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雨乞いダンス

 かくして僕は博士となった。留学当初、博士課程に進むことなど1秒も考えなかった僕が、結局7年MITにいて、のらりくらりと博士になり、さらにもう3年MITに居座り続けるのだから人生わからない。最初の7年は、本紙2013年5月号に『◯◯な話』として掲載いただいたので、今回はその後の3年を中心に、外国人の宇宙就活、永住権申請、ノマドク生活を振り返る。

※本記事は米国大学院学生会のニュースレター「かけはし」2016年7月号に掲載されたものの転載です。「かけはし」には学位留学やその後の就職活動に関して、とても参考になる記事がたくさん掲載されているので、ぜひ参考にしてください。
※また、本記事に沿って詳細を掘り下げた「宇宙就活 in アメリカ」も合わせてご覧ください。

宙ぶらりん

 博士課程が終わる直前、僕はNASAジェット推進研究所(以下JPL)の最終面接に呼ばれた。JPLはNASAの中で唯一外国人の雇用が可能な研究所*だが、それでもとりわけ工学の分野では、米国籍も永住権(グリーンカード、以下GC)も持たない外国人は実質圧倒的に不利だ。そこで僕は人事部に直接連絡し「近々永住権を申請する予定だ」と永住権を「前借り」して、どうにか最終面接まで漕ぎ着けたのだった。最終面接の手応えは確かにあったが、3週間後、セクションマネジャーは電話で僕にこう告げた。「残念ながら現時点で欠員はないが、我々としては君をとても気に入っている。君がGCを取る頃には状況も変わっているかもしれないので、とりあえずstay in touchで」。

*NASAは全米に10箇所の研究所や宇宙センターを持つが、そのうちJPLを除く9箇所では、正規の職員は公務員扱いとなるため、米国籍が必須なのである。一方JPLだけは、その歴史的な経緯により、カリフォルニア工科大学が運営しており、外国人でも正規の職員として雇うことができる。

 何とも微妙な言い方だ。プラスに解釈すれば「自分でGCを取ってくればオファーを出すよ」ということかもしれないし、お決まりの断り文句でやんわりと落とされたのかもしれない。GC申請は、金と時間と労力がかかる。それなりの業績も必要だ。そしてやっとの思いでGCを手に入れても、それがオファーを保証してくれるわけでもない。その宙ぶらりんに耐えられず、自ら明快な進路を選び、去っていった外国人ラボメートも何人かいた。

 僕はといえば、幸か不幸か、宙ぶらりんを苦にしない人間だった。僕はGCに挑戦することに決め、その間、同じ研究室に置いてもらうことにした。アドバイザーが「納得の行く進路が見つかるまで、いつまででもいてくれていいから、本当に行きたいところだけ就活をしなさい」と言ってくれたのだ。

 僕には妻と娘がいた。博士課程の終わり頃、妻は育休が明けて娘を連れて東京へ職場復帰していた。が、実はこのときすでに二女を妊娠しており、卒業式が行われる頃には、2回目の産休に突入する算段になっていた。かくして妻と娘は、卒業式の2日前に再渡米し、僕らは卒業後、寮を出てオフキャンパスに家を借りた。そして引っ越した翌日、前駆陣痛が始まり、その2日後、二女は生まれた。出産は前回同様に強烈な体験だったが(『◯◯な話』参照)、面白いもので妻も僕ももう慣れていた。こうしてポスドク*&家族4人生活はどうにか整い、回り出したのだった。

*博士号取得後に就く任期制の研究職。日本語では「博士研究員」などと訳されるが、英語圏での略称「postdoc」にならって「ポスドク」と呼ぶことが多い。RAと比べて給料は1.5倍以上。特に理学系では一般的なキャリアパスになっている。

約半年ぶりにボストンに戻ってきた娘にも友人から借りた特注のMITガウンを着せて、父娘お揃いで Commencement(卒業式)に出席。

 僕のように目立った業績のない人間が、雇用主のスポンサーもなく、自薦でGCを申請する場合、EB2-NIW (National Interest Waiver)というカテゴリーで、自分がアメリカの国益になることを移民局に示さなければならない。僕は何人かの移民弁護士にコンタクトし、最も良心的な価格設定だった女性の弁護士を雇うことにした。彼女から、推薦状をMIT以外から5通集めるよう言われた。集めると言っても、この推薦状はちょっと事情が違う。自分をよく知る身内でもなければ、書く義務も書いて何の得もない人が、移民局に国益をアピールするという非常にレアな文脈なわけで、当然ながら全ての推薦状を自分で下書きする必要がある。その下書きを弁護士や推薦者と何往復かやりとりして修正し、最後に推薦者にサインをもらうわけだ。

 僕は推薦状の下書き作成に取り掛かった。僕がいかにアメリカの国益になるかという問いに、これまでの業績をベースに大きなストーリーを語らなければならない。これが思いのほか、時間がかかった。僕の業績をバランス良く5通に割り振り、どうにかそれらしいものができあがって、他の申請書類も整った頃には、準備を始めて1年が経っていた。

家族4人で暮らしたアパートのスカイデッキから、MIT〜チャールズ川〜ボストンの街が一望できる。ちなみに、写真右方の高い建物はMITの家族寮で、学生時代はそこに住んでいた。

ノマドク

 そうこうするうちに、妻が育休を終え、東京の職場に復帰する日が近付いてきた。彼女が復職するまでに、僕のGCと就職は間に合わなかった。妻と子供たちの帰国に際し、アドバイザーから僕も1ヶ月ほど日本に同行する許可をもらい、家探しや、生活のセットアップ、慣らし保育などをしていた頃、アドバイザーから「次の1年、引き続きMITのポスドクとして、日本に住みながら遠隔で仕事をするのはどうか」という提案を受けた。確かに、僕の仕事は理論とコンピュータを用いた計算であり、2週に1度のミーティングはテレコンだ。MITに置いてあるコンピュータへのリモートアクセスも可能。つまり僕は、ネット環境さえあれば、そして時差の問題さえ甘受すれば、世界のどこにいてもできる仕事をしていた。僕はありがたくその提案に乗った。

 東大の客員研究員として本郷キャンパスに個室のオフィスを貸していただけることになり、東大でMITの仕事をするという奇妙なポスドク生活が始まった。僕はこれをノマドク(ノマド*+ポスドク)と名付けた。基本的には東京に在住し、3ヶ月に1度2〜3週間のボストン出張をするという生活だ。

*ノマド(nomad)とは、英語で「遊牧民」を指し、ITを駆使してオフィスだけでなく様々な場所で仕事をする新しいワークスタイルを指す言葉。実験系の研究は実験室に縛られるが、理論系やコンピュータを用いた計算系の研究は実質どこでもできるので、ノマドスタイルで働ける。

 僕の事情は少々特殊だが、ノマドクはいかにも現代風の働き方ではないだろうか。夫婦共働きの場合、夫婦の働く土地が必ずしも一致しないことがある。そんなとき、一方の事情に、もう一方がしなやかに対応できるかどうかが、家族としての選択を左右する。そしてそれはこれまで、たいていの場合女性に求められてきたが、我が家では今回は僕がリモートで対応することにより、家族が離れずに済んだ。時間に融通の効く僕が、朝子供を保育園へ送り、家に戻って幾らか家事を済ませて出勤し、夕方子供のお迎えに行くことになった。

 このノマドク期間に、僕の論文のひとつがことのほか注目を集めた。MITのトップページに掲載されたことをきっかけに、いくつかインタビューを受け、数百のネット記事が書かれ、中には「MITの科学者のアイデアがNASAに圧倒的勝利」などと煽られ敵対させられたりもした。僕はこのチャンスを利用する手を思い付いた。ボストン出張帰りにロサンゼルスに立ち寄った際、学生時代からのコネを使って、半ば強引にJPLで講演する機会を設け、関連する上層部の方々にも声を掛けたのだ。僕の講演はウケが良かった。その後、上層部の方々とのランチで「近々GCが認可されたらもう一度採用を考えてほしい」と伝えた。

新たな水平線

 今年1月、ついに永住権が認可された。申請から1年5ヶ月、待望のGCが手元に届いた。本当に緑色だった。これで堂々と宇宙就活ができる。まずはJPLにコンタクトした。時間はかかったが、僕はGCを携えて、もう一度JPLの門を叩いている。僕がメールを送ったその翌日、JPLのあるグループのマネジャーから電話で話したいとの返事があったので、僕は電話をかけた。電話に出た彼は開口一番、僕にこう告げた。「君に今すぐオファーを出す」。3年前にすでに一通り採用プロセスを経たこと、そして昨年(半ば強引に)トークをしたこともあって、オフィシャルな採用プロセスは全てスキップするとのことだった。予想もしない急展開だった。

 いつだか思い出せないくらい昔から夢見てきたNASA。公私にわたって口に出し続けてきたNASA。インターンや就活に何度も挑戦しては突っぱねられてきたNASA。こんなにも長い間、片思いを続けてきた夢が今まさに叶おうとしていた。2週間後、今度は人事から電話があり、正式にオファーレターが届いた。そこには、僕のセクション、グループ、タイトル、給与、福利厚生などが明記されており、2週間以内に返事をするよう記されていた。

 3年前のあの言葉を思い出した。「君がGCを取る頃には状況も変わっているかもしれない」。確かに、あのときから状況は大きく変わっていた。JPLではなく、僕の状況がだ。僕は永住権を得ただけでなく、NASAにインパクトを与えるレベルの結果を出した。また、僕の変化は、必ずしもこのオファーを100%喜べる状態に僕を留めていなかった。妻は生き生きと仕事をし、子供たちは良い保育園に巡り合えていた。僕がこのオファーを受けることは、この居心地の良い安定を壊すことを意味し、家族を連れて行くことは、妻が現職を辞めることを意味するのだ。あるいは半永久的に単身赴任をすることになる。夢と家族を天秤に掛けるようなジレンマだ。

 僕は開始時期と給与の交渉を開始した。とにかく時間を稼ぎたかった。開始時期はできるだけ遅らせて、給与はできるだけ上げておきたかった。ここでは、交渉や並行して行った他の就活の詳細は紙幅の都合上割愛するが、最終的に「開始時期は最大限延ばして9月まで待てる、給与は基本給こそ上げられないが契約金を付ける」との回答だった。僕は、1日待ってもらい、僕の夢、家族のこと、他の就活を経て考えたことなどを思い返し、家族の未来を想像して、そのオファーを承諾することにした。こうして僕の就活は終わった。この選択の果てに何が待ち受けているか今はわからないが、僕は新たな水平線へ向けて舵を切った。

決定力

 僕はよく自分のことを「決定力に欠ける」人間だと表現する。ネガティブな意味で使われることの多いこの表現だが、僕は別の意味も込めている。僕には自分を縛る思想や信条がなく、自分を貫く強い意志も慢性的な焦りもなく、何事も「決めずに置ける」性質があるようだ。将棋で言うところの、主導権を握って局面を動かしに行く「先手」ではなく、流れに逆らわず相手の手に乗ってチャンスを待つ 「後手」だ。自ら留学をするような人間は、そのほとんどが「先手」だろう。僕も自ら留学した口ではあるから、その血が流れていないわけではない。振り返って見れば、勝負所では先手を取って動いたことも多い。そういう意味では、僕の棋風は「後の先」なのかもしれない。この棋風ゆえに、僕は人の何倍もの時間をかけて自分の夢を叶えたのだが、言い換えると、それはただ、叶うまで同じ夢を見続けただけのことだった。この夢が叶うか否かについて、僕は何も決めずに居続けたのだった。

 僕にはすでに次の夢がある。それにいったいどれほどの時間がかかるかはわからない。5年?10年?いや、もっとかもしれない。いつ死んでも悔いのない人生など、どうやら僕には送れないらしい。むしろ、いつ死んでも悔いの残る、常にやりかけの何かを持っている、そんな人生を送りたいとさえ思う。そしてきっとまた僕は、次の雨が降るまで雨乞いのダンスを踊り続けるだろう。相変わらず、性懲りもなく、骨になるまで踊り続けるだろう。

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