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ルールの本質は縛り上げではなく思いやりにある

ちっちゃかった頃、あらゆるシステムやルールが分からなかった。文脈を読み取るのがヘタクソすぎた。

まず「時間割」という単語の意味が分からないのだ。語感はいいがその漢字がどういう意味を表しているのか理解できなかった。時間を割る……とは何だろうという気になった。
「自分で授業を選んで、割り振りできる」という意味だと本気で勘違いしていた。そして六歳の若輩者ながら「それにしても三十名の子どもが、それぞれ好きな授業を受けて、どうやって統率をとるのだろうか?」と学校の運営スキームを心配もしていた。

漢字と言えば「先生」も謎だった。「教師」なら分かる。何かしらを教えてくれるマスターなのだなーとは思う。「先に生まれた」だけならば中庭で暮らすカメもまた同様ではないかと感じていた。

もう一つ勘違いをしていた。宿題を忘れると、クラスの人気者になると思っていたのだ。これは小学校入学までに触れていたマンガやアニメが悪い方向に働いた。

出木杉(ドラえもん)や伝七(落第忍者乱太郎)など、勉強ができるキャラは魅力に欠ける例が多かったのだ。まだコナンも連載前だったし、令和の世のヒーローである炭治郎やロイド・フォージャーのような主役はいなかった。頭脳派や「ガリ勉野郎」などは基本的に悪役だったのだ。

反面、悟空やダイ、桜木花道、浦飯幽助なんかは勉強はできないが魅力に溢れていた。

僕は出木杉よりも悟空になりたかったし、そもそも子どもはカッコイイものの真似をする生き物だ。あなたも悟空らがしっかりと宿題をやっている図は想像できないと思う。

僕の「宿題を絶対にやらない」という問題行動は小学校一年生だったせいかあまり問題にならなかった。「やれやれ」ぐらいで済んでいた。今の世の中ならどう処理されていたのだろうか。

お咎めがないのをいいことに僕は調子、というか図に乗った。図という波に乗っていた。 宿題はとにかくやらなかったし、さらに遅刻もしていた。 眠くもないのに授業中、居眠りしているフリもした。

猛烈な問題児だった気がするが、純粋に悪意なく問題を起こしていたのだ。悪意がないゆえタチが悪かったが、それらはすべて悟空になるためだった。

その中でも最大の問題エピソードは「たけのこ隊事件」だった。

僕の小学校は土曜日のみ集団下校をするシステムがあり、その下校チームを「たけのこ隊」と呼んでいた。

当時は九十年代であり、週休二日制ではない。第二、第四土曜以外は午前中の通学を義務付けられていた。

そんな土曜の授業を終えると放課後が始まり、住んでいる丁目ごとに集まる。

集合場所は三階の六年生の教室だった。

一年生の教室はすべて一階なので、階層が上の教室は「格上」のイメージそのものだった。

僕の家は六丁目だったから、六丁目の先輩たちと帰る。

一年生から六年生まで、十人ぐらいのグループになっての下校だ。しかしこの集合する行程に三十分ほどの時間を要した。

六学年の生徒が十人集まると考えれば当然だが、すべてのクラスの締め時間が、揃うことなどなかった。必ずどこかの学年が遅れるのだ。

僕はこの時間をムダだと感じていた。

「自分の家ぐらい一人で帰れる」

「土曜日だけ集まる意味が分からない」

そんな思考が働いた。そしてある日の土曜、僕はたけのこ隊をすっぽかして一人で帰った。生後六年の僕の初めての「一歩踏み出した」だった。

全員がタラタラ集まって下校する日に、一人で帰るのには月曜の朝から酔っ払っているような爽快感があったし、公道を二百キロで走行するスポーツカーみたいな気分だったし、現金の海で泳ぐような、言うなれば背徳感の初体験だった。

