ほとんどの仕事はキャバクラの嬢と変わらないと思った話
こんちには。地方でサラリーマンをやっているノリハラです。
今回は「ほとんどの仕事はキャバクラの嬢と変わらないと思った話」について書いていきます。
私がキャバクラに行き、そして、そこで気がついた仕事に対する姿勢の話になります。特にひねりもない当たり前のことを書いていきます。
ほとんどの仕事はキャバクラの嬢と変わらないと思った話
(普段は以下のような記事を書いています)
実際、多くの方は社会人になって、下のようにおもったことがあるのではないでしょうか。
少なくとも私はそんなふうに思っていました。
そんなふうに思っているある日、キャバクラに行きました。疲れていてお金を払って適当になにか癒やしを求めたのかもしれません。話し相手が欲しかったのです。
そしてキャバクラに行って、私は悟りました。
正直にいうと、私は心の片隅でキャバ嬢をバカにしていました。
私自身は自分で評価するのもなんですが、そこそこ真面目に勉強してそこそこの会社に入って……とレールの上のような人生を歩んできました。
キャバ嬢なんてそんな私の真反対に位置する人間。人生のレールから外れた落伍者。これまで、そんなふうに見下している自分がいました。
一方で私の会社での役割について考えました。ついつい考えすぎている性格で、なんで自分はキャバ嬢を見下しているんだろうと考え始めたのです。私は彼女たちより優れていると思っている。だけど、優れているとしたら何が優れているんだろう。いや、そもそも、本当に優れているのだろうか、と。
私は何のために、誰のために仕事をやっているんだろう。
それは、私の人生の意味とか、仕事の本質とか、そういうものを抜きにして『現実問題、私は今なにに立ち向かっているのだろうか』という問題でした。
今の仕事の価値を決めている人間は誰なのか。
そう考えたとき今の仕事は『私は上司を満足させること』が目標なのだ、と気が付きました。
そしてそれは、自分は上司を相手にキャバ嬢をやっているのだ、ということに気がついた瞬間でもありました。
私は仕事の本質とはもっと高尚なことだと思っていました。誰かの幸せや満足のために新しい製品を作すことが私の仕事であり、その製品によって生み出される誰かの幸せや満足こそが私の仕事の価値なのだと思っていました。
また、同時に会社の中ではその新しい製品を生み出すために、全体が一致団結する共同体だと考えていたのです。
もちろん大義名分としてはそうかもしれません。
ただ、実態は違います。そして違っていていいのです。そこで戦おうなんていう気にはなりませんでした。それに、ピラミッド組織であれば「組織で働くほぼすべての人はキャバ嬢と同じ」というのは割と正しい考え方の様に思えました。
たとえ自分が正しくても、上司の意見が間違っていても、一番良い選択肢は自分が適度に意見を述べて(プロレスのような議論を経て)、上司の意見を汲んで上司の間違っている意見を実行に移すことだということだと気がついたのです。
上記の記事でも語っていますが、結局の所、仕事とは上司に求められたことをするということに過ぎません。それ以上はできないしやってもいけないのです。
ただ、上司に対して求められていることをやっているということを示すためにメールなど証拠などを取っておくことだけは忘れないようにしたいものです。
さて、ここまでで、「ほとんどの仕事はキャバクラの嬢と変わらないと思った話」についてはおしまいです。
もう少し続きますが、以降では「若い子はキャバクラ的資本主義から離れていくと思う話」について考えて話していこうと思います。
若い子はキャバクラ的資本主義から離れていくと思う話
ここまでで、私は「ほとんどの仕事はキャバクラの嬢と変わらない」と考えてきたことについて述べました。
そして、その時思ったことは「キャバ嬢には将来性がないな」という直感めいたことでした。
別にキャバクラの市場が拡大しているのか縮小しているのか、という話ではありません。ただきっと将来的に「若い子はこんなキャバクラ的な資本主義から逃げるようになるだろうな」と思ったのです。
それについて説明するために次の図を見ていただければと思います。
上の図は、仕事で誰かが誰かを動かすお金の流れを精神というポイントに沿って示した図になります。うっぷんを晴らす図と解釈してもいいかもしれません。
もちろん精神を癒やすために美味しいご飯を食べたり、映画を見たり、家族と触れ合ったりする人もいるでしょう。上司がキャバクラに行くかもしれません。上の図はあくまで「人間を動かして心を癒やす」ということに焦点を当てた場合に絞った図です。ガバガバであることは否めませんが、、、
この図で説明したい点は、今の社会では誰かを使ってうっぷんを晴らす、そして、偉くなればなるほど、誰かに対してうっぷんを晴らすことができる、という構図になっているという点です。
(個人的にはこれは上の人が下の人に甘えている構造であり、介護をしてもらっている構造であると言えると思っています)
この構造が今後の社会では成り立たなくなるのではないかというのが私がここで言いたいことです。
昔の社会では、偉くならなければ(つまり上記の図の上の方に行かなければ)快楽、あるいは幸福を得ることはできませんでした。そしてだからこそ、多くの人にとってこのピラミッドの上に行くことがモチベーションとなり、結果、このピラミッドがなりたつという構造になっていました。
しかし、先人の蓄えによって科学が発達し、娯楽が充実し、ネットや建築物などのインフラが整備された結果、ほとんど無料に近い感覚で快楽を得ることができる社会になりました。
そうなると、若い人は上司からわざわざストレスを感じてまでピラミッドの上に行く意味がわからなくなります。嫌なことに対する耐性がなくなるのです。今後、この流れがとまることはないでしょう。
若い人々は特にこの流れに敏感だろうと思います。そもそも若い人はお金が無い状況で楽しむという能力に非常に長けているからです。
そして、この流れは良いことだとも言えます。(時折間違っていると言われる)マズローではありませんが、昔の人は戦争などで生きていくのも必死でした。そして、戦争が終わり、死ぬことはなく、サラリーマンの時代になり、頑張れば報われる時代になりました。そして今、頑張らなくても楽しめる時代になっている、ということでしょう。
まとめると…
ということになります。
では、私達に一体何ができるのでしょうか、という話になります。私個人としては、次の2つのことを考えて仕事に取り組んでいこうと思いました。
残り少ない記事で、上記と重複する部分もありますが、ここからは有料となります。
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