見出し画像

シン・ゴジラに見る日本とアメリカ

 北米では10月11日〜18日限定で440以上の劇場で上映されている。そういうわけで先日、ロサンゼルスで『シン・ゴジラ』を観た。

 実は僕、渡米前に日本で3回観ている。別に、ゴジラシリーズを欠かさず見てきたわけでも、特撮ファンというわけでもない。まして、ゴジラシリーズの失速や東宝が自社制作をやめた経緯なども知らなかった。暇だし、話題だし、石原さとみがアメリカ人役を演じるというから見てみるか、くらいの思い付きだったのが、1回観てハマってしまったのだ。1回目は普通に、2回目は巨大スクリーン&プレミアボックスシートで、3回目は超ド迫力のIMAXで。残念ながら、立川シネマシティの極上爆音上映(通称「極爆」)で観る機会はなかったのだが、渡米前日にIMAXで観ることができたので満足している。

 日本ですでにそれだけ堪能していたにもかかわらず、どうしてもアメリカでもう一度観たかったのにはワケがある。ひとつは、この映画の内容や演出に対するアメリカ人の反応を見てみたかったということ。詳しくは後述するが、この映画は日米の歴史や政治的関係を題材としており、少しデリケートなテーマも扱うからだ。もうひとつは、字幕の付け方。あの超高速のセリフ回しと文字情報の洪水を、英語字幕がどう捌くのか。アメリカ人は、そして在米歴10年の僕は付いていけるのか、興味があった。

※以下はネタバレを含むので、これから観る予定があって内容を知りたくない人は読まないでください。ちなみにどうでもよいけど「ネタバレ注意」は英語では「Spoiler Alert」と言います。

画像1

チケットは$12。席は決まってないので、早い者勝ち。劇場はかなり小さめだが、ポップコーンとコカコーラはでかい。。日本で見た3回に比べれば、かなり見劣りするシアターだが、今回の目的はそこじゃない。

★★★

顔のあれこれ

 まずは軽めの話から。皆さんは今回のシン・ゴジラの顔をどう思っただろうか。最初に現れた蛇行する巨大不明生物の顔は、目がまんまるで大きくて、ちょっとfunnyで気色悪い。「え、これがゴジラ?」と思った方も多いことだろう。子供っぽいあどけなさと凶暴性が同居しているような顔だ。

 一方、二足歩行になって帰ってきたゴジラの顔は、これまでのゴジラのどこか愛嬌のある顔とは違って、異様で不気味だ。初期形態とは打って変わって、顔の割に小さな眼球。さらに黒目の小ささが不気味さを増している。顎も左右に割れる。歯並びもおぞましく不規則。ゴジラ史上最も、愛嬌もなければストレートな凶暴さもない。おぞましい顔なのだが、暴力的な意思をあまり感じない。この怖さは、畏怖に近い。ある意味、神憑った顔だ。

 僕が好きなシーンはいくつもあるのだが、この顔の不気味さを最もよく表しているのは、武蔵小杉から多摩川河川敷にかけて「タバ作戦」フェイズ1で、対戦車ヘリ中隊が誘導弾を一斉に放ち、ゴジラの顔を滅多打ちにしても、びくともせず、黒煙の中からぬっと無傷の顔が現れるシーン。

 一方で人間の顔も多種多様で面白い。邦画なので、アメリカ人役を演じる石原さとみも含め、メインの登場人物は皆日本人だが、日本人でも本当にいろんな顔があるんだな、必ずしも整った顔だけが役者ではないんだな、という感想を持った。しかも、各人物の顔がアップで抜かれるシーンを多用している。アメリカ人は一般に、日本人の顔の違いに鈍感だと聞くが、さすがにこれだけバラエティに富んでいれば、「いろんな顔があるんだな」と思ったのでは。

画像2

2回目と3回目は新宿歌舞伎町のTOHOシネマズで。ゴジラが上からのぞいていてびっくりした。それからこの通り「ゴジラロード」って名前が付いてんだね。シン・ゴジラの公開を記念して命名されたそうだ。

