテーブルへ戻っているわ」
喜多川の顔を見ることもできずに、山本はホテルのトイレに向かった。
洗面所の大きな鏡に映った山本は、自分が滂沱の涙を流していることに気づいた。ネクタイを外し、ワインにまみれた上着を脱いで、洗面器で顔を洗う。
顔を上げると鏡の中で、情けない面をした男が見つめ返してきた。山本は痛むのも構わず大理石の洗面台にこぶしを叩きつけた。
山本は正しいことがしたかった。手の届く範囲で構わない、頑張った人が報われる社会にしたい。ただそれだけ。そのためには、他人にどう評価されようが関係ない。正しい世の中に、フェアな社会に、己の能力と時間と思いのすべてつぎ込んで。大袈裟ではなく、本当に山本は信じて疑わなかった。
―――なのに。喜多川に指摘されて気付いた。
なんて、周りが見えてなかったんだろう。
周りが自分より思いも熱意も低いと決めつけていた自分、取引先のために誠意を尽くすのは当然だと思っていた自分。何も分かっていなかった。
拭いても拭いても涙が止まらない。早く戻らないと、山本は自分で自分の顔を叩き気合を入れてトイレから出た。
意を決してテーブルに戻ると、座っているのは喜多川のみ。
気まずさに山本がまごついていると、山本君、早くこっちの席においでと、喜多川は自分の席の隣に呼びつけた。山本が隣に座るなり、喜多川はナミナミとグラスにワインを注いだ。
「さぁ、今日はとことん飲むわよ、早くグラスを開けなさい」
目は座り、完全に出来上がっている。この短い時間の間に、喜多川もまた飲まずにいられなかったのだろう。
そんな中、空気を読まない大熊が鹿の頭から顔だけを出しているコスプレをしたまま、マイクをもって近づいてきた。
「山本さん、またすぐ美人に近づいて、隅に置けませんね」
と、こちらもだいぶみんなに飲まされた司会の大熊が気分よくマイクパフォーマンスをしている。
「いいでしょう、司会の私の権限で、カラオケでデュエットでもどうぞ、美人の喜多川さんと一緒に」
陽気なマイクパフォーマンスにあちこちから口笛が上がる。
「えっつ、ばか、何を言っているんだ大熊」
「いいからいいから、ホテルの方、カラオケの用意をお願いします!」
「いいじゃない、私、山本さんと歌いたい!」
と、言いながら力強く腕をつかんできた喜多川に、山本は引きずられてステージに上がる。
歌い始めのイントロで、悪ふざけの職員たちが、ウォッカをグラスに注ぎステージまで持ってきて
「いっき、いっき」と叫んでいる。
「あなたがたコンプラはどうした」などと叫びながら、付き合いの良い喜多川とウォッカを交互に飲んでいたところまで、うっすらと覚えているが、山本は、そのあとのことはよく覚えていない。
喜多川と抱き合って「男と女のラブゲーム」を歌っていたらしいが、お互いその話には触れないようにしている。
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