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団塊ジュニア世代が見てきた東京メンズファッション30年史⑧

2006

遅れてやってきたラグジュアリーブランド

パリとミラノの最新コレクションを紹介する記事では、相変わらずディオール・オムが先頭で紹介されていたが、グッチとプラダという二代巨頭は健在で、ドルチェ&ガッバーナ、ジョルジオ・アルマーニ、ジル・サンダーといったミラノ勢が続き、マルタン・マルジェラやドリス・ヴァン・ノッテンといったアントワープ勢も熱心なファッション関係者には根強い人気を誇っていた。そうした中、アルベール・エルバスが手がけるウィメンズとともに注目されたのが「ランバン」だった。元ディオール・オムのアシスタントデザイナーで、2005年にメンズウェアのデザイナーに抜擢されたルカ・オッセンドライバーの手腕が業界人の間で高く評価され、コレクションを紹介する専門誌のギャップ・プレスではディオール・オムの次に位置付けられた。
 
また、長細く裁断したレザーを編み込んだ=イントレチャートをブランドアイコンとする、「ボッテガ・ヴェネタ」が2006年にメンズのランウェイショーを発表。当時日本では知名度の高いブランドではなく、その出自もよく知られていなかったが、この年を境に多くのファッション誌で目にするようになっていく。ブランドの創業は1966年なので、他のメゾンと比較すると新参者ではあるが、2001年のケリンググループによる買収後、リブランディングを託されたトーマス・マイヤーによって着実にブランドイメージを刷新していく。以後、ポパイやブルータスのファッション特集でスタイリストの祐真朋樹が頻繁に取り上げ、トーマス本人のインタビューも掲載されるようになると、多くの男性たちがイントレチャートの財布やカバンを買い求めるようになった。雰囲気がなんとなくお洒落なランバンとは違って、イントレチャートという分かりやすいアイコンを手にしたボッテガ・ヴェネタは、ここ日本でも着実に人気が浸透して売り上げを伸ばしていった。
 
ジル・サンダーのラフ、ランバンのルカ、ボッテガ・ヴェネタのトーマスのように、歴史ある名門ブランド(メゾンと言い出したのもこの時期)に、気鋭のデザイナー(クリエイティブ・ディレクターと言い出したのもこの時期)を充てる手法が定着。こうした海外デザイナーズブランドの動向をしっかり捉えていたのが、メンズノンノの増刊として発売された『メンズノンノG』だった。スタイリスト祐真朋樹がディレクションするポートレートが充実した誌面は完成度が高く、2006年号の”ブランドリノベーションはじまる!”というキャッチコピーも、まさにこの時期の目まぐるしい変化を見事に言い当てていた。ディオール・オム一強に飽きていた熱心なファッション好きや業界関係者が、来るべきネクストブランドを探すことがひとつの楽しみになっていた。

脱ライセンシーで高級路線へ転向

メゾンで大きな動きがある中、イギリスの老舗「バーバリー」は悪戦苦闘を強いられていた。トレンチコートとチェックで日本でも上品かつトラッドなイメージのあるブランドだが、英国では70〜90年代にかけては、一般層からフーリンガンまでが着用するブランドとなっていた。大衆化とともに過去のイメージは低迷し、ブランドの権威は失墜しかけていた。そんな傾きかけた老舗を立て直すために経営陣は、元ジル・サンダーのロベルト・メニケッティをクリエイティブ・ディレクターとして招き入れ、コレクションブランドとして「バーバリー プローサム」を1999年に始動。大幅なテコ入れを行ないながら、2001年にグッチのウィメンズ部門のシニアデザイナーだったクリストファー・ベイリーを後任に据えた。彼の手によってトレンチコートにさまざまなアレンジが加えられ、順調に高級路線に立て直していたように見えていただが、本国ではそうでもなかった。
 
