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さよなら、バンドアパート.美咲の話3

僕と美咲は時折公園で話すようになった。

二人きりで話さないと人間の本質には気づけない。学校という籠の中では、人の心を丁寧に触ることができない。

「あ、こっちの人やないんや」
「うん。小学校までは、経堂ってとこにいたの、世田谷区の」
「狂って動き回るって書くん……?怖いな」
「違うよ!経るって字に、殿堂入りの堂だよ」
「せやな。『世田谷区・狂動駅』とかありえへんよな」
僕は半分本気だったのだが、美咲は冗談をくらったみたいに笑っていた。

美咲は「どんな育て方をしたんですか?」とご両親に聞きたいぐらい、素直で優しい性格だった。
ドブの底のような日々を送る僕にとっては、地獄に垂れてきたクモの糸そのものだった。どんな人間でも、大概一生に一度はその人間に相応した花々しい時期というものがある。人生捨てたものではない。

そして魔法のような話だが、明るいものに触れると、世の中全体すらも捨てたものでは
ないように見えてくる。

美咲との時間が欠片ほどでも僕に素直さをもたらしかたのか、学校へと少しずつ通えるようになった。通学が『健康で文化的な最低限度の生活』だとすると、公園での時間はバブル期を思わせる輝かしさだった。

美咲は年の割に大人びているところがあり、よくファッションや読んでいる本の話をしてくれた。

つまらないわけではなかったのだが、僕はいつもそれをぶった切って音楽の話をしていた。美咲はそれでもよく話を聞いてくれた。
「やっぱWEEZERやねん。俺もああいうのがしたいねん」
「そうなの? どのアルバム聴いたらいいかな?」
「やっぱ青か緑かなぁ」
上を向くと冬が近くなった空は黒々と磨き上げられていた。
「外国の人たちの歌も、TUTAYAに置いてるの?」
「洋楽もちゃんとあるで。あ、でも青やったらCD持ってるわ。良すぎたから買ってもた。貸すわ」
「え、嬉しい!ありがとう!」
上機嫌でポジティブな言葉ばかり使う美咲の声を聞いていると、心が整っていくようだった。

一週間後の公園で、「青、すごい好き!毎日聴いてる!」と美咲は大きな声を出した。自分でもすぐにはっとして口に両手をあてて、周りを見渡した。妙におかしくて、こっちまで笑ってしまった。

僕の音楽制作は一段とクオリティが増した。一人でも聴いてくれる誰かがいると、緊張感も意識も数倍になった。
美咲に貰った「プロみたい……感動した……」がこれ以上ないほど自らを駆り立てていた。

充実感で縫われた靴でこれまでの誤ちを踏み越えて行くような日々だった。取り憑かれたように歌を書いて、これぞというものだけを残した。

新曲ができるたび、公園に行った。美咲が必ず来るというわけではないのだが、一纏の望みをかけて待ち続けた。携帯電話も持っていなかった僕たちは「たまたま会う」しかできなかった。美咲が来ると、秋の夜空に新しいシャカシャカが響いた。
「凄い......前のとまた違う感じで、私、これ凄い好き!」
こちらを向いて、明るい表情をさらに輝かせてくれた。
「WEEZERに似すぎやない?」 
 心では歓喜に打ち震えていることを悟られないように口を開いた。「中二の自意識」はそうやす やすと前後不覚に喜ぶことを禁じている。

「どこか似てるかなぁ?川嶋くんの声だし、日本語だよ?」                   「コード進行とか、落ちサビの具合いとかかなぁ......展開も一緒やし」           
「うーん。分かんないよ!でもそれってもう、模倣じゃなくて、オリジナルってことじゃないかな」
「まぁ、そういうとこは分からへんよな。素人には」
いっぱしの口を利く僕に「分かんないよ!でも凄い好きだよ」という言葉が返ってきた。
ベンチの上に置いた拳を握ると、胸の奥底が熱く泡立った。知識のある馬鹿と無知な聡明さを持つ少女の会話は引きで見ると、ほとんどコントだった。

ある日は調子に乗ってギターを持っていった。美咲が聴きたいと言ってくれたので目の前で歌ってみせた。
住宅街の狭い夜空に全力の大声が跳ね返った。歌い終わった瞬間に「うるせーぞ!」と建売住宅の二階から怒鳴り声が飛んできた。

