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分かったつもりになって喋るとロクなことがない。

世の中や他人を分かったつもりになって喋るとロクなことがない。

昨日は成人式だった。成人した後、油断していたら人間は一気に堕落していく。大人になると、それだけで少しずつ理不尽は減っていくし、もちろん成人したってそれなりに死にたいことはあるが、子どもの味わう絶望とは比べものにならないほどあっけないものだ。

子どもと違って永遠に終わりが来ないので、苦痛よりも「飽き」からくる自殺には気をつけなくてはいけないが、やはり成人は楽である。その楽さと快適さが人間としての成長を止める要因にもなるのだと思う。

その一つが「世の中や他人を分かったつもりになって喋る」だ。

ソクラテスの言った「無知の知」に近い感覚なのだが、「自分が何も知らない人間だと知っていること」はおそろしく大切な肌感だ。これは考え方やスタンスの話なので、実際の知識量などは関係ない。すごく物知りでも「知らないことの方が多い」というひともいれば、その逆もあるということだ。

幼い頃は「何も知らないや」というスタンスでいられるのだが、成人して十年も経つとそれなりにいろんなことを学んでしまう。これが勘違いを生む。

自分の人生のわずかな時間、密度で学んだことよりも、膨大な量の知らないことが世の中にはある。なんなら一冊の本の方が自分のこれまでの人生の密度より濃いんじゃないかと思うことさえある。

長く生きるほど、なんだか知った気になってしまうのは一種の病気だ。
「大人になって成長が止まる現象」というのがあるが、根本の問題は「調子のり」にあるんじゃないかと思う。

ソクラテスは「お前ら何か分かった気になってるみたいやけど、言っとくけどその時点でめちゃくちゃアホってことやからな?」といろんなひとにふっかけたわけだが、たまには自分で自分にふっかけておきたい。

大人になっていくにつれ、身の回りの人間も少しずつ年をとる。自分のまわりにはかつて小学生しかいなかったのに、成人式では成人しかいなくなるのだ。

そうなると昔よりも「分かった気」の人間の人口量が増えてくる。

昔の知り合いに久しぶりに会うと、もともとは「分かった気」になる人間ではなかったのに、「分かった気」を振りまきまくるひとに変わっていたりもする。怖い。自分もこうなっていくのかというのが怖い。

「あれもこれもまだまだ分からない」というスタンスが崩れないように生きていきたい。「わてはなんでも分かってまっせ」という感覚が一度根付くと、人間として完全に終わってしまう気がする。

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