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役に立たないものは愛するしかない

入園料120円かかる庭園に行っていた。じつに綺麗なのだが、何の役に立つのかと考えると別に何もない。だけどたくさんのひとが訪れていた。


なるほど120円なら安いもんだ、と思ったのだが、それは「役に立つ」からではない。いっさい役に立たないけれど安くは感じる。風景だからだろうか。

やはり人間、役に立ちたい。

でも誰だって役立たずとは言われたくないし、ニーズのある人間になりたいんじゃないだろうか。

僕たちは自分以外の誰かの役に立つことで報酬がもらえるし、家に住める。他者に利潤をもたらすからこそ分け前を手にできる。

生業なりわいとして黒字化していることに「これでメシを食ってる」という表現があるが、成立しているのは、役に立っているからだ。

逆にバイト代が日当1万円だとしても交通費で1万2000円かかっていたとする。これではメシは食えない。メシを食うには「日当2万ください。それぐらいは役に立ってるはずです!」と言わないといけない。「いや、そんなにあげられない。それほど貴様は役に立っていない」と返ってきたら交渉決裂なわけだ。

これは交通費の話だが家賃や生活コストにも同じことが言える。

次々25万円の収入があったとしても、家賃が20万円なら「メシを食えてる」にはならないし、家族がいっぱいいれば25万円では足りないだろう。たくさん役に立たないといけないのだ。
逆に家賃もかからないし、ランニングコストも割安で、食事はまかないでいける暮らしなら月収5000円でも食っていける。

じゃあ役に立つことがすべてなのか、と言うと全然そんなことはない。むしろ僕は役に立たないもの、便利すぎないものの方が好きな気がする。

たとえばギター。この楽器ひとつとっても表現において最強なわけではない。

むしろ「楽器を奏でる」という行程は「コンピュータで音楽を作る」ことに比べると劣勢だ。

生楽器は騒音は出るし、思いどおり弾けるには修練の時間もかかるし、メンテナンスも必要だし、個々の技量差もある。おまけに楽器の価格帯もコンピュータに比べると高い。

車と電車を比較してもやはり都内に住んでいれば、電車に軍配が上がる。
どこでも行けるし、時間通りに着く。使用料金は維持費、ガソリン代、駐車場代を考えるとケタ違いだ。電車こそ最強なのだ。

ぬいぐるみなんかが部屋にあるひともいるだろうが、もう役に立たないどころの騒ぎじゃない。場所をとるだけの布のかたまりにすぎない。

じゃあそれらは何なのか。120円の庭園に行っても腹も膨れないし喉も潤わない。

もうこれら「役に立たないもの」に対する僕たちのアプローチは「愛する」しかないのだと思う。役に立たないものは愛するしかない。

僕はずっと「愛されるため、ひとの役に立ちたい」と思って生きてきた。誰かの役に立てば愛情が受けられるはずと勘違いしていた。しかしそれは構造的には愛ではなくて、対価を得ているだけなのだ。

ただそこに存在しているだけで愛されるひとがいる。
反対に生産性があるから必要とされるひともいる。

どちらがいいわけでもないし、どんなひともそのひとの大事な誰かにとっては、存在しているだけで愛されるのかもしれない。
「存在価値」というあんまり有るか無しかで考えたくない指標があるけれど、何の役に立たない人間にも存在価値があればいいなと思う。
「何の役に立つの?」というときに「いや、憎めないじゃん」というだけでいい。もちろんそれだけじゃ寂しさも鳴るのだが。

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