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「健忘」というのがある

ルネスタという睡眠薬を飲んでいる。これの副作用に「健忘」というものがある。

従来の睡眠薬よりもルネスタは作用時間が短く、急激に覚醒レベルを落とすことができる。そのせいで中途半端な覚醒状態にしてしまい、記憶だけが抜け落ちてしまうことがあるのだ。

自分ではすぐに寝られたつもりなのだが、記憶にない間に色々なことをしてしまうときがある。起床するとまったく記憶にない行動の後があったりするのだ。こいつが面白い。

読みかけの本のしおりが見知らぬページまですっ飛んでいたり、覚えのないツイートが残っていたり、LINEで仕事のやりとりをしているがまったく記憶にないことがある。

起きたら知らない曲ができていたこともあるし、辞めたはずのバイト先に戻る約束になっていたことまである。

これらは効果時間が短いベンゾジアゼピン系睡眠薬に生じやすい。さっと効いてさっとリリースされる速い睡眠薬だ。

ダラダラ効かないで、ガツンと寝付きのアタックを狙うので、中途覚醒患者には合わないが、うまく寝付けない患者などに処方される。朝に残りにくい。

この健忘は危険なのか、と考えるとそうでもない。

素人考えではあるが、何か脳にストレスをかけているわけではなく、一気に覚醒レベルを落としているので、しかたないことなのだ。

「乳酸菌及び乳由来の成分が沈殿する場合がありますが、品質には問題ありません。よく振ってお飲みください」

と書かれている乳酸菌飲料のようなものだと思っている。

記憶が吹っ飛ぶは吹っ飛ぶが、その間、別に酔っ払っているわけでもないので、ヤバイ動きや問題行動を取ることもない。前のバイト先に戻ることになっていたときは、酒を併せて飲んでいたからだ。酒と併せるのが良くない。

そしてこの健忘に困らされているかと言うとそうではない。むしろ普段の自分じゃ届かないようなものが手に入るとも言えるし、全然覚えていないのでなんだか得な気分だ。

この公式LINEの返事もまるで覚えていないし、先日、作った曲があるのだが、これもどうやって作ったかまったく記憶にない。起きたらボソボソと歌ったメロディが録音アプリに更新されていて、メモ帳アプリに歌詞が書かれていた。

結局、少し楽しいのだ。

睡眠薬遊びは推奨されていないし、用法用量を守らないと危険でもある。アルコールと混ぜたら肝臓への負担も大きい。

日々、用法用量を守っている。そして守っているが健忘は起きる。

だけどそんなに派手なことは起きない。

では何が楽しいのか。たぶん「記憶が飛んでいる」というものにささやかな救いがあるのだ。

朝起きると、その間は死んでいたんじゃないのかというぐらい覚えていない。それなのに痕跡だけがある。

これはまるで違う時間軸の自分がいたような不可思議な感覚で、何分ぐらい健忘状態だったのかは分からないが、非常に気が休まるし、生きることの苦しさが淡くもなる。

50年ぐらい記憶が吹き飛んでくれたらどんなにラクだろうか。

自殺しているわけでもないので、一応50年間、働いたり笑ったりはしていくのだろう。気がつくことなく死んでしまうというのも、自分が自分じゃなくなった悟りの感じがして悪くない気もする。

生きていると、見たくないことや考えたくないことがいっぱいだ。見たいことや考えたいことも僅かにあるけれど、人生はそんなに明るくも楽しくもできていない。

かと言って生命にはいちいち死ぬほどの哲学的意味もない。

いつ死ぬか分からないのに安穏と暮らしている僕たちの現状は上空に跳ねることはないが、月日と共に矢のように前進していく。ナメクジの行進みたいに人生は一日、一日、一マス、一マスとゴムを薄く伸ばすかのごとく伸展している。

きっと「記憶が飛ぶ」というのは「5マス進む!」みたいなワープ現象なのだ。毎日一歩ずつ行くしかないのか……とゲンナリしてくるときがあるが、睡眠薬はこの過程をすっぽり抜いて、一気に進ませてくれる装置だ。

これは酒でもそうだし、多くのドラッグが合法違法問わずそうだろう。この世に一定の割合で存在する一マス、一マスの毎日に喜びを感じられない人種が今宵もラリったり酔っ払ったりしている。

そんな連中に比べれば部屋で「何も覚えていない時間」を作って、朝に痕跡を認識して遺跡を掘っているような気になるなんてかわいいものである。




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