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94.うつをどうやって治したの?

Q.うつで入院してます。
拓郎さんは唐揚げ拭いてたとこからどうやって治療したのか教えてください。
2021.04.17 AKNさん(20歳・男性)

A.友人に進められるまま『ゆうメンタルクリニック』へ行きました。そのあたりの事情は院長と対談もしています。


僕は自分で言うのも何ですが、わりとエネルギッシュな野郎です。無料CDを一万枚配るような「変なこと」を昔からやっていました。
こういう「やる気のあるタイプ」というのはうつになりやすいみたいです。もうバンドをやる気は二度とありませんでしたが、有り余るエネルギーのぶつけ先が失われたのも事実でした。

朝起きても目指すものがない。
行く宛ても別に無い。何かを話したいけれど、その心当たりも誰一人としていない。音楽を作る必要も、長時間の遠征も、リリースの納期からも解放された先には、虚無しかありませんでした。

やることがない人生というのは「早く終われよ」と思っているつまらない授業と一緒です。時の流れを早めるのに手っ取り早いのは酒でした。

朝から晩までひたすら飲み続けました。
こうなると記憶が飛び飛びになって、どこからが現実なのか、夢なのかよく分からなくなってきます。

ある日、目覚めると日高屋にいました。左手にから揚げを持って、右手には紙を持ち、拭きまくっていました。医者曰く、当時の僕は「何かを磨く、拭く」という行為に過剰に固執していた可能性が高かったそうです。

思い返しても頼んだ記憶にない明細が、円柱型の透明のアレに突き刺さっているのは不気味でした。金を払うのが悔しくて仕方なかったです。

そこからは吉野家で牛丼を頼んでも箸を動かす気力が湧いてこなかったり、新宿で降りなくちゃいけないのに山手線をぐるぐる回ってしまったり、数メートルの移動に手こずったりと、何にせよ超グズになっていたのです。

「あ、こりゃうつだ」と何となく気付いてはいました。『若きウェルテルの悩み』を読んでいてよかったです。ゲーテには触れておくに越したことないですね。

そのまんま成り行きで僕のバンド暮らしはまた始まりました。そしてjuJoeのおかげで、症状は寛解に向かっていき、まぁマシな日々に手がかかった感じです。

結局治療で言うと、何が良かったのかは未だにわかりません。というより別に今も治っていません。うつには完治はないそうですから。

僕のうつが和らぎだした頃、juJoeは初のレコーディングをすることになります。
秀吉さんという昔からのロックの先輩がレコーディングエンジニアをしていて、そちらまで出向いて録って頂きました。

レコーディングエンジニアという仕事をバンドマンがやることがありますが、わりとこれは当たりが多いです。結局、裏方作業とは言え、クリエイティブな仕事だからです。

表でも裏でも「なんとなくダサい人」というのが音楽業界にはいます。

ブランド品がこれ見よがしなわりに微妙な体型だったり、うんちくを喋る量がすごいのに絶対にオチがなかったり、否定はするわりに代案がゴミ同然だったり、「米津玄師はマジですごい!」という「地球は丸い」ぐらいの話を深掘りもしないで一時間熱弁したり、総じてダサさが『軽薄』なのです。

秀吉さんの楽曲はたくさん発表されていますが、やはり「なんかカッコいい人」なのです。レコーディング機材の価格、部屋のクオリティは高価に越したことありませんが、テクノロジーの進歩により、あまり関係なくなってきました。

僕のキャリアの最高額は横浜のランドマークスタジオです。ここでは『片道4,100円』などを録りました。僕が歌っている隣りの部屋ではYOSHIKIが何かしらしていたのを覚えています。

ランドマークは素晴らしかったですが、秀吉さんによるレコーディングの何倍もする価格を支払って、クソみたいな音になった経験もあります。

やっぱお金よりも「カッコいい人はカッコいいものを作るし、ダサいやつの作るものはなんかダサくなる」のです。

そんなカッコいい秀吉さんのスタジオは超ド級の田舎にあります。体育館みたいな広さのコンビニがワンオペでした。外に出て、夜空を見上げると満天の星空が広がっていました。
都内では味わえない何百万光年の瞬きに照らされているうちに、僕一人がうつだアル中だと騒いでいることが、小さく思えてきました。

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イカレたら病院に行けばいい。投薬でまぁぼちぼち治る。うつは自殺につながる危険性はあるけれど、今すぐに死ぬわけではない。

そんなもんでいいんじゃないでしょうか。

こんな回答ですが相談ください↓

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