というのも、バーバリー・チェックをこよなく愛するイギリス下層階級出身のストリートギャング=チャヴ(ルーマニア語で子どもを意味する)が2000年代半ばから目立ってきたからだ。ダナ・トーマスの『堕落する高級ブランド』でも同様のことが指摘されているが、佐藤誠二朗の『ストリート・トラッド』にあるチャヴについての記述が分かりやすいのでそちらを引用する。「チャヴのスタイルは、(多くの場合)偽物のバーバリーチェックのキャップを斜めにかぶり、白いトレーナーやトラックスーツ、ナイロンブルゾンなどのフードつきスポーツウェアで全身を固め、安っぽい派手なゴールドのアクセサリーをジャラジャラつけるというものだ。(中略)貧困家庭で生まれ、まともな教育を受けずに育ち、無職で生活保護を受けながら狭い公営住宅に家族と一緒に住み、暴力や犯罪に手を染める若者。これが典型的なチャヴのイメージだ」
 
成功者の象徴としてブランドが広く認知されてしまうと、その副作用として、目立ちたいだけの悪趣味な人たちが、真偽を別として分かりやすいブランド物を身に着けるようになる。この現象は英国でも日本でも変わりがない。日本国内では、1997年に安室奈美恵が結婚会見で着用したバーバリーチェックのミニスカートを契機に、「バーバリー・ブルーレーベル」(1996年)が若い女性たちの間で大ヒット。メンズでは2000年代を通じてメンズノンノとポパイで「バーバリー・ブラックレーベル」(1998年)のタイアップが定例化し、それほどファッションに興味のない男性の間でも高い認知を得る。ちなみにそれらのタイアップで、ほとんどスタイリングを手がけていたのは祐真と野口だった。
 
この時期のバーバリー・ブラックレーベルはディオール・オムと見紛うほどタイトシルエットにデザインされ、百貨店や丸井で買い物をするようなファッション感度が低いけど、おしゃれなイメージのブランドを求める男性には好調だった。これらの日本だけで展開されていたライセンシーブランドがあまりに売れ続けたため、一般層にコレクションラインの「バーバリープローサム」の存在は全くと言っていいほど認知されなかった。このようにバーバリーは、英国に大量発生したチャブと日本のライセンシーブランドに煩わされ続けながら、高級化路線を押し進めていくしかなかった。

表参道ヒルズ開業で風景が変わる

原宿・表参道エリアを象徴する同潤会青山アパートメントが、耐震性強化のため(こういう言い訳が多いだけで実際にそうだったのかは不明)に建て替えが必要となり、リニューアルが進められていた「表参道ヒルズ」がオープン。建築家・安藤忠雄によって生まれ変わった建物は、蔦の絡まった個性的な外見を一部残し、坂道による高低差をうまく利用した多層構造によって、同潤会のユニークさを継承した。国内外のファッションブランドや話題の飲食店が数多く入居し、地下のイベントスペースはファッションショーにも利用されるなど、表参道の新たなスポットとして人気を確立していく。その後、何度か大幅なリニューアルを繰り返すことになるが、現在も表参道を象徴するショッピングスポットとして健在だ。
 
さらに翌年には表参道ヒルズの斜め向かいにあったエスキス表参道も建て直しを経て、「ジャイル」に生まれ変わる。コンシャス・ラグジュアリーをコンセプトに掲げ、1階にはシャネルとブルガリ、2階にはマルタン・マルジェラ、3階にはMoMAミュージアムストアを擁した。また、表参道から根津美術館へ向かう左側の奥まったエリアに、パリの高級セレクトショップとして業界人に人気だった「レクレルール」の東京店がオープン。広々とした店内と重厚感のある内装は見ものだったが、たまにショップを覗いてみると買い物客を見ることは少なく、2009年には閉店へと追い込まれた。コレットほどのキャッチーさがないこと、表参道から一歩入った分かりづらい立地だったことが裏目に出たのだろう。

