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(お気持ち#4)本当の楽しさとは

本当の楽しさとは何か。

…時折考え込んでしまう。

問題提起

「人生どうせなら楽しいほうが良いよね」と言われることがある。確かに一理ある。私は人生とかよく分からないので、その目的も意味も不明なら、せめて快い時間をなるべく伸ばそうとするのは理に適っていると思う。

しかしこうも思う。「楽しいだけで良いのか…?」「楽しいだけで、『良い』のか…?」

ちょっとこの世の深みに嵌ってしまった人間なら、ただただ楽しく日々を過ごすことはできない。「楽しいって何?」「良いって何?」………。とうてい答えの出せそうにない根源的な問いが、どうしても頭の中に浮かんでくる。そうすると、「楽しく生きようぜ」というテーゼは突然求心力を失ってしまう。「そんな薄っぺらい考えじゃやっていけないよ」、と思ってしまう。

楽しさじゃダメなのだろうか?

では、別の選択肢があるのか?もしかして苦しんだほうが良い?まあ、それも一理あるかもしれない。しかし苦しみの先に苦しみがあるなら、まるで永遠に重い岩を押し上げ続けるシーシュポスのようで、とても耐えられそうにない。人がわざわざ苦しむのは、何か得るものがあるからだろう。楽しさはその「得るもの」の一つだ。

とはいっても、「得るもの」としては充実感とか達成感、あるいは喜びのほうが適切かもしれない。「楽しさ」は、少しだけ毛色が違う。さて、ここでは楽しさを快楽全般として広く捉えてみて、ちょっと考えてみよう。

例えば、マラソンで選手は体力の消耗に苦しむ。しかしなぜ走るかといえば、その先にゴールがあって、完走することやタイムを伸ばすことに対する達成感、充実感が得られるからだろう。

しかし、それだけではない。「ランナーズハイ」という言葉をたまに聞くが、ランナーズハイとは、走り続けることでやってくる陶酔状態なんだそうだ。また、走ること自体が楽しいから走るのだ、と言う人も少なくないだろう。

つまり、この例において楽しさは、完走やタイムという結果について語られ得るだけでなく、マラソンというプロセス全体について語られ得る。楽しさや快というのは、ある意味清濁併せ呑むような性質を持っているのかもしれない。

楽しさと「楽しくなさ」

私はここに「本当の楽しさ」のヒントが隠れていると思う。

往々にして、ある概念は反対の概念と対置される。日本と海外、富裕と貧困、好きと嫌い、現実と虚構。……よく考えてみると、反対の概念が無ければ概念それ自体が機能不全に陥る。

例えば、他の国家と全く交流が無い国の民衆にとって、本国と外国という区別は無意味である。ある料理を「美味しい」と言えるのは、美味しくない料理を知っているからこそだ。もし全人類が知覚を完全にそのまま経験し、嘘をつくことができず、創作活動を一切しないならば、虚構という概念はそもそも生まれないはずだ。しかも全てが現実なのだから、現実という概念も必要なくなる。

このように、対置され、比較されることで初めて機能する概念は多々ある。楽しさも、その一つではないか。

もし、生まれた時点から、永久に、一定の楽しさが続くと、どうなるだろう?その人は楽しさを楽しさだとして捉えられるのだろうか?むしろ、飽き飽きしてこないだろうか?

ここまでの分析に従えば、楽しさは「楽しくなさ」に対置されてこそ機能すると言える。つまり、楽しくない時間があるからこそ、楽しい時間が存在できるのだ、と。

また、別の観点から言うなら、一部分には苦しみを含むが全体的には楽しさが勝る、という例では、苦しみがあることにより、かえって楽しさが際立つことがあり得る。

今回たどり着いた結論

苦しんでこそ、楽しい。逆説的だが、ある意味本質を突いているのではなかろうか。

ワンパターンで表面的、享楽的な楽しさでは満足できない、そういう悩ましい人々にとっては、ひとまずこれを「本当の楽しさ」として紹介すれば、どうにか満足してもらえそうだ。

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