感動と涙の関係性。
こんにちは、地方公務員の新家です。北海道猿払村に勤務しています。今日は、涙と感動の関係性について綴っていきます。
さて、いきなりですが人は2種類に分けられると思います。涙もろい人、涙もろくない人。
皆さんは、どちらでしょうか。
私は、元来涙もろくない人でしたが、段々と涙もろい人へ移行してきているきらいがあります。
これ自体、自分にとって嫌だとか、嬉しいとかそういう感情はないものの、歳をとったんだなぁと思い切り実感してしまっています。
そして、もう一つ大事なことは、涙もろくないからといって「感動していない。」ということではないということです。
確かに、映画を見たり、テレビを見ている時に大衆が感動的と感じるシーンで涙を流している人がいたら、「感動しているんだな」と分かりやすい訳ではありますが、当然に涙を流さずとも感動することもあるわけです。
この点、過去に子どもにも質問されることがありました。妻が涙もろい人なので比較したのでしょう。
話を戻しまして、涙もろさを歳をとったことと私はリンクさせて説明しましたが、なぜそのように感じているかをご説明しましょう。
私が、そう大きく感じたのが子どもの卒業式に出席した時のことです。長女の小学校卒業式の時には、6年間の成長を振り返って感慨深い想いは込み上げてくるものの、感情的になるということはなく中学校行ってもバレーに勉強に頑張ってくれたらなぁと呑気に思ってました。
続いて、3年後次女の小学校の卒業式ではどうでしょうか。その時も、自分の子どもに対しては同じような感情だった訳ですが、同じ親として同級生が出席していたのですが、その同級生が目頭を熱くしている様子を見て、思わず自分の目頭が熱くなりかけていることを察知。それまでに経験したことのないことなので、とても驚きました。
この時を境に段々と、涙もろい方の人へ段々と変化してきたような気がしています。これ以降、生身の体験で目頭が熱くなることは無論、映像作品等を鑑賞することでも何度か起きる現象になってきたのです。
大きな変化としては、感動や嬉しさの対象が自分から、子どもへ。
気付かぬうちに、この様に変化したいたのです。
子どもの事になると、自分のことよりも力が入ってしまうもの。それは、22年子育てをしてきて実感しています。初めて歩いた時、初めて話した時、自転車に乗れた時、バレーボールで優勝した時、志望校に合格した時、就職試験に合格した時、自分のことよりも嬉しいものです。
繰り返しにはなりますが、過去も涙がこぼれていなかったからといって感動していなかった訳ではありません。涙が連動しない感動もあるのですw
調べると、50代以降涙脆くなるのは脳の衰えや老化からくるという言及もありました。子どもの事だからといって、たかを括るのはよくないかもしれませんね。
30代、40代で脳のお衰えや老化などをあまり意識したくはありませんが、情報を見てしまっては気になるもの。楽しいことや、興味のあることを追いかけて、なるべく老化を遅らせるように気をつけたいものです。
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。また、次の記事でお会いしましょう。
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わたくし新家は、地元猿払村のプロモーションに加えて、ガジェット、革製品、コーヒー、写真、カメラの事などについて記事を書いています。他にも、各種SNS運用しています。Twitter、Instagram、Voicyと取り組んでいますので、併せてチェックしてくださると嬉しいです。
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