エンジニアの興奮

 僕は、曲がりなりにもエンジニアだ。とはいってもシステムズエンジニアなので、これといったモノを作った経験はないのだが。そんな僕でもラストのクライマックスは興奮した。多国籍軍の熱核兵器より一足早く、血液凝固剤の経口投与を目指す、日米共同による総力戦「ヤシオリ作戦」だ。この東京駅での決戦は、それだけでも観に行く価値はある。日本の戦い方がもう景気良すぎるのだ。ゴジラがたまたま東京駅で活動休止していたのは映画特有の「神展開」だが、映画を盛り上げるには最高の舞台だった。

 まず無人新幹線爆弾が火蓋を切る。爆弾を積んだN700系新幹線(無人運転)が、ゴジラの足元に突っ込む。続いて、東京駅八重洲口方面の高層ビル群をあらかじめ仕掛けておいた爆弾やミサイルで倒壊させ、ゴジラに次々に浴びせていく。そして倒れたゴジラにコンクリートポンプ車が折りたたみ式ブームを展開して経口投与を開始するも、ゴジラは再び暴れ始める。そこで次に無人在来線爆弾。爆弾を積んだ山手線・中央線・東海道本線・京浜東北線などのカラフルな車両が爆風で宙を舞い、ゴジラを絡め倒すのだ。東京駅の象徴的な駅舎の上に倒れ込んだゴジラに、すかさず2回目の経口投与を開始し、ゴジラ凍結に必要な量の血液凝固剤と抑制剤の投与に成功するのだ。

 日本人エンジニアとしては、これ以上の興奮はないクライマックスだろう。N700系新幹線は日本の鉄道技術の看板だ。八重洲のビル群にはグラントウキョウノースタワーや常盤橋街区再開発プロジェクトで2027年完成予定の超高層ビルなどが含まれている。まだ建ってもいないビルを破壊するなんて、何という気っ風の良さだ。そしてコンクリートポンプ車は、福島第一原発事故の燃料棒冷却の放水活動にも使用されたそう。さらに日本人の生活に根ざした在来線が追い討ちをかけるところは、エンジニアでなくとも興奮したはず。無人在来線爆弾という、思わず口に出したくなるワードセンスも素晴らしい。これには、怪獣映画で虐げられてきた鉄道車両のリベンジも込められているという。JRも三菱地所もよく了承したなぁ。この「ヤシオリ作戦」の指揮本部を北の丸公園の科学技術館の屋上に置くという設定も気が利くではないか。

 エンジニアが人生をかけて作り上げるモノを次々に破壊して人類を救う華やかな展開。「そのために作ったわけじゃないのになぁ」という一抹の切なさと逆説的な愉快さ。この皮肉とそれを超える決意でゴジラを道連れにする日本人の戦いぶりに僕は身震いするのだ。ラストの赤坂内閣官房長官代理の「せっかく崩壊した首都と政府だ」「スクラップ&ビルドでこの国はのし上がってきた」というセリフの裏には、清々しい希望すら感じさせる。これはあくまで、首都や政府としての機能の意味で言われた言葉であろうが、僕はエンジニアとして、また新しいモノ、もっと良いモノを作っていくんだ、という決意を新たにするのである。完全に感情移入しているのである(笑)。

ゴジラに込められたメタファー

 これが本記事の本題と言ってもいい(いや、個人的には「エンジニアの興奮」が一番書きたかったことなのだが)。映画には鑑賞者それぞれに解釈があるだろうが、ゴジラに込められたメタファーが「核」だという解釈は多くの方が一度は通っただろう。それは核兵器を用いた第三次世界大戦かもしれないし、原子力発電所の放射性廃棄物や先の震災で起きたような事故による放射能汚染かもしれない。

 多国籍軍による核兵器のカウントダウンを前に、科学技術と外交交渉を駆使してギリギリで凍結され、またいつ動き出すかわからないゴジラが、人類を常に脅かす「核」を取り巻くあらゆる危険の総体の隠喩だとする解釈は一理も二理もあるだろう。冷温停止したゴジラを東京駅という日本の心臓に抱え、これからも怯えながら監視しつづけなければならない状態は、まさに核兵器・原発・放射能と紙一重で付き合っていく日本人や人類全体を表している。

 また僕の印象に残ったのは、初期形態の巨大不明生物は首を振り回して建物も車もすべて薙ぎ払っていくのに対し、進化して帰ってきたシン・ゴジラは、決して自ら破壊していくような行動はしない。前進する過程で足元で物理的な破壊は起きているだろうけれど、そこもほとんど描かれない。自衛隊の爆撃を受けても暴れたりせず、あくまで真っ直ぐ東京を目指しているように見える。

