失望上等!
バンドをやっていると、会社をやっていると、他人にガッカリされっぱなしである。
しかしずっとこれで来ている分、失望されることに慣れてしまったりもする。「このひとにだけは見損なわれたくないな」というような野郎はいるけれど、それでも他人の心はコントロールできない。
そんなとき、思い返すのが「ガッカリされたとて、じつは何も失っていない」ということだ。
どんな親友でも、愛するひとでも元々は見知らぬ他人なのだ。
完全に見損なわれて、絶交したとしても、知り合う前に戻るだけだ。むしろ、その一緒に過ごせた時間が無駄な経験にはならないだろうから、「知り合わないより」お得なはずだ。
デジタルに考えるとこうなるのだ。
誰だって失望なんてされたくない。群れの生き物である本能だ。
だけど、もう文明は発達した。本能はときに邪魔になる。文化人類学的には失われた方がいい機能もたくさんある。
もっと自分にガッカリした方がいい。
もっと諸々諦める方がいい。
もっとゴリゴリに捨て去った方がいい。
見損なわれるたびに「自分は駄目なやつだ」なんて思うだろう。それでいいし、もっと駄目だと思ってもいい。ていうか「駄目でも別にいい」が来るといい。
そうしてようやく、「あ、自分に期待してたアイツのモノサシが間違ってた。俺そんなんでけへんもん」となる。
そうなったら以前よりは強くなれる。自分で決めた自分のモノサシで、自分の信じた道をすんなりと歩ける。クソ同然の自分ができることを小さく、ガッツリやるのだ。
「みんなのように協調性が無くてもいい、みんなのように忍耐力が無くてもいい。というか無い。じゃあ俺に何ができるのだろう」の連続で僕は生きてきた。
そんな僕にも「ガッカリさせたくない」と怯え続けた日々がある。あの日々が終わったのはいつだったか、と考えても思い出せない。
他人にガッカリされることに、免疫が付いてきたのはいつからだったか、どうやったのか。分かれば再現性があるのだけど、どうしたものか。
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