ケースにしまいもせず、むき出しのギターを持って、僕と美咲は公園から走って逃げた。恐怖は感じなかった。二人とも、むしろ笑いが込み上げて、まるでくだらないブラックジョークのようだった。
「初ライブが途中で中断って」
さすがに僕も笑うしかなかった。
「中断して、帰っちゃうなんてOASISって感じじゃん!」
「あれはふてくされて、勝手に帰ってるだけやん」
二人で大笑いして、すぐにはっとしたように口に両手をあてた。動作がまったく同じで笑いをこらえるのに苦労した。
「ていうか、OASIS聴いてんな」
「うん。借りたCDにね。白い冊子が付いてて、それ読むの楽しいんだよね。伝記みたいで」

美咲は両腕が抜けるぐらい伸びをしていた。
「でも、ほんとに生演奏のほうが良かったよ。ありがとう」
美咲の笑顔はあまりに華やかで、ふと泣きそうになった。歌って感謝されるのは、魂を素手で掴まれたようだった。
自動販売機で同じアイスコーヒーを買った。
「まぁ、でもこんな訳分からん歌作ってもな。プロになれるわけじゃないし」
「なれるよ。川嶋君、才能あるもん。だってBOAの曲より、私好きだよ!」
「BoAかぁ......BoAと比べられてもなぁ…...でも、なれへんかったら?」
美咲は一つの間もなく即答した。
「ロックのことは、あんまり分からないけど、芸術って全員を気持ちよくするものじゃないんじゃない?川嶋君はプロになれるし、なれなくても大丈夫だよ!」
美咲はたまに、そんな「センスのある言葉」を扱う女の子だった。

そのいくつもの言葉のおかげ で、これまでの鬱積や「中二の自意識」が成仏していくようだった。 それでも「あの場所」のことは黙っていた。魅力を分かってもらえるか不安だったし、あそこは 僕にとって、どこか恥ずかしいものになっていた。

それにあの時間、感じていたことはきっと幻想ではないけれど、 それを誰かにうまく説明できる自信はなかった。いや、それは言い訳だ。本当は違う。 

もう悪意の有無にかかわらず、大切なものが汚される、あの、胸がキリでえぐられるような痛みを感じたくなかったのだ。 

 栗田の放った「そんなにいいか?」という悪意無き矢は、まだ僕の心臓に突き刺さったままだっ た。思い返すと古傷が疼くようにじくじく痛んだ。血が流れていないだけで、たしかに痛覚は悲鳴 をあげていた。 しかし夏が来て、僕は美咲をあの神社に連れて行くことになる。キッカケはなんでもないことだった。


三年生の夏休み、僕と美咲は昼間も会うようになっていた。
「恋人」なんて言葉が使えるほどではないけど、休みにクラスメイトと会うだけで「特別」だった。
木々のトンネルと葉の天窓で覆われた並木道にはまばらに光が差し込んでいた。


スニーカーを引きずる僕に美咲が「ほら、また引きずってる!」と笑った。自分としても不格好なので直したいのだが、習性というものはなかなか直らない。
「自分やと気づかへんもんやな」
「靴すぐ擦り減っちゃうよー」
「踵ばっかし穴あくねん」
「足上げないと!」
「入場行進みたいやな」
この幸福の絶頂が続くことを祈っていた。このまま時間が止まればいいのに、と心から思っていた。

体の癖や習性は簡単にとれないように、物の見方も同様だった。僕はいつまで経ってもどこか根拠のない怯えを抱えていた。

その悪寒がまた自分に酒を飲ませてしまうのだ。これはいけないことだ。「未成年は」などという条例での禁止がいけないのではない。

本当に駄目なのは逃避としての自失だ。美咲の晴れやかな顔を見ているとあってはならないとは思うのだけど、どうしても切り捨てることができなかった。

横を見ると、美咲がいたずらっぽく下唇をくわえて笑っていた。
「ねぇねぇ、秘密にしてることを一つだけ教え合おう?」
美咲はたまに独特の喋り方をした。疑問文じゃないのに、語尾が持ち上がる神秘的な口調だった。
「魂に色気がある」とでも言えばいいのか、改めて本当にセンスのある娘だった。
その声に心が無防備になった。