高級ブランドが人気ラッパーを広告に起用

ロック・リヴァイバルが人気を博す一方、アメリカのヒットチャートの常連となっていたのがヒップホップ系アーティストだった。2000年代前半のNYヒップホップシーンを二分する人気を誇っていたジェイZとナズに加え、スキャンダラスな言動と過激な歌詞で白人ながらもシーンの最前線に躍り出たエミネム、それまでヒップホップに疎いリスナーまで巻き込んだブラック・アイド・ピースなど幅広い才能が開花した。そうした中、ネプチューンズやN.E.R.Dで活躍していたフロントマンのファレル・ウィリアムスが、なんとルイ・ヴィトンのキャンペーンモデルを務めることに。
 
もちろん、90年代ファッションを語る上で欠かせないスーパーモデルのナオミ・キャンベル、ラルフ・ローレンのキャンペーンモデルを務めたタイソン・ベックフォードなど、黒人モデルが高級ブランドの広告塔になることはあったが、スラングを用いるヒップホップアーティストを、高級ブランドの筆頭格であるヴィトンが認めたというのは大きなシフトチェンジであった。全米でヒップホップがチャートを席巻し、新たなスターが生まれていく変化を俊敏に感じ取ったデザイナーたちの動向を、『堕落する高級ブランド』の著者ダナ・トーマスは以下のように説明している。
 
「高級ブランドが時代のトレンドを理解したのもそのころだ。シャネルのデザイナー、カール・ラガーフェルドはCの文字を組み合わせたシャネルのロゴを、ハーレムの悪ガキたちのやり方—大ぶりのネックレスにつけたり、チェーンベルトから下げたり、あらゆるところにプリントしたり—を真似てコレクションに使った。マーク・ジェイコブス、トム・フォード、ジョン・ガリアーノは、ストリート・ファッションを老舗ブランドと組み合わせた作品を発表した。(中略)そんなデザイナーたちのいちばんの上客は誰だったか? それは新興の超金持ちのヒップホップスターたちだ。ショーン・“P.ディディ”・コムズ、ジェニファー・ロペス、ビヨンセ・ノウルズはフェンディの毛皮をまとい、フレッド・レイトンのダイアモンドをつけ、ディオール、シャネル、グッチ、ヴィトンのロゴがついたものを身につけた」。
 
このヒップホップから生まれたストリートファッションとラグジュアリーブランドの接近は、ファレル・ウィリアムスの起用を嚆矢として徐々に距離を縮めていくことになる。以前から指摘されていることだが、こうしたヒップホップ人気を実際に支えていたのは当の黒人よりも白人だった。後のブラック・ライブス・マター運動などでも、根強い人種差別があるアメリカではあったが、成功した黒人ラッパーはヒップな存在として白人の富裕層にまで広く認められていたからだ。日本に長くいると気付かないが、我々アジア人は同じ有色人種であっても黒人よりもずっと軽視されるし、黒人から暴力を受ける事件も度々あった。差別された弱者はさらなる弱者を求めて新たな差別を生み出す。こうした入れ子構造の中にあって、ファレルがアジア人であるNIGOの実力を認めて、互いをリスペクトしていたことは記憶しておくべきだろう。

裏原ブームの終焉を予感させた1冊

ヒップホップカルチャーがラグジュアリーファッションに接近していた頃、日本では圧倒的な人気を誇っていた「ア ベイシング エイプ」のNIGOを丸ごと一冊フィチャーした『別冊カドカワ』が発売される。コメディアンの志村けんをモデルに起用したポートレートを含め、多様な関係者の証言によって多角的にエイプ人気を検証した内容だった。しかし、これは国内での展開が飽和して限界を迎えようとしていたことを示唆していた。事実、お笑い芸人が旬のストリートブランドを着て人前に出るようになると、根っからのファンからは反感を買うようになるのは、現在のシュプリームを見れば明らかだ。あまりにも有名になって簡単に手に入るようになってしまうと、仲間内だけで共有されていたアンダーグラウンドな魅力が削がれてしまうというジレンマを抱えていたのだ。インディーズ時代から追っかけていたバンドがメジャーになってしまうと、急に気持ちが離れてしまうファンと似たような心象だろう。この1冊を境に、メジャーな存在になり過ぎたエイプから多くのファッション好きが離れていった。
 
