社会人初年度〜令和4年までやってきた仕事を箇条書きにしました
2010年(平成22年)
アンタッチャブル柴田さんが芸能界休養した年。僕は学生じゃなくなった。一応社会人になったと言うのかもしれないが仕事はなし。
「バンドでBIGになるぜ!」と意気込んで大阪から東京にやってきたのだが半年程度で解散。周りの同い年は新卒というキラキラのブランドものを着ているのに、僕は「音楽をやっているわけでもないただの新卒ではない奴」というほぼ全裸状態になる。振り返るとドリフのコントのようなズッコケぶりである。厳しい。人生は。
2011年(平成23年)
島田紳助さんが芸能界を引退した年。
僕は「次こそはビジネスとして成立するバンドをやる。アジカンとかピロウズみてーなな!」という心持ちでバンドを準備し始めた。名前はQOOLAND。◯が多いのでだんご三兄弟のようなグッズを作りやすいという説があった。
3月に東日本大震災が襲来。バイト先が「業務は特にないけど給料が6割出る」という夢のような環境になる。
「ちゃんとしたバンドのやり方」をまったく知らないので、100冊ぐらいのマーケティング本やマネジメント本を立ち読み。時間が死ぬほどあったので、人生で初めて必死に勉強した。
「メールの返事はすぐに返すこと。納期も巻きでやること。早すぎて悪い仕事なんてめったにない」という原則を守り、ライブの誘いが来たら即答し続ける。
さらに「ひとは好きなものを買うのではない。知っているものを買うのだ」という原則にも従い、まずリスナーのiTunesの中に10曲入りこむことを目指した。
そこで無料ダウンロードを5曲開始。タイトルも「download」と名付ける。翌年にもさらに5曲追加し、計10曲を無料配布する予定を立てた。一度無料で配った曲も後に製品化するつもりだった。「フリーミアム」というビジネスモデルがあることを立ち読みで知り、その猿マネだった。
2012年(平成24年)
上戸彩さんが結婚した年。
僕は75本程度のライブを行う。知名度が無いのに予定が組めたのは返事を即答していたからだと思う。イベンターは「返事の遅い良いバンド」よりも「返事の早いまぁまぁのバンド」に声をかけるのだと知った。
5月に手売りのCDを売り始める。
9月に「download」の残り5曲を解放。一万以上のダウンロードがされた。一円にもならないけど、別に良かった。年末にフルアルバムの制作を開始。「download」の曲も再録に使用し始めた。
2013年(平成25年)
NHK連続テレビ小説「あまちゃん」が大ヒット!AKB48の峯岸みなみさんが丸刈り謝罪!大谷翔平選手が二刀流でプロ野球に出現!
僕はフルアルバムを5月に発売。
2年かけた仕込みが功を奏したのかオリコン初登場23位。夏にロッキングオンのコンテストRO69JACKで優勝。
当時の本社内のフェス事業部では「すでにCDを出しているバンドがコンテストというのは……」という声があったということで、合格の電話では「本当にどこも所属してないよね?」などの打診が多かった。
ライブの本数は120本オーバー。金沢の周遊ライブやSUPER BEAVERのイベントなどにも呼ばれだす。
2014年(平成26年)
佐村河内守さんのゴースト騒動やASKAさんの覚せい剤取締法違反容疑で逮捕などの年。
僕はこの年が自分のデビュー年なのだと思っている。デビューの定義が分からないが、「ちゃんとした会社から音源リリースすること」だとするならば。
4月にリリース。2012年に作った手売りのCDとほぼ同じ内容のものを再録した作品。全曲のアコースティックバージョンを作り、無料特典とする。「とにかく何かしらタダで配る」という思考回路だった。
5月に今は亡き渋谷AXでくるりと共演。くるりは好きなので嬉しい。
初のシングルを8月に発売。タワレコインディーズチャートで2位。1位はゴールデンボンバー。つらい、アレをインディーという枠にするのはやめてくれたまえ。
デビューの話を前述したが、一応「日本レコード協会に属する外資の会社」からリリースするとメジャーデビューという説がある。この定義では国産レコードavexの浜崎あゆみさんもインディーズになり、トイズのバンプもメジャーデビューしていないことになるのだが….…。
話戻して10月にミニアルバム『街と大都市』を発売。これも全曲のアコースティックバージョンを作り、無料特典とする。「とにかく何かしらタダで配る」という思考回路。作風はダーク気味。