「俺、学校あんま行ってなかったやん?」
「うん……あれ?あんまり?全然来てなくなかった?」
「ほら、あれやん。登校日とか学期末は行ってたし……」
「あれはノーカンだよ!」
「ギリギリカウントしてや」
「だめ!ノーカン!」
美咲は笑って首を振った。
「秘密かぁ………」
「栗田と幼馴染ってのは?」
「友達から聞いた気もするけど……でもそれ秘密かなぁ?」
「だってあいつ、長田どころかなだ行くねんで」
なだ高!?」
美咲は分かりやすいほど驚いた。
「村上ファンドみたいになるんちゃう?ハーフとは言え、村上ファンドが日本一の金持ちやろ」
「川嶋くん……村上ファンドは名前じゃないよ?」
「え?ジョン万次郎とか滝川クリステルの法則じゃないん?」
「ちょっとだけ、違うかな……」
おはじきほどの大きさの声だった。
「中学入ってから、酒とタバコばっかやってたのは? まぁほとんど酒やけど。タバコ吸うと歌いにくくなるしな」
「あ、それは知らない!未成年なのにダメだよ!」
「でも酔ってないと、ちょっと無理やったかもしれんねん……」
美咲は腕を組んで、「うーん」と言った後に、「まぁ無理なら仕方ないか!あくまで、ルールと常識だしね!」とまた笑った。

「学校行くのもルール守るのも、常識やもんな……非常識人間にも居場所があるとええねんけど......」
今度は僕の声がおはじきになった。
「でもね?」
美咲がゆっくり口を開いた。

「私は常識ばっかり信じて、現実に移しちゃうのって、一番危険な気がするんだよね」
その通りだな、と心でつぶやいた。
「川嶋くんはちゃんと自分の頭で考えて、自分が信じてるもの信じてるじゃん!」
「ここから……」
喉が絡んだ。
「ここから、ちょっと遠いねんけど、山の上に神社があんねん、そこにやぐらがあってな?毎日そこにおったな。これはたぶん秘密かな……」
「え?それは知らない!秘密だよ。それ!」
「俺はそこめっちゃ好きやってんけど、ええと、友達連れて行ったらボロクソに言われたわ。あれはキツかったな」
栗田の名を出すのは無粋に思えた。
「そんなのはさ、受け手の力量だよ」
美咲はゆっくり微笑んで、「私も連れて行って」と言った。
「うん、まぁ行ってみよか……」と答えた。

夏たけなわだった。
烈しい太陽光線に灼かれながら、美咲を荷台に載せて、自転車をこいだ。
後ろから「すごい天気だね!」と声がする。美咲のストレートの髪は肩の下まで伸びていた。
「山やぞ!大丈夫か?登るのホンマしんどいぞ!」
向かい風を切って、ペダルを踏みつける。
「大丈夫だよ!私バスケ部だもん!」
「一回戦でボロ負けして引退してるやん!」
「言わないでよ!勝ち負けはしょうがないじゃん!ねぇ、それより重くない?」
「全然重くない!もっと食ったほうがいい!」

しばらく自転車をこいで、山のふもとについた。あれだけ毎日来ていたのに、急に足が遠のいたせいで、もう何年も来ていないような気がした。
ただ何も変わっていない。
のんびりとした稜線が空にむき出して、山というには低く、丘というには大きい。
「ここで降りて、歩かなあかん」
美咲を支えて自転車から降ろした。
「これは凄いね……地元にこんなとこがあったんだね」
「途中でキツくなったら言うてな?」
「うん。ちゃんと言うよ」

自動車教習所のコースみたいにくねくねと曲った道が続き、その後、標高を一気に稼ぐ急勾配がやってくる。

七月下旬の猛署のせいで、山道は余計に険しく感じられた。 鳴きまくるせみは命の限り、声を荒げている。
せみの声が近いね」
蝉時雨せみしぐれの轟音で美咲の声が聞こえなかった。
せみの声が!近いね!」
「な!こいつらはたぶん!一昨年のやつらの子孫!」
せみって!成虫になるまで地面に七年潜ってるんじゃなかったっけ?」
「そんなわけないやろ!」
「どっちにしても、ロマンチックだね!」
「どこまで行っても、せみやけど!」

美咲は汗で髪が顔に張り付いているのを気にも留めないで、 ニコニコしながら歩いていた。時折、膝に手を置いて、「たしかにきついねー!」と歌うように笑った。
道が狭く、一人分の幅しかないため、隣を歩いてやることができない。

楽しそうにしている美咲を尻目に、僕は怯えていた。頂上が近付くにつれ、栗田の「そんなにいいか?」が何度もフラッシュバックした。胸が圧迫感に襲われる。

もしも美咲に「これ?そんなにいいかな……?」などと言われたら、どうすればいいのか。そう思うと生きた心地がしなかった。自分の大切な人に、自分の大切なものが否定されるかもしれない恐れで、気温以上に汗が噴き出た。

