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好きなことして生きていなくても別にいいけど、嫌なことしながら死にたくはない

【好きなことして生きていなくても別にいいけど、嫌なことしながら死にたくはない】

座右の銘はいくつもあるが、「こいつだけは譲れん」という類いのものだ。

好きなように生きられるし、好きなように死んだって構わないのだ。みんながみんな、そういうふうにできている。

「何が何でも金がほしい」というならば、そんなに難しくもない。起きている時間すべてを金を増やすための行動、勉強に費やせばいい。何十億は難しいかもしれないが、平均以上を得るならば、成功確率は低くない。

「何が何でも時間がほしい」というならば、すぐにでも叶う。「時は金なり、タイムイズマネー」なる言葉があるのだ。では時間の獲得に躍起になるひとがいても、良いのではないだろうか。『時間の獲得』に対して一心不乱になるのも価値のある生き方かもしれない。

「夢を叶えたい」は難しいときもあるが、「夢を追いたい」ならすぐに叶う。追いかけているあいだは夢を見られる。

何もかも思い通りにはならないが、思う通りに生きることはできるのだ。もちろん思う通りに死ぬこともできる。

客観的に自分を見ると、やはりなかなか自由にできている。ではなぜこうも視野が狭くなるのだろう。

僕たち日本人は学校教育という洗脳を皆が等しく受けているからだ。まずマイノリティになることの怖さだ。
少数になってしまうことに恐怖を感じるのは、生物的本能もあるだろう。しかし学校がそれをブーストさせているのは間違いない。

「起立、礼!」というアクションを揃える行為、閉鎖空間で同じ授業を受けさせ、同じものを食べさせる。自由行動を奪われた数十人に一人の教官があてがわれ、正統性を説き、支配権を持つ。

どんどん孤独が脅威になり、価値観や視野が狭くなるようなシステムになっている。
これには悪意的なものがあるのだろうか、何かの陰謀なのだろうか。

じつはまったくそんなことはない。日本における学校の成り立ちから考えると、じつにシンプルだ。
学校の歴史は案外浅く、明治の最初、1872年だから149年前だ。

日本は明治になり、西洋列強に対抗するために富国強兵を志すようになった。当然、軍律に従わないと隊列も乱れるし、戦果をあげられない。ペリーたちにやられっぱなしになってしまう。

明治生まれの現代っ子たちをソルジャー化するために作られた学校教育は完璧に機能した。

強い精神性を持った子どもたちは、なんと日清日露と勝利を収めた。

日清が明治27年、日露が明治37年だから、ちょうど『学校』の最初の頃に一生懸命やっていたひとたち、YouTubeでいうヒカキンみたいな男たちによって日本は勝ち得たと言える。

では、令和になって150年前のYouTubeは、150年前のInstagramはいるのだろうか。

みんな不要であることは分かりきっているのだが、誰も止めない。めんどくさいからだ。あとは『社畜』の養成機関としてはまぁまぁ機能するからだろうか。単純労働をしまくるタフガイならば、学校で作れる。しかしオワコンであるのは間違いない。

2021年になっても、僕たちは百年前のシステムの中にいる。そのせいで頭が地面にめり込むほど視野が狭い。

本当は自由だし、どこにだって行ける。誰かに後ろ指を刺されたって何も減らない。昔はつまはじきにされたら、食いっぱぐれるけど、今はどこに行ったってそう飢えて死ぬこともない。

価値観のバランスがおかしいまま「自由」の価値が減っている。何にも縛られなくていいはずなのに、どこにも行けなくなっている。

勝手にCDを配っていたらちゃんといろいろ売り出されていった。人生どうにだってなるのだ。 

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