小学生が歩いていない通学路はスイスイ歩けた。

いつもはまわりの声でうるさくて、聴こえてこない木々のささやきが如実に聴こえてくるようだった。木漏れ日の美しさはキラキラして、四月の風は色が塗っているみたいな存在感だった。

ふだん歩いている道であっても、誰かに歩かされているか、自ら一歩踏み出すかで歩んでいくかで心の震え方はこんなにも違う。

歩道のすべては冒険で、踏み出したこの足なら僕はどこまでも行ける気がした。

だがこの行動が、空前絶後の大問題に発展した。

学校中の先生が出動し、僕の大捜索を始めたのだ。

誘拐か神隠しか、交通事故か。

この場合、「監督不行き届き」の烙印が押されるのか分からないが、先生たちは慌てに慌てて行方不明小学一年生児童の捜索を行なった。

家にも鬼のように電話がかかってきていたそうだ。しかし運悪くその日はたまたま両親が家にいなかった。

学校側が僕の生死を確認したのは、夕方になってからだった。
僕はイェーイ!とウルフルズのように走り回って遊んでいた。

たけのこ隊という法治国家の存亡そのものを揺るがすこの大事件は、学校中を包み込んだ。

次の日、日曜日なのに校長先生のところへ僕は父親と一緒に謝りに行くことになった。「学校の長を務める先に生まれた成人男性という漢字」と思っていた。

校長室に一年から六年、全ての学年の先生がいた。国連の首脳会議みたいだった。プロ野球全球団の監督が揃ったかのようなすごい豪華な感じがした。

生後初めて、「静かな迫力」というものを味わった。

校長先生は閻魔大王のような声で言った。

「ルールは守らねばならん。守らなくては、みんなに迷惑がかかる」

至極真っ当な言い分だった。学年中の先生たちは「そうだそうだ!」と同じスタンスで僕を叱責した。

その通りだと思ったのだが、僕はなぜか納得いかなかった。

ルールを破ったのはたしかに悪い。
だけどルールを破ってでも一人で帰らなければ、あの感覚は味わえなかった。

「あの感覚を得るよりも、足並み揃えて下校することは、大切なことなのだろうか」と心が叫んだ。

歩道を踏みしめるたびに、緑と風が心とぶつかって鳴りまくるあの感覚、アレよりも大切なことなど無いと悔しさに震えていた。

しかしそれ以上に、悲しさと恐怖が胸の中を渦巻いた。

それでも一欠片の勇気を振り絞って「すべてのルールを守ってたら僕はどこにも行けなくなる」と震える声でこぼした。

生後六年の一人の人間のささやかな主張だった。

だけどあの言葉は今も自分の人生の軸になっている。

結局うやむやになって説教は終わった気がする。もうあまり覚えていない。今思えばそもそも「生産的な市民を育成する機関」に個人の主義を説くということ自体がナンセンスだった。「じゃあ辞めれば?」と思う。辞めときゃ良かったとも思う。

あれから二十年以上の月日が経った。改めて変わらずに思う。

決められたルールは大切なのだけど、誰しも行きたい場所に行けばいいと思う。

人間は生きていけば必ず場所をとる。

誰かに世話になり、誰かに迷惑をかける。でも迷惑をかけたら次回手を貸してあげればいいのだ。

「迷惑をかけるな」と教育されてきたけど、「本当にそうか?」としか思えない。

いろいろなひとに僕は助けられてきた。

「一つでも多く何かを返したい」という気持ちは、いまも明るいモチベーションになっている。

それはいけないことだろうか。

「迷惑をかけるな」という言葉は歪曲して伝わり、「支え合い」の精神を阻害しないだろうか。

ルールの本質は思いやりにある。

規則は人間を守るためにあって、人間を縛り上げることじゃない。

僕は行きたい場所に行きたい人間と行く大人になった。

検索したらたけのこ隊はまだ存続していた。令和の世になったが、あの頃の自分が歩いている気がしてならない。

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