ここではないどこかに!!!
書けないぐらいのつっぷしが続いてしまっていた。いつも読んでくれていたひと申し訳ない。
心配のDMが一通来た。
来ただけで救われた気分になった。
目の前のひとの心配も嬉しいが、全然知らない一通のDMが自分を動かすこともあるらしい。
心配をされると「大丈夫です」と返してしまうのは人間が人間たる儀礼だ。
「いや、いま僕はとっても大変なのです」と返すことのできるやつほど大丈夫なものだ。
先日は自殺未遂を起こした人間と話した。しかも二人、さらにしかも、どちらも女性だった。変なスケジュールだ。
何故女たちは死にたがるのだろう。
しかし、ここではないどこか、今ではないいつかに飛び立ちたいのは、いつも女性な気がする。
逃げる六月の先っぽに架空の自分を求めて飛び立とうとしている。
この世の誰もそこへ行くことはできないのに、「違う場所」「先の世界」を目指している。
手を切断したひとが、無いはずの手に痛みを感じるように、先の気配を感じとるだけしかない。
「生きなくてはいけないんですかね」という話をされたが、結論から言うと生きなくてはいけないのだ。死ぬわけにはいかない。
うつの症状に、ふだん聞こえないはずのカットされている音が聞こえてしまったり、音量や方角がデタラメになったりするものがある。
抗うつ剤が効いてくると、この症状が緩和されてくる。いらない音はしっかり聞こえなくなったり、聞こえるべき音だけが聞こえるようになる。
だが、この症状はウザいが大したことはない。疲れもするが、大きな弊害にはならない。人混みや大勢の声が飛び交う場所にいると、クラクラするぐらいだ。
それよりも怖いのが「自殺念慮」だ。
「もういいじゃないか。よくやった。早く逝ってしまえ」という声が実際に頭の中で鳴る。
これがうつの最も驚異的な病毒性だ。
この念慮にちゃんと言い返すことだ。
「いや、俺はまだ書きたいものもあるし、それなりに大事な人間もいるし、居なくちゃいけない場所もある」
凛として切り替えす。
すると念慮サイドも「書きたいものも死ねば感じなくなるし、死んだ後にあるのは『無』でしかない。残された人間の心配など、死後のお前が気にするような話ではない」
それなりのロジックで言い返してくる。
このやりとりにヘトヘトになってしまいそうになる日はある。
きっと自殺未遂をくりかえすひとも同じなのだろう。
「で、結局どうするんだ?」という念慮サイドの打診に負けてしまい、本当に死んでしまいそうになった夜もある。
「まぁ、そんなに言うならたしかにいいか。もうやり尽くしたか」という気持ちだ。
当時、僕はマンションの九階に住んでいた。
圧死するのにいまいちパワーが足りないのではないかと思い、十五階から飛び降りることにした(たぶん九階でも死ねるのだが)
「よしいくか」とコンビニにでも行くかのような立ち上がり方だった。
立ち上がった瞬間、なんと足がダウン寸前のボクサーのように震え、悲しくも怖くもないのに涙が勝手に出てきた。
「あ、俺もう死ぬんだな。マジで」という事実に身体が断末魔をあげたのだと思う。
その瞬間、携帯電話が鳴った。付き合っていた彼女だった。
「いまから行ってもいい?」
「落ち着いて聞いてくれ。自殺念慮が出ている。早く来て、病院でも警察でもいいからぶちこんでほしい」
数分で彼女はやってきて、事なきを得た。
後から聞いたら、僕の身体からはありえないほどの汗が噴き出ていたそうだ。まるでプールに放りこんだかのようにズブ濡れだったらしい。
たまにスピリチュアルなことを考えてしまう。
おそらく人間には「役割」があるのだ。
僕たちはあっさり死んでしまう生き物でもあるが、「役割」が残っているうちは様々な因果によって不思議と死ねない。
「役割」は職業やお金のような人工的なものではなく、何かしら次の誰かに受け継がれていくものな気がする。
「死なないようにできている」ということはやはり僕たちは生きないとならない。
逆に「役割」を終えたら、生きたくても死んでしまうのだ。だから生きないといけないのだ。彼や彼や彼の分も含めて。
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