見出し画像

【連載小説】稟議は匝る 16-2 札幌すすきの 2007年3月16日 (ろここ、大熊の話)

小1時間ほどたっただろうか、来年52歳で役職定年を迎える総務課長が、缶コーヒーを2本持って、ベンチの隣に座ってきた。


「上着も着ないで寒いだろ、無糖とカフェオレどっちにする」

雪は降っていないが、大通り公園の気温計は-と表示してある。誤作動じゃない、まさに今、氷点下に気温が下がっていっている途中ということだ。山本は、今の今まで、怒りで気温も感じなかったが、ワイシャツ1枚で、我に返ると途端に冷える。


「すみません、課長。アクリル板割っちゃいました」


「いいから、どっちにする」

総務課長は、両手で2本の缶を山本の顔の前に突き出した。


「じゃ、カフェオレを」


「寒いから飲んだ方がいい」


総務課長は山本の隣に座り、コーヒーを開ける。

「話は聞いたよ」


「課長、すみません」


「誰もけがをしてないし、お前が壊したのは、アクリル板じゃない。ホームセンターで買ってきた透明樹脂だ。会社の備品じゃない、俺がタバコ呑みたいから、エクスキューズで勝手に置いたものだ」

缶コーヒーをすすり、課長の口から白い湯気がでている。


「ご迷惑をおかけしました」


「別に、お前が謝ることじゃない。おれもその場にいたら、ぶん殴っていたかもしれない。」


「支店長は湯沸かし器のように怒っていたし、2階の若手たちも大騒ぎをしていたが、本当に大事にする気なら、私も総務課長として本店に報告しなければいけないといったら、急にみんな静かになった。樹脂じゅしは、お前がすべって転んで割ってしまったということにしておけ。おそらくそれ以上は何も言われない、ただ・・・・・・」


「ただ?」


言いづらそうな顔で総務課長がわざと大きな明るい声で言いだした。

「2階の若手たちからは、怖いから、近づかないでほしいだとさ。お前も近づきたくないだろうからちょうどいいよな」


おそらく総務課長は、いろいろと山本の盾になってくれたに違いない。山本は本当に多くの人に守られていることを改めて自覚した。


「・・・・・・課長、すみません」


「なんてことないさ。俺もあと9ヶ月で退職だ。もう何も壊さんでくれ。さあ支店に戻るぞ」


2人で立ち上がって、支店に向かって歩き出した。ふと大通りの気温計をみると、マイナス2度を表示していた。



「山本さん・・・・・・、山本さん!」


「え、ああ」

山本が件の騒動を思い出して反省していると、大熊が手を目の前でひらひらさせていた。


気が付くと、先ほどのスタッフがワインを持って横に控えている。


「ワインをお持ちしました。こちらは、ぜひうちの店主が大熊様に飲んでいただきたいと、南アフリカから仕入れた赤です。大熊様の誕生年のビンテージになります」


白くて大きなナプキン越しに、ワインの瓶の底をもってグラスに注いでいく。

山本が、よく瓶の底を持ってワインを注げるなぁと感心していると、乾杯もなく、大熊はワインを飲み干して、自ら2杯目を注いでいる。スタッフが駆け寄るが、ここからは自分で注ぐのでお構いなくと、邪険な態度だ。


「2階のガキどもから聞いたと思いますが、ご迷惑をおかけしました」

大熊がいつになく神妙な面持ちで頭を下げている。


「おい、やめろよ、迷惑だなんて。俺が勝手に腹を立てただけだ。大熊には関係ない。」


「でも、支店長に呼び出されて始末書を書かされたとか」


「始末書じゃない、顛末書だよ」


「山本さん!」

そんなことどうでもいいという感じで大熊は山本を睨んでいる。


「大熊、怒るなよ。何もお前のせいじゃないよ。あのガキどもが口さがない悪口を言っているのに無性に腹が立って怒っただけで、」


「でも、山本さん、これで出世に相当響くのでは、」


「出世?そんなこと言うの大熊ぐらいだよ、そもそもドサ回りの俺は、出世なんて期待してないよ。まあ、総務課長からは壊れた板の修理代を弁償しろと言われたが、まさか給与から天引きはしないだろ。2階のガキどもには嫌われたかもしれないが、大熊の話では、もともと嫌われていたらしいしな。あはは」


