愛だけじゃ息苦しいけど、毒だけじゃ心が悪くなる!
「良質な言葉」と呼ばれるものがある。
だけどどんな良い言葉だとしても「万能」なんてことは無い。
たとえば「平和が良くて戦争が悪!」はかなり「良質」だ。しかしこれすら万能でもない。言葉の成分はそれぐらい0と1ではない。
平和のしわよせはどこかにあるし、戦争の裏で救われているひとだっているのが実情だ。
日々の中で「世論」というやつがあちこちに飛び交う。
「悪さをしたひとがぶっ叩かれる」という流れは、とどまることを知らない。
それぞれの立場から、それぞれの思うことをみんな口にする。
影響力は異なったとしても、有名人と一般人の発信スペースはあまり変わらなくなった。
ネットのおかげでどんどん言葉が飛び交う。
すると正しい、戒めの質感を含んだ声が多くなる。ノイジーなマジョリティが表面化しまくっている。
正しい言葉でも1000人から言われたら、受け手にとっては「死ね」になるのだ。
僕は意見を大々的な場所で語るタイミングがある。いろいろな機会を頂いて。
そのせいで考えることが増えた。
たとえば「自分の発する言葉と同じ意見を持つひとは、どれぐらいいるのだろう」と思ったりする。
どれだけ自分がそう思っていても、届いた人間にとっての「死ね」にならないだろうか。と想像してしまうのだ。
それでも口にすることはある。
そのときは「死ね」と自分は言ったのだと意識しておくのだ。
「いや、そんな傷つけるつもりなかったですねん・・・」みたいな逃げをしたくないからだ。
言葉と、その言葉の持つ効果の誤差を言い訳にしたくない。
愛がある言葉と、愛がない言葉の差は極めて顕著だ。
どちらも使う。
人間だから愛だけじゃ息苦しいし、毒だけじゃ心が悪くなると思うのだ。
「自分の発した言葉がどう作用するのだろう」
そう考えると、書くことも変わってくる気がする。
「思ったことを言っただけ」「そんなつもり無かった」
自衛のための言い訳はやはり気色悪いものだ。
だけど、その想定外は別に発信者を守るものになり得ない。
悪意がなければ万事OKなんて話じゃない。
傷つけるのならしっかり悪になった方がいい。
「自分が言ったのだ」と責任を担ぎながら口を開かないといけない。
「矢面に立つことから逃げなかった」というポジションから発すれば、言葉の響き方は変わる。
それは受け手にとっても全然違うはずだ。
ブッ刺された傷口は、しばらくしたら、ちゃんと意味を作り出す。
これからも「俺が殺したのだ」と思いながら生きていきたいものである。
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