11月にTSUTAYA限定でもう一作。忙しすぎて新幹線の中で歌詞を書いていた。いわゆる「プロ」になっていた。
気付いたら年末だった。リリースをしまくり、ライブをしまくる一年だった。もう少しセーブした方が体調が良かった気がする。
5月,10月に出した二枚のTSUTAYA限定ジャケットなどもリリース。
タワレコが55店舗(当時)なのに対し、TSUTAYAは1500店舗(当時)ほどある。枚数を大量に生産できるのだ。限定ジャケットのCDを刷すると、それだけで多額の著作権使用料が発生する。「『売る』とお金が入るのではなく、『使う』とお金が入るのが印税」というのを痛感した案件だった。これからのサブスク時代、所有権より使用権という観点からも大切な考え方になると思う。
2015年(平成27年)
ピース又吉さんが芥川賞受賞!おめでとうございます。クマムシとか8.6秒バズーカもブレイク。そんな年。
僕は大きなライブに出ることが自然となってきて、有り難みが薄れ始める。事務所との関係値も悪め。とにかく焦り狂っていたので、すべての対応などが遅い気がしていた。
アンガーマネジメントができずに、曲を事務所に無断で録音し、無断で記事にして、無断で配ることにした。わりとクビ級の問題になり、退所。このやり方は完全に失敗だと思う。
もう一作契約が残っていたので、8月にシングルをリリース。ミュージックビデオの監督が撮影途中で音信不通になるなど、いろいろと負けの雰囲気が漂っていたのかもしれない。
年末にDVDが発売。もう完全に心が切れている会社からのリリースは何とも言えないものがあった。もっと売れてもいいんじゃないのか、ぐらい売れなかった。やはり商品というのは魂あってのものだと痛感。撮影チームは一流で内容は良い。アレは廃盤なのだろうか。
思い返すと「私の仕事」という意味では、2015年は転機となった年だった。
その大きなキッカケはクラウドファンディング。
当時、インドやアメリカでは市場を席巻していたが、7年前の国内ではかなり白い目で見られるコンテンツだった。このアルバムがオリコン10位。商業的には最高レベルまで到達。いろいろと仕事の価値観が変わった。
デザイン会社の社長の助けなどがあり、何とか音楽を続けていくことが可能。機材車も買い換える。ただ、700万円ほどあったバンドの預貯金は収支が合わずどんどん目減りしていた。財務の観点から経営する能力が低かったと思う。
2016年(平成28年)
SMAP解散!清原さんシャブで逮捕!ベッキーゲス不倫!
僕は属さずにフェスに出演したり、企画を組んだりと何とか奮闘を続けるも金銭的にも厳しめ。
何となく「売れる手がかり」みたいなものを失っていた。振り返ると、「続ける手がかり」というのが「売れる」しかなかったのが痛かった。仕事は突破力も大切だが、『存命力』みたいなものもゼロだといけない。『デフォルト』なんて用語があるが、まぁ死んだら終わりである。
苦肉の策、というわけではないがメジャーデビュー。「売れる手がかり」がメジャーというのは実に安易だったと思う。年末にミニアルバムを発売。
2017年(平成29年)
堀北真希さんと安室奈美恵さんが芸能界引退。
僕はワンマンライブを連打するようになる。
「いろんな場所に行く」よりも「来てもらう場所を作る」というクローズドな手法をとる。48グループのAKB劇場やビートルズのキャバーンクラブなど成功例はあるので、可能性がゼロではないようにも思った。
アルバムを秋に発売。メジャーとは思えないほどの予算の下りなさとプロモーションの無さだった。作品としての内容は一番気に入っている。
この頃は「ゲリラライブ」と称し、渋谷や下北のライブハウスに当日の出演情報を告知する活動を行なっていた。
「メジャーバンドと対バンできる」というのをネタにすれば、ライブハウスの店長などがアマチュアバンドにオファーしやすくなるというのが狙いだった。小さい規模だったが、この仕事は全員がwin-winで質が高かった。
ライブのクオリティも高かったので、もう少し続けたかった。武者修行というのは価値があり、「ライブ筋」というのは実在する。
「このライブの質でサーキットやフェスに出ればなんとかなる……!」という「売れる手がかり」がようやく見えた気がした。
しかし年末に解散を発表。まさに力尽きたという感じがした。質を高めているあいだに空腹で餓死したノリだった。