 そして東京の中心に到達する頃に、米軍の攻撃が始まる。戦略爆撃機B-2が投下した地中貫通型爆弾がゴジラの頚椎部を直撃。自衛隊の攻撃をあれだけ受けてもびくともしなかったゴジラが、米軍の攻撃で初めて血を流し、よろけるのだ。そして激しい咆哮のあと、ゴジラの体に異変が起こる。背びれが紫色の光を放ち始め、大きく開かれた口から放射熱線が放たれるのだ。米軍の爆弾投下をきっかけに、ゴジラは東京を火の海に包む。

 僕はこの描写に隠れた意図を感じずにはいられない。ゴジラが自ら行う破壊行動は、放射熱線と放射火炎のみ。そしてその破壊衝動を覚醒させたのは米軍の爆撃。つまり米軍が間接的に東京を火の海たらしめ、東京を放射能汚染の街へと変貌させてしまったのだ。あとで「音楽のこと」のところでも書くが、ゴジラが熱線を吐き散らすさまは、恐怖というより悲しみに満ちた景色だった。

笑える国アメリカ、笑えない国日本

 映画を通して、日米の鑑賞の仕方で感じた大きな違いは「笑い」にあった。アメリカ人は最初から最後までことあるごとに笑った。前半の日本政府の形式的で面倒臭い手続きを皮肉ったやりとりこそ、日本人も苦笑混じりに笑っていたが、アメリカ人はもっと遠慮なしに大きく笑う。それは「わかるわかる」という意味かもしれないし「日本ってそうだよね」という意味かもしれない。

 そして巨大不明生物が陸に上がり街を破壊しはじめたあたりから日本人の笑いは消えていくのだが、アメリカ人はその後もあらゆるフックで笑い続ける。大河内総理が武器使用許可の決断を迫られて困るシーンや、アメリカの外交の横暴さを愚痴るシーン、泉政調副会長が協力の見返りに幹事長のポストを求めるシーン、里見総理大臣臨時代理のラーメンが伸びたシーン、果ては里見がフランス大使に頭を下げ続けるシーンから、ラストでカヨコと矢口が「私が大統領のときにあなたが総理なのが理想的なvisionだから」「理想的な傀儡だろ?」と会話を交わすシーンまで、全部笑っていた。

 フィクションをどういう姿勢で観るか、面白いときに素直に大きなリアクションをとるかなど、文化の違いも当然あるのだが、それ以上に、この映画で日本人が笑えなくなっていくのは、東日本大震災の被害やそれに伴う原発事故や第二次大戦の原爆までをも想起させるシーンが織り交ぜられていくからだと推察する。被爆者・被災者である日本はフィクションであっても「核」をシリアスに捉える歴史と教育の中で育ってきた。一方アメリカは、加害者・核兵器保有国でありながら「核」と国民たちとの間には距離があり、それゆえシリアスに捉える風土がない。だから面白いシーンでは素直に笑えるのだ。

 これはどちらが善いとか正しいとかいう話ではない。歴史的・教育的・文化的背景の違いによって表出するリアクションが違うというだけの話だ。そういえば映画が始まるとき、東宝のオープニングロゴで、アメリカ人たちはパチパチと拍手をしていた。そして映画が終わってエンドロールが流れ出すと、皆余韻を楽しむことなどせずゾロゾロと帰り出す。彼らは目に見えるものに惜しみなく賛辞を送り、我々は目に見えないものに奥ゆかしく感じ入る。僕が日米に見た違いは、それだけのことなのかもしれない。

 いずれにしても僕は、ゴジラに込められたメタファーを日米の両面から見た気分だ。上に書いた以上の意見は特にない。落胆したわけでも、感心したわけでもなく、ただ良い経験をした、と思っている。いろんな意味でちょうどこの映画が、笑える国アメリカと笑えない国日本を分かつ、微妙で繊細な分水嶺にあたる位置にあることがわかった。

画像3

公開当初、売り切れ続出したパンフレット@850円。キャストやスタッフのインタビューを軸に、制作秘話なども紹介されている。普段パンフレットなどまず買うことはないのだが、これはとても読み応えがあった。