こうして一部を除く裏原ブランドと入れ替わるように、恵比寿・代官山を拠点とする独立系ブランドが躍進を続けた。突出したカリスマ的な人気を誇っていたナンバーナインとアンダーカバーは別格として、タイトなジャケットスタイルを得意とするアタッチメントと、ジーンズを主軸にクリーンなアメカジスタイルを得意とするファクトタムの2ブランドは特に人気を集めた。また、メンズノンノでたびたび特集されていた「N.ハリウッド」も人気ブランドのひとつとしてのポジションを確固たるものにしていた。元々は原宿のゴーゲッターという古着屋のバイイングを手掛けていた尾花大輔が2000年に立ち上げたブランドで、当初はアメカジをベースにしたリメイク品を手がけるブランドだったが、この時期にはすでにシーズンごとにコンセプトを設け、デザイン性を高めたコレクションを展開。翌年の2007年にはスーツを扱う「N.ハリウッド・コンパイル」ラインを加え、幅広い層に注目される存在となっていく。ちなみにバンド、エレファントカシマシのフロントマン宮本浩次は同ブランドの愛用者として広く知られている。これらのドメブラ人気を後押ししたのが、伊勢丹メンズ館2階のクリエイターズフロアで、セール時期は多くの男性客で賑わいを見せた。

2007

エディ退任によってまったりムードに

大型のピラミッド型の電飾をステージにセットしたダフト・パンクのライブが幕張メッセで行われ、フレンチ・エレクトロニカの人気が最高潮に達したこの年。ディオール・オムからエディ・スリマンが退任するというニュースがファッション関係者を驚かせた。ファーストアシスタントだったクリス・ヴァン・アッシュが後任となり、エディの世界観をほぼそのまま引き継ぐことになった。カリスマ性を失うことなく第一線から身を引いたのは、エディとしても絶妙のタイミングだったのかもしれない。意地悪な言い方をすれば、もはやサンプリングすべきロックスタイルを使い果たしてしまったのだろう。
 
ラストとなるランウェイショーの音楽を担当し、オリジナルサウンドトラックを手掛けたのがイギリスの新人バンド、ジーズ・ニュー・ピューリタンズで、メンバーがモデルとしても登場した。この年に私はセンス編集部に転職したのだが、それは兄弟誌の『HEART』(ハート)創刊がありセンスの人手が手薄になったためで、ハートではこうした海外の若手バンドをモデルにしたファッションポートレートやインタビューを冒頭の特集にしていた。ちなみにハートは2年も持たず、センスに合併(事実上の廃刊)することになった。
 
後任者のクリスはその後も長きに渡って同メゾンを支え、彼らしいスポーティな要素も加えながらエディが築き上げたポジションを死守したことは大いに評価すべきだが、細身のロックスタイルとモノトーンスタイルが飽きられ始めてきたことは確実だった。スター不在のパリからは、以前のような熱気がやや冷めてきたのも事実。全体的にソフトでエレガントな方向性へとシフトしたパリコレクションは、一般人にとってはどれも難解で、限られたマニア以外には何がいいのか伝わりづらいものになっていた。同時に、ラグジュアリーブランドはもちろんデザイナーズブランドまで高額化が進み続け、熱心なファッション好きですら手の届かないものとなっていたことも要因のひとつとなっていた。一目で違いが分かるディオール・オムなら高額でも手にしたい客が多くいたが、なんとなくお洒落なブランドに大枚を叩くことができるのはごくわずかだった。やはり高級ブランドには分かりやすいロゴがないと顧客は満足感せず、一大ブームにはなりにくいのだ。