それにしてももうバンドはやりたくなかった。キツすぎる。
2018年(平成30年)
TOKIO山口達也メンバーを強制わいせつ容疑で逮捕!この年はこれしか覚えていない。
僕はライブよりも作品作りをしたくなっていた。イラストレーターと動画を作り、絵本を作るという内容の活動を行う。いまだにけっこう売れている。
この年、営業代行会社を立ち上げ、代表を務めるようになった。バンドマンがわらわらと務める。
バンド活動がなくなった途端に時間とお金が急に増えるのは皮肉な話だったが、「死ぬほど酒が買える。しかも怒られない。ライブもないし、飲んじゃいけない理由がない」ということが起きているあいだずっとアルコールを摂取していた。
アル中になり、医者に「もっぺんバンドしなさい」と言われ始める。
やりだしたらどんどん曲が書けるので驚いた。juJoeと名付け、12月に無料配信。結局、バンドを辞めている時間というのは半年もなかった。
2019年(令和1年)
イチローさんが引退し、霜降り明星が「M-1グランプリ」優勝!そして年号が変わり、時代が令和を名乗り始める。
僕はライブをしまくる元の生活に戻るようになり、「やはりロックバンドはやるべきである」と考えを改める。
無料配布のタワーレコードでメジャークラスの展開が取れる。断られたのだけど、いつまでたっても僕が諦めなかったせいだろうか。良い仕事に「しつこさ」は不可欠な気がする。ウザイだろうなぁ。
「ミュージックビデオでも作るか」と作ったらゲストでボーカルたちが集結してくれた。嬉しかった。
2020年(令和2年)
上京して10年目。そしてコロナウイルス大流行。ライブは全然できなくなる。QOOLAND末期の「売れる手がかり」は結局、通用しない未来線だったのかと救いのないことを考えたりもした。
juJoeのアルバムが配布数一万枚に達する。いろんな店舗で配られ始めた。
2021年(令和3年)
「うっせぇわ」が大ヒット!
僕は3月にCDをリリース。内容はほとんど配布していたもの。この「最初に配って後で売る」という戦法を繰り返してきた。案外、デメリットがない。テレベで演奏するなどプロモーションもしっかりしていた。(令和2年)
7月に小説「さよなら、バンドアパート」を発売。ここnoteで書いたエピソードなんかがキッカケになり、作品化された。
この佐久間さんのRTが大きかった。影響力ありすぎ。
2022年(令和4年)
なんだかんだ何も変わっていないでバンドしている。あしたもライブだし。一ヶ月あたりライブ4本とか。
だけど事業が急変。
外から呼んだ役員増えまくった結果、もう会社を抜けることに。追い出されたわけではないのだが、自分で作った会社なのに思うようにできなくなってきてしまった。
ボケーっと在籍していれば既得権益でのうのうと暮らせたかもしれないが、つまらなさすぎるので脱退。とりあえず回線販売会社を創設。商材は何でもよかったので。
次はもっと人を育てていける、いろんな意味で豊かにできる事業をやりたいと思ったりする。またちょこちょこバンドマンとかがやってきてバイトしている。
4月にボカロ音声をjuJoeに組み込んだ作品作りを開始。
夏は「さよなら、バンドアパート」の劇場公開。2015年に犯した無断で録音したりした話もアリ。KEYTALK武正が演技派だった。
2023年(令和5年)
juJoeに花澤(Gt)とこめたに(Dr)が加入。心機一転、4人バンドに生まれ変わる。
「売れるために組まれたバンドは危機的状況に弱い。友人関係で組まれたバンドは強い」と武正が言っていたのを最近思い出した。「はなこめ」はただの友人なのでそれになったのでたぶん強くなった。
12ヶ月連続自主企画「とにかくモテたい。女じゃなく人間に」を決行。最終月にはワンマンライブ。成功。
月収70万に届く従業員が出てきた。至急100に乗せてほしい。商材は何でもいい。規模も何でもいいと改めて思う。ステージやメンバーもそうだ。こだわるところはそこではない。
「こだわる場所」は自分の魂がいかに輝くかだと思う。そうすれば「夢が壊れないぐらいのカネ」はちゃんとついてくる。
2024年(令和6年)
X(旧Twitter)をプレミアムプランにしてから長文が定期的にバズる。従業員が増える。年が明けて20名になる。売上が月に1000万ぐらい。
音楽を作って歌っています!文章も毎日書きます! サポートしてくれたら嬉しいです! がんばって生きます!