音楽のこと

 音楽が良かったことも、この映画を盛り上げた。例のゴジラのテーマはエンディングでオリジナルバージョンを使用したり、戦闘シーンや巨災対シーンではあえてリズミカルで古くどこか懐かしい音作りを多用していた。特にゴジラファンというわけではないアメリカ人にしてみれば「なぜ時代遅れな音楽を?」と感じたかもしれないが、僕はドンピシャだったし、昔からの特撮ファンには特に胸熱な演出だったように思う。

 一方、ゴジラが放射熱線や炎を吐いて、夜の東京を火の海にしてしまうシーンでは、ギリシャ悲劇を思わせる悲壮感あふれるコーラス曲が流れ、ゴジラはただの破壊と恐怖の怪獣ではなく、人類が生み出した悲しい産物であることを印象付ける。紫色の熱線や背びれも悲しい色に見える。そして、ひとつひとつの破壊を寄りで細かく描かず、あえてゴジラと東京の火の海を引きの画で見せていることも、悲しい印象を増幅させている。

 そしてクライマックス・東京駅の決戦の『宇宙大戦争マーチ』。この軽快で壮大なマーチは一体何なんだ。。ゴジラとの最後の死闘をあろうことか運動会のリレーでもやるかのような音楽で盛り上げるとは(運動会というよりは戦地に赴く軍隊だろうか)。でもこの音楽で僕の心は見事に鷲掴みにされてしまった。あとから調べて知ったのだが、これは1959年公開の日本の特撮映画『宇宙大戦争』のテーマ曲なのだそうだ。シン・ゴジラは日本の特撮映画にオマージュを捧げた映画なんだな。僕は特撮ファンではないし、特撮の歴史も知らないけど、あれ、なぜか目から汗が…。


字幕のこと

 字幕は、1秒あたりの字数制限や単語数制限があるので、場合によってはかなり要約・意訳しなければならないシーンもある。実際英語が聞けるようになってきてからは、洋画を見ていて「この邦訳はばっさり訳しすぎ」というシーンによく気付くようになったが、プロの翻訳家が字数制限の中で前後の文脈をつなげていくギリギリのラインを突いた結果なのだろう。

 シン・ゴジラは、とにかく超高速のセリフ回しと文字情報の洪水。日本人が日本語で観ても付いていけないところが多々あったのではないか。それを英語字幕がどうやって捌くのか、興味があった。今回はもうすでに内容は知っていたため、できるだけ英語字幕を読むようにしていた。案の定速い。。僕は読むのが速い人間ではないが、すでに映画の内容を知っている僕でも、英語字幕を読みながら映像も見るというのはほぼ不可能に近かった。アメリカ人でもけっこう大変だったのではないかと思う。とはいっても、字幕を追えなければ楽しめない映画ではないが。

 「ああ、ここはもう訳すの諦めたか笑」というシーンや、キャストがものすごい量のセリフをしゃべっているのに少ない単語数で大幅に意訳しているシーンもあった。これは字幕あるあるなんだろうな。あと、英語と日本語で語順が異なるせいか、前半の会議のシーンで笑いが起きる瞬間に微妙なタイムラグが生じるような場面もあったかも。これもきっと字幕あるあるか。

 また、上には肩書きや場所などの文字情報が日本語で出て、さらにそれに重ねて英語字幕が出る。下にはセリフの英語字幕。総理の会見やキャスターがニュースを読み上げるシーンは、日本語のテロップに重ねて英語字幕。カヨコ・アン・パタースンやアメリカ人たちが英語をしゃべるシーン、ドイツの研究所で研究者たちがドイツ語でしゃべるシーンなんかは、右に日本語の字幕まで出ていたように記憶している。とにかく目で追うだけでも大変な量の文字情報が次々に現れては消えるのだ。これは吹き替え版が出るとアメリカ人にとっては多少見やすくなるのかもしれないが、そうすると今度はカヨコが日本語と英語をスイッチしながらしゃべるシーンや彼女のキャラクターが成立しなくなる。

 さすがに、自衛隊法の第七十六条・防衛出動の条文を全面に出すところや、ニコニコ動画の流れるコメント、ツイッターのタイムラインを矢継ぎ早に映すシーンは訳されてなかった。日本で観たとき、こういう手法もあるんだなぁと感心したのだが、これはアメリカ人にはいまいち伝わっていないだろう。