神経が肌に突き刺さってくるような緊張を美咲に悟られないよう歩みを進めるしかなかった。

「もうちょいで、着くからな」
「全然大丈夫だよ!」
「バスケ部はタフやねんな」
「一回戦で負けちゃったけどね」

愛矯のある微笑を浮かべた口元が「でも楽しみだな!神社とかやぐら早く見たいよ!」と言った。

美咲の期待感が高まるほど、肩口に兆した戦標がどこに駆け抜ければ良いか分からず、背中を走り、腕や足に散った。

登りきると空が抜けるような青さに澄み切っていた。ひと塊の風が柔らかく吹き上げてきて、体を爽快感が包む。

ほのかにゆらめく芝と、遠くで山道に茂っていた葉の音が何重奏にも重なって聞こえる。登坂の険しさと登頂時のコントラストも相変わらず完壁だった。

神社はあの日から、何一つ変わらずに小さいながらも悠然としていた。長く留守にしていた故郷に戻って来たみたいだった。
自分の感性も神社の仲まいも、あの頃と何も変わっていないことに胸を撫で下ろした。やっぱりここが好きなんだと肩の筋肉がすっと緩むのを感じていた。
「わー!着いた!!」
美咲の声が後ろから聴こえた。

「気持ちいい!川嶋くん、こんなとこひとりじめしてたなんてズルいよ!」
いつもより声に張りがある。こんな声の出せる娘だったのかと驚いた。
「あ、神社ってこれだよね?」
美咲は小さな鳥居を見た。
「小っさくてショボない?」
「ううん。今まで見た神社と違って、デリケートな感じがする」
「デリケートか……神社に向かって、デリケート……別にただ無人なだけやけど」
冷やかすわけではないが、必要以上に神経質な表現だと思った。
「でも、きっとここには神様がいて、辛い時の川嶋くんを守ってくれていたんでしょ?」
冗談にされてはたまらない、と言ったような真剣な声だった。
「まぁ、せやな……」
気圧されたように同意した。

美咲は小さな体で、王様みたいに堂々と胸をはって神社に近づいていった。賓銭箱の前まで来ると、小さな財布に手をいれて、千円札を取り出した。
「おい、片岡」
「何?」
「いくらなんでも、それはあれやろ……高すぎるやろ」
「高くないよ」
夏目激石の顔が美咲の両手の中、風に吹かれている。
「費銭箱に千円も入れるアホおらんやろ、どう考えても、めちゃくちゃやろ……」

しどろもどろに脈絡のない言葉を並べる僕を尻目に、美咲は千円札を賓銭箱に入れ、両手を合わせて目を閉じた。
「マジか……」
口が半開きになり、固まってしまった。
「史上最高額だよ!」

美咲はこっちをくるりと振り返り、両手を広げた。きめ細かな長くなった髪が風に吹かれていた。
「何でなん……?家、金持ちやったっけ?」
「だって、ここは大事な場所なんでしょ?お小遣い半月分! ありがとうございます、って気持ちだけでも届けたくて!」

輝いているように見えた。陽光もあるが、美咲自身から光が発散されているとしか思えなかった。
「やぐら、登ってみる?」
「もちろん!登らないと!」
吸い込まれそうな声だった。

手をつないで、やぐらに登った。あの頃と変わらない箱庭みたいな町が眼下に見える。雲一つない空がパノラマで広がる。額に収めて飾りたくなる風景は相変わらずだった。山道の疲労が一気に吹き飛んでいく。
「凄い!綺麗!ちゃんと地球の丸さが分かる!」

美咲は小さな町を、まるでグランドキャニオンであるかのように、何の混じりけもない明るい顔で眺めていた。

嬉しかった。でも嬉しいはずなのに、感情をうまく表に出せなかった。

これまで味わった苦味、寂しさ、そして例えようのない嬉しさを全部、口に含んだような気持ちだった。
「ねえねぇ!あれ学校かな?ねぇ、あれは?」
ロの中の入り混じった気持ちを飲み干すと、美咲の声が遠く感じた。

空も神社も町もやぐらも、すべてが独りだったあの頃と同じだった。それなのに何故だろう。誰かと手をつないでいるだけで、世界の感じ方や見え方はまるで違う。

青空が目にしみるほど濃く、風は体の中を通過してるみたいに涼しい。美咲と一緒に見ると、僕を苦しめてきた小さな町も、恥部となっていたこの山頂も、敗しすぎるぐらい美しかった。

この神社とやぐらは誰とも喋りたくなくて、つながりたくなくて、辿り着いた後ろ暗い場所だった。そんな防空壕が世界で一番尊いものに化けた。
頭の中でキーンと音がする。
「いいとこね!」
つないだ手の先から、風鈴のような声が聴こえた。何故かは分からなかった。分からないけど、
手をつないだまま、つないでもらったまま、耐えきれず泣いていた。







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