「山本さん・・・・・・」


大熊が手を上げて、スタッフを呼んでいる。気が付くと、いつのまにか、先ほどのワインは空になっている。大熊が自分のグラスには手酌で、山本のグラスには、そのついでに注ぐので、無意識に数杯飲んでしまっていたようだ。


「今度は白のおすすめをください」


かしこまりました、といって品の良いスタッフが去っていったあとで、大熊が神妙しんみょうな面持ちおももちで、山本に向きなおった。


「今日は、私の話を聞いてもらおうと思いまして」


「いや、いいよ、別に。大熊の過去の話を聞いてもしょうがないし、誰でも言いたくないことや、聞かれたくないことはあるよな。人のうわさなんて気にするな。どうれ尾ひれがついて話は大きくなるもんだし、陰で噂をしている奴は、一生人の話ばかりして人生を無為に過ごすんだ」


「いいえ。残念ながら、尾ひれはついてないです。多分、聞かれたことはすべて事実です。他人には、聞かれたくないことですが、山本さんには聞いていただきたいので」


大熊は肩をすぼめて座っている。

こちらの方は見ない、テーブルの中央を見ているようだ。中央には、小さな球上の水差しに、バラの花が3本差されている。


「私は寸暇を惜しんで薬学を本当に研究していました。ある企業から、論文の理論を買ってもらったこともあるんです。買ってもらったとは語弊があるかもしれませんが、共同研究という形で、製薬会社に私の理論をさしあげ、うちの研究室には3億円の研究寄付がなされたんです。私は自分の才能と努力に自信があったし、研究の成果にも確かな手ごたえを感じていました。それは自慢する話ではないかもしれませんが、今でも私のよって立つところといっていいと思います。2階のガキどもにくちさがなくののしられる筋合いじゃない」


「そりゃそうさ。院生の研究に3億なんて、それはおまえが非凡な証拠だよ」


「ありがとうございます」


「非凡な才能・・・・・・、思えば、物心ついた時から、黙々とひとりで何かを勉強してきました。友達と遊んだり、恋人とデートしたりといった、そんな誰もが当たり前のように経験するひとつひとつを私は何も知らないで、研究し続けていました」


大熊は、本人も気づいていないが、話しながら泣いているようだ。

山本は見ないふりをして、白ワインを飲み干す。今度は、山本が手酌で、大熊のグラスに合いの手のように白ワインを注いだ。


「山本さんも実感されているでしょうけど、大学院、特に旧帝国大学は、徒弟制度どのようなもので、1人の教授に1人の院生がつく。ほっておいても特殊な人間関係ですよね」


「うん、そうだよね。俺も指導教官とはうまくいかなくて、だいぶ嫌がらせを受けたよ」


「当時、私は、世間知らずの私は、教授を信頼し、尊敬していました。多分それは事実。そういう男と女の関係になるのも、望みはしなかったけど、私も強く拒みはしなかった」


「大熊・・・・・・」


なんて声をかけたらよいか分からず、山本は、白ワインをグラスに注ごうとして、ビンが空なのに気づいた。うろたえる山本のことを見透かしているように、大熊は、少し笑いながら、スタッフを読んで、ワインを追加した。


「誤解しないでください。一方的に虐げられていたわけではないし、いやいや肉体関係にあったのでもありません。ただ、朝起きて研究室に向かうのは気分がよかったし、毎日、特に日常に変化がなくても特に不満はなかったんです」


ある朝、研究室に行くと、そこに教授の姿はなく、品のよさそうな女性が教授の席に座っていた。おそらくそれが教授の奥さんだと気づくにはそんな時間も必要なかった。どれくらいの時間か分からない、さんざん罵しられていることだけはわかっているが、不思議と特に感情もわかなかった。


大学院を辞めようかと考えが頭をよぎったとき、ふと私は研究が好きだったのか、教授と研究している雰囲気が居心地よかったのか、よく分からなくっていた自分に無性に腹が立ってきました。


浪人して大学に入り、大学院の順番を待つのに更に1年、5年の院生生活を終えると29歳。私の青春は何だったのだろうと考えると、何もかもどうでもよくなって、奥さんにこう言ったんです。


「私は教授との絶対権力関係で、好きでもない人に自由を奪われた。訴えたいのはこちらです。今後は弁護士から連絡させます」と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?