 最後に、英語字幕を見てひとつびっくりしたのは、国会前で「ゴジラを倒せ」だか「ゴジラを殺せ」と叫んでいる(ように聞こえる)デモのシーンがあるのだが、そこの英語字幕が「Save Godzilla!!」になっていたこと。僕はてっきりゴジラネガティブキャンペーンデモだと思っていたが、帰宅して調べてみると「ゴジラを守れ」と聞こえた人もいるようで、このシーンはあえて意図的にどちらともとれるようにしたのかもしれない。でももしそうであれば、字幕を付けない方がいいのだが、そうするとアメリカ人には全く何のことかわからなくなるのか。うーん、難しいな。。

石原さとみの英語

 巷で一部、石原さとみの英語を批評する声が散見する。日本人の話す英語の上手さ/下手さに敏感なところが、まさに日本人の英語コンプレックスの表れなのだが。僕がまず彼女の英語を批評する方々に申し上げたいのは、あなたの日本語も完璧じゃないですよ、ということ。あなたの日本語が完璧じゃないのと同じ軸の上で、石原さとみの英語が完璧じゃないだけ。日本人の話す日本語にも、誰にも特有の抑揚や発音などの訛りがある。というか、完璧な日本語を話す人は日本でもアナウンサーくらい。

 そして完璧な英語を話す人は世界のどこにいるのかわからない。というのも、英語は世界中で話されていて、標準語というものがどこのそれを指すかわからないからだ。アメリカ人に伝わりやすい抑揚というのは確かにあるが、日本人が気にしがちな発音は、実は抑揚に比べればたいして重要ではない。会話というのは、大半は文脈と抑揚で成立するからだ。そういう意味では、10年アメリカに住んだ僕から見て、アメリカ人にもうちょっと伝わりやすかったであろう抑揚を彼女に教えて差し上げることはできそうだが、彼女はとても上手に日系アメリカ人をこなした。きっとプレッシャーや戸惑いもあったと思うが、よく跳ね返して見事に演じ切ったと思う。

 アメリカ人は石原さとみが英語をしゃべるシーンで少し笑っていたが、それは急に日本語と英語を行き来するキャラクターへの驚きに向けられた笑いであって、彼女の英語自体への失笑などではなかったと思う。というか、彼女より英語の下手な人はアメリカで働く人の中にもいくらでもいるし、英語が伝わらないときは、聞き手にも半分の責任があることを忘れてはならない。

 これに関して、英語教育で育った帰国子女の方が素晴らしいブログを書いていたので紹介しておく。「発音が上手い=英語が上手い、ではない」「そもそも訛りのない英語なんて無い」など、僕もおおむね同意する。そして何より、結論には激しく同意する。

ゴジラの侵攻ルート

 おまけ。ゴジラの上陸後の侵攻ルートに関して、驚くほど詳細な考察をしている方のブログがこちら。思ったよりゴジラはギザギザ動いている。が、これはあくまで各シーンとつじつまのあうルートを線で結んで推測しただけで、実際はおそらく制作スタッフはゴジラのルートを細かく決定したのではなく、大まかなルートから大幅に逸れない範囲で、撮影アングルなどの条件や都合を考えて各シーンの位置を選んだのだろう。

僕も興味を持って、上のブログを参考にしながらグーグルマップ上でゴジラを追ってみた。そして気付いたことがこのツイート。スタッフに慶應に恨みがある人でもいたのかな笑。

 それから、東京の象徴とも言うべき、東京タワーとスカイツリーは、ゴジラを映す角度次第で全然映り込んでよかったはずだが、これには何かの配慮があったのか、スカイツリーは全く映らず、東京タワーは一瞬だけフレームインしてきた後、街の停電で見えなくなってしまった。

まとめ

 一番最後のシーンで、ゴジラの尻尾に数人の人間が吸収されている点や、牧悟郎教授の「私は好きにした。君たちも好きにしろ」というメッセージなど、僕の中でまだ説明ができていない部分はあるが、非常に社会風刺性と問題提起性が強く、また日本人の心をくすぐるエンターテイメント性も高く、とても面白い映画だった。僕はポップコーンも含めて、この映画に日米合計10,000円以上使い込んだが、それぐらいの価値のある映画だったと思うし、ポップコーンを食い過ぎたこと以外何も後悔はない。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?