メンズで影響力を高める二人のトム

パリを中心とするメンズモードが混沌としていく中、独自の路線に打って出たのがグッチを退任して、2005年に自らの名前を冠したブランドを立ち上げた「トム・フォード」だった。ウェアに先駆けてトムが仕掛けたのはアイウェアコレクションで、ブランドイニシャルのTをフレームの両端にあしらった黒縁メガネが、高額にも関わらずファッション関係者を中心にヒットを飛ばす。2007年にはフレングランス分野に取り組み、老舗の香水専業ブランドを意識するかのようにパチョリやネロリといった香料別にネーミングし、アイコニックなボトルデザインとともにデビュー。こうしてアイウェアとフレグランスで成功を収めながら、満を持してメンズウェアも発表。クラシカルなスーツスタイルを中心とした、マスキュリンでゴージャスな男性像を改めて打ち立て、金持ちぶりをアピールしたい新興富裕層に歓迎された。
 
また、2004年に初のコレクションを発表していた「トム・ブラウン」が、この時期から雑誌を中心に取り上げられるようになっていった。袖丈とパンツの裾丈を短くしたグレースーツは彼のシグネチャーであり、アメリカン・トラッドの再来を先鞭付けた。彼の名を冠したコレクションラインは超高額だったので、酔狂なファン以外には手が出しづらかったが、2007年にトムをゲストデザイナーとして招聘した「ブラック フリース バイ ブルックス ブラザーズ」がスタートし、ようやく一般的なファッション好きにも手が届く価格帯のアイテムが登場。特にボタンダウンシャツ(ブルックス・ブラザーズでの正式名称はポロカラーシャツ)がヒットし、この後のアメトラ復権の下地を作り出していく。

六本木に新たなショッピングエリアが出現

六本木ヒルズ開業に続いて、元防衛庁のあったエリアに「東京ミッドタウン」が開業。地上54階、地下5階からなるミッドタウンタワーには、高級ホテルのリッツカールトンをはじめ、気鋭の海外アーティストのライブが行われるビルボードライブ、多数のショップと飲食店、大企業のオフィスが入る大規模複合施設となった。乃木坂側には檜町公園に連なる広々とした公園を併設。さらに同年に竣工した新国立新美術館にもアクセスしやすく、多くのビジネスパーソンと観光客が集うエリアへと変貌した。
 
森ビルが運営する六本木ヒルズが、IT長者の象徴的な場所として認識されたのに対して、三井不動産による東京ミッドタウンは、高級感はありながらもよりコンサバな雰囲気があるのが違いだ。両施設に入居するショップとその品揃えを比較しても、この点が分かりやすい。六本木ヒルズで人気のセレクトショップがエストネーションで、取り扱う商品もブランドロゴが目立つアイテムや艶っぽいブランドが売れる傾向があり、イケイケな若手エリート層に応えるラインナップになっている。一方ミッドタウンで人気のショップは伊勢丹サローネとストラスブルゴで、そこではラグジュアリーブランドを中心としつつも、よりシンプルで控えめなセレクトになっている。他に「ジョン・ロブ」、「ヴァレクストラ」、「オーデマ・ピゲ」などの通好みな高級ブランドが多く、客層も比較的上品な点もミッドタウンの特徴だ。

清濁併せ持つ街、六本木が分割される

こうして六本木エリアは、西麻布側の六本木ヒルズと乃木坂側のミッドタウンで異なる表情を見せるようになった。地理的にもかなり離れていることを考えれば当然だが、夜な夜な外国人や泥酔客が大騒ぎするエリアは、ドンキホーテとロアビルがある六本木3丁目エリアと、イエロー(1991年)とエーライフ(2001年)といったクラブがある西麻布エリアの2箇所に縮小されていった。通好みなハウスやテクノ系イベントで熱狂的なファンに支えられていたイエローは、ミッドタウン開業の翌年に閉店。90年代の東京クラブカルチャーを牽引していたイエローがなくなったことは、生粋のダンスミュージック好きには大きな痛手となった。こうしたファンの多くは、新木場のスタジオコーストか渋谷のウームへ流れることになる。
 
