「葛藤」というやつが一番タチが悪い。
「葛藤」というやつが一番タチが悪い。
エネルギーの消費も激しい上に、ストレスも強くかかる。そのわりに何一つ行動していないのだから、生産性ゼロだ。能率が悪すぎる。
「葛藤」ばかりしている人間がたまにいるが、もはや慢性的な自傷行為に他ならない。自らへの殺意が止まらないなら仕方ないが、それで何かしらを成し遂げたような顔をしているようでは、始末に悪い。
などと悪態つきつつも、よくよくそういう風に生きてきてしまったなぁという自覚がある。そしてこれからもそうなのだという不安がある。
僕自身に「行動力の有無」を問いただすと、ゼロでは無いが「有る」とも断言し難い。
というより意志力が乏しいのだろうか。それとも「葛藤」のしすぎで燃費が悪いのだろうか。また、憂さを晴らすために酒を飲んでしまう心の弱さが、「行動」という根源的な推進力を蝕んでいるのだろうか。
何でもかんでもアルコールのせいにするのもズルイが、この国家ぐるみの合法ドラッグから解放されるのは本当に難しいと感じるのだ。
もちろん「酒をくれ!」などとのたうち回ったりはしない。あんなものはフィクションで、依存を取り違えたクリエイターによるパフォーマンスだ。
むしろずっと小さく潜んでいる。
少し空腹になったとき、不安やイライラするとき、様々なシーンで「酔い」の感覚を思い出すのだ。
「こういうときに一杯飲んだら」という考えが浮かぶ。
すぐに打ち消すのだが、暮らしのあちこちで顔を覗かせる。「たまらなく欲しい!」といったようなものではない。漠然と、「嗚呼ここでいっぱい飲んだら」と考えてしまうだけだ。
思考回路の配列がそうなっているのだろう。
少しでも不安や苦痛があると「飲む」という回路にジャックインされてしまう。
精神病理学で言えば、「報酬系の回路」ができあがってしまっているのだ。
こうなってしまうと、飲んで得られる報酬よりも「飲まない」ことによって、与えられる大きな何かが必要なのだろう。
きっとそれらは生存への希望とか他者への愛とか、一般的に「幸福」などと呼ばれているものだ。
これらに対して尊ぶマインドを持ち合わせていないわけでもない。だけど果てし無く強いというわけでもない。
やはりそんなことより、もっと大事なことがあるのでは?と思ってしまう。
飲むことと、飲まないことは抽象と具象との戦いになる。
現実というアトラクションを最前列で楽しむか否か?という問いかけにも感じる。
「現実を見ろ」と人々は言うが、何故だろう。抽象で現実を抑え込まないと、やっていけない夜もある。
「葛藤」のエリアからなんとか動き出さないと、無尽蔵にエネルギーを失う。
エリアから出かけるのに、気を大きくしないといけないのはつらくもあるが、とどまっているわけにもいかない。
この文章を書いたのは今から10年も前なのだが、昨日書いたようにも感じる。
知り合いから解散の報も届く。とにかくよく走った、分かる。お疲れ。
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