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不安が通常

僕は一人で時間を過ごせるほうだ。誰かといるのが苦手なわけではないが、一人が好きだ。
こじらすと誰かと力を合わせることができない人間になってしまうから、気を付けている。

逆の性質が「基本的に誰かと何かをするのが好きなタイプ」だ。こじらすと、一人じゃ何もできないひとだ。

どちらが良い悪いではないが、この性質区分けは淡水魚、海水魚ぐらい大きな区分けだ。その人々の生息する水質も決まる。

一人が好きなひとが週五でクラブでトランス聴いて初対面の半グレとテキーラ飲んでいたら、間違いなく病む。

パーティー好きがドストエフスキーを読むしかやることのない部屋に監禁されたら、きっと表情が動かせない疾患とかになる。

こういった人間の性質は小さい頃からあまり変わらない。子どものときの匂いというのは引き継がれていくものだ。

僕は幼稚園ぐらいから「将来どうなるのだろう俺」という不安を持っていた。そしてこれは小学校、中高、成人、今現在本日まで変わっていない。
心配性とは違うのかもしれないが、それに近い傾向がある。

そのくせまったく明日が読めない暮らしを重ねている。今も半年後に何をしているかが分からない。ちなみに小中高から同じだ。なんとなく「いつか通わなくなる」と思って学校に行っていた。

先の見えない日々が連結して、ここまで大きくなった。

「見えない」というのは動物的な、本能的なことなのだろうが、不安を駆り立てる。だから「安定したい」と思うのは普通の反応なのだ。

しかし僕は安定的かつ予測の立つ生き方をするのを諦めてはいる。できないことだからだ。でも無神経でもないので、ちゃんと「見えなさ」に怯えてはいる。

「将来どうなるのだろう俺、不安だな」を背負っていくしかない。もうこれは持っていくしかないのだろう。

だけど不安を通常運転にしてしまえば、怖いものはそこまでなくなる。きっとこれまで通りこの先も不安なのだ。

「生き方」なんてものは、あまりカッコいいもので構成されていない。「持っていくしかない仕方ないもの」で、僕たちの生き方は作られている。今日も不安だ。でも通常だ。



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