【シンニホン】AI時代において何を目指すか
はじめに
こんにちわ、なかなです。
データサイエンスに関する読書、安宅和人 著「シンニホン」の紹介です。AI時代における日本政府・組織・個人がどのように生きていくか、何を目指すべきか、について書かれています。AI時代において世界がこう動く、という預言書のようなものですね。
預言書といっても、本には大量のデータを元にした分析が行われています。この多くの分析がこの本の特徴です。
というのも、多くの講演をもとにして本を書いてあるので、語り口の背景がかなり骨太なんですよね。なので、説得力が半端ない。
本の構成として、背景、目的、手法の三部に分けられます。なんだか論文っぽいですよね。
背景:AI時代における日本
目的:AI時代において活躍するためのスキル
手法:スキルを高めるための教育施策
この記事では、先に結論を記した後に、背景、目的に関して紹介します。教育施策などは、国や経営者への提言で個人でどうこうというところではないので割愛。最後に、基礎研究への投資について自分なりの実感も記します。
結論
・日本はぶっちゃけやばい。AI時代に即した若者への投資をいま行わないと取り返しがつかないくらいやばくなる。
・AI時代では指数関数的に世の中が変化する。そんな世の中では、スケールで価値を出すのはもうおしまい。
・これまでにない、新しい価値を生み出すことが必要。そのためには、異端の人材がいる。異端とはこれまでの優秀とおおきく尺度が違う。
・あまり人がいない領域でやばい人、夢を描ける人、どんな話題でも問い合わせられる専門家がいる人がAI時代で必要な人材。
背景:AI時代ではどうなる?
AI時代では、変化が指数関数的になるとしています。これは私達も実感としてありますよね。スマホの浸透スピードを考えるとわかります。
そんな世の中ではこれまでのような、作れば作るほど儲かる、といったビジネスではやっていけない。柔軟に世の中の変化についていくのが難しいからです。
こんな世の中で日本の現状はどうかというと非常にやばい、というデータをいっぱいつきつけられます。本の中で紹介されている例を記すと
・生産性が先進国でダントツ低くてやばい
・貧困格差が広がっていてやばい。20年後には貧困国レベルに。
・女性の社会進出がおそすぎてやばい。
・論文数が外国と比較して減り続けてやばい
・科学投資資金も外国と比較して減り続けてやばい
・企業もAI時代への準備ができていなくえやばい
....書いててどんどんテンションが下がっていきますよね。
これらが日本の現状、AI時代ではどういったことをしていけばいいんでしょうか。そのために国がとるべき指針を提言していますが、この記事では個人としてなにを志向すべきかに焦点をあてて紹介します。
目的:AI時代に何を目指すか?
個人として重要なことは、他人と同じ勝負をしないこと。如何に異人となって価値を生み出すか、としています。
というのも、他人と同じ勝負をしている限り、量的な勝負となってしまうからです。いかに質的な価値を生み出すかが大事。
だから、他人が興味のないけど自分は興味のあることをやるのが良い。ただそれに如何に価値をつけるかは自分次第ですよね。そこが難しいんですけど。
更に、忘れていけないのが「人間的な魅力」。これがないとただの孤立した変人になってしまいます。ちょっと耳が痛いかも。
AI時代における具体的な能力として「課題解決力」「データエンジニリング力」「データサイエンス力」の3つが問われます。この3つのいずれが欠けてもいけないんですよね。厳しいです。
これらの能力を活かして、価値を生み出すのに大事なのは夢を描くこと、理想を考えること。いくら能力が高くても実現したいことがなければ価値は生み出せないからですね。
様々なものに触れ、感受性を高め、夢を描く。これが若者にとって大事なこと。若いということはそれだけで価値のあること。
「一日一日その価値が目減りしていることにもっと自覚的になって生きてくれ」
この著者のメッセージがかなり響きます。
【個人的感想:日本の博士課程の現状】
この本では、博士課程についても語られています。自分も博士課程を取得しているので、個人的感想を記しておきたいと思います。
日本と海外では大きな違いあり、海外は限られた数の博士をお金をかけて育てている一方、日本ではきたきゃ来れば、みたいな感じです。
更に、本書によると優秀な博士人材は、高い給与をオファーされ海外の大学に引き抜かれている現状が書かれています。
それでは博士人材の質に差がつくのも当然ですよね。質だけではなく、量も減っている。
よく言われていることですが、博士課程の問題は
・在学中の資金不足
・修了後の企業の受け皿の少なさ
の2つです。
逆に、よく言われているメリットとして、
「博士課程をとっておけば、海外でも通用する研究者になれる!」
というものがあります。ある意味はただしいのですが、実際はどうでしょうか。これについて「博士課程における成長」と「博士課程という肩書」という2つの面から考えてみます。
まずは成長という側面から。これはかなり環境によると思います。
在籍していた研究室に+3年所属したら本当に海外で通用するようになれるのでしょうか。正直微妙なところもあると思います。自分の専門分野では、そのような環境のいい大学なんて稀という印象です。
外国人と常日頃から議論する環境にあるのか?海外の大学とのコネクションはあるのか?産業界とのコネクションは保てるか?
これらの条件を満たしていないと、進学したところであまりただの+3年となり、博士課程に見合う価値があるかどうかは難しいところです。
次に「博士課程という肩書」について。これについて非常に怖いのが、将来日本がオワコンになったときに「日本の大学の博士課程の肩書き」が実質オワコンになる可能性があるというところ。
博士課程というのは、日本では若さとお金の投資に近い側面がありますが、その投資の見返りの一つの「肩書」がオワコンになるなんて考えるだけで恐ろしい。考えたくないのが正直なところ。
しかし、この本にかかれている現状をみるとそういう将来も考えなくてはいけない気がします。
「お!博士課程じゃん!どれどれ...なんだ日本の博士かよ...ないない」
こういう将来もありえるということですね。
この2つのリスクを考えると、博士課程にいくというのは分が悪い賭けというのが現状でしょう。
それでも博士課程にいくべき人は大学教員になりたい人くらいじゃないでしょうか。
博士課程に行った人は、サンクコストがあるので、進学することを反対するようなことはあまり言いません。もし、進学を迷っている人などいたら、周りの意見をきくときは反対意見にも耳を傾けることをおすすめします。
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