一方で、大型ナンパ箱として人気を誇っていたエーライフは、音楽好きが集まるクラブというよりも、出会いを求めるイケイケな男女が集う場所で、艶っぽいファッションに身を包んだいかがわしい輩系とギャルも多く見かけたが、そうした客層も六本木に相応しかった。音楽好きのクラブキッズと出会いを求める輩系&ギャルという、ファッションも趣味も全く相容れない若者たちがほぼ同じエリアで夜遊びを繰り広げていたことを思うと、そこには平成時代のナイトライフが凝縮されていたのだ。深夜営業するクラブやバーが密集していたこの六本木・西麻布界隈は新宿歌舞伎町と並ぶ歓楽街でもあり、後の市川海老蔵暴行事件(10年)や六本木クラブ襲撃事件(12年)など、関東連合と呼ばれる半グレ集団が出入りする場所でもあった。まさに清濁併せ呑む街である六本木だが、六本木ヒルズとミッドタウンの出現によって清なるエリアが拡大し、濁なるエリアが縮小していくのは致し方のないことだろう。ちなみにエーライフはコロナ禍の2022年に閉店。

iPhone登場とEC時代の幕開け

この年に起きた重要な出来事として挙げておかねばならないのは、アイフォーンの発売だ。それまでほとんどの人が手にしていた携帯電話が2つ折りで、液晶パネルとテンキーボタンという構造だが、アイフォーンはストレートタイプで操作ボタンはたったのひとつ。タッチスクリーンの操作でアプリケーションを起動させ、写真、音楽、ネット閲覧などさまざまな機能を使う構造となっていた。ちなみに、左側面にマナーモード切り替え用スイッチと音量設定ボタンがある仕様は、2022年の現在まで引き続き採用されている。
 
ガジェット好きのファッション関係者の間では「モトローラ」と「ブラックベリー」が人気だったが、私は「ノキア」のスマートフォンを使っていた。そして、3G回線が使用できるアイフォーンが2008年に発売されるとすぐに買い替え、マックブックも買い足した。フォトグラファーやグラフィックデザイナーなど、クリエイター系に支持されていたマックが徐々に一般層にも増え始め、ファッション関係者にもアイフォーンが急速に広まっていくことに。ただし、ほとんどの会社で支給されていたのはウィンドウズPCだったし、アンドロイド端末がアイフォーンを猛追し、スマホが日常生活に欠かせない社会的インフラとなるまではまだ数年を要した。まだこの時点では、海外のランウェイショーをリアルタイムで視聴でき、クリックするだけで買えるなどとは誰も考えてはいなかった。
 
今でこそ当たり前となったEC=Electronic Commerceが、新たな販路として徐々に注目されるようになったのがこの時期。2005年はマガシーク、スタイライフといったファッション系ECサイトが株式上場を果たし、ゾゾタウンはその2006年にマザーズ上場を果たした。ただしこの段階では、実際に試着しないと不安だという消費者がほとんどで、ECの利用は限定的で、高額商品は相変わらず実店舗での販売が主流だった。現在のように当たり前の存在になるのは、ソゾが返品対応に応じるようになったのは2011年以降のこと。一方で海外のファッションECは動きが速く、それまでネット販売に懐疑的だったラグジュアリーブランドが2000年代半ばから自社サイトでの販売を開始し(実際に購入できる商品は限定的だったが)、自前のファッション記事を呼び水にして高級ブランド品を販売するネット・ア・ポーター(日本ではネッタポルテと呼ばれる)というECサイトがアメリカで一定の成功を納めたのもこの